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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第109話 枯れた花

 天界には、今日も穏やかな風が流れていた。


 雲海の向こうから差し込む光が、丘一面に咲く花々を照らしている。


 いつもと変わらない景色だった。


 ――その一角を除けば。


「……フィオ」


 少し先を歩いていたラティスが、不意に足を止めた。


「どうしたの?」


「……あれ」


 声がいつもと違った。


 フィオもその視線を追い、表情を固める。


「……え?」


 白や青の花が風に揺れる中、そこだけが色を失っていた。


 何本もの花が力なく垂れ、乾いた葉が地面へ伏している。


 ラティスはすぐに駆け寄った。


「おい……嘘だろ」


 しゃがみ込み、枯れた茎へ手を伸ばす。


「昨日まで咲いてたよな?」


「……うん。僕も見た」


 フィオも隣へ膝をついた。


「こんな状態じゃなかった」


「じゃあ何で……」


 ラティスが周囲を見回す。


 隣の花は咲いている。


 少し離れた場所も変わらない。


 枯れているのは、この一角だけだった。


 そして二人とも、ここが誰の場所なのかを知っている。


「……シェルが植えた花だよな」


 ラティスの声が低くなった。


 フィオはすぐには答えなかった。


 まだ三人とも幼かった頃。


 丘の向こうで見つけた青い花を、シェルは嬉しそうに眺めていた。


 それから、自分でも育ててみたいと言って、この場所へいくつかの種を植えた。


 芽が出るたびに三人で見に来た。


 最初の花が咲いた時には、シェルが誰よりも喜んでいた。


「……なんで」


 ラティスの手が止まる。


「なんでシェルの花だけなんだよ」


 フィオが震える指先を花へかざした。


 淡い光が枯れた茎から土へ広がっていく。


「フィオ?」


「待って……」


 返事にも、いつもの落ち着きがなかった。


 もう一度確かめる。


 それでも結果は変わらない。


「……ない」


「何が?」


「シェルの光が……ない」


 ラティスが勢いよく振り向いた。


「は?」


「シェルがこの花を植えた時、根付くまで支えるために、自分の光をほんの少し分けてたんだ。だから人間界へ行ってからも、この花だけはシェルの光と僅かに繋がってた。それが……今はない」


「だったら、それが今は……?」


 フィオは答えられなかった。


 唇を僅かに噛む。


「……何か、あったんじゃ」


「やめろ」


 ラティスがすぐに遮った。


「まだそう決まったわけじゃないだろ」


「分かってる。でも……」


「シェルは強いんだぞ」


 そう言ったラティス自身の声が揺れていた。


「人間界で何かあったって、あいつなら……」


 最後まで言葉が続かなかった。


 強いから大丈夫。


 普段なら、それで安心できたかもしれない。


 だが今、二人の目の前では、シェルが大切に育てていた花だけが枯れている。


「……エルシェリア様に知らせよう」


 フィオが立ち上がった。


 その動きにも、普段の余裕はない。


「ああ」


 ラティスもすぐに立つ。


「今すぐだ」


 二人は枯れた花をもう一度だけ振り返ると、走るように丘を離れた。


     ◇


 天座の宮殿へ着いた時、二人はさらに強い異変を感じた。


 普段なら静かな廊下を、大勢の天使が行き交っている。声を潜めて言葉を交わす者もいれば、奥の区画へ急ぐ者もいた。


「何があった?」


 ラティスが近くの天使を呼び止める。


 相手は二人の顔を見ると、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……シェル様に関わる術式が、突然」


「シェルの?」


 フィオの顔色が変わる。


「はい。先ほど……跡形もなく」


 二人はすぐに奥へ向かった。


 白い台座を囲むように、何人もの天使が集まっている。


 その中心にはエルシェリアがいた。傍らには、三大天使のミレイア・セレスとヴァレオン・グランもいる。


「……何度確かめても同じです」


 ミレイアが静かに告げた。


 普段の穏やかな表情にも、今は明らかな緊張が滲んでいる。


 その隣で、ヴァレオンは何もなくなった台座を険しい顔で見つめていた。


「本当に痕跡一つないのですか」


「ありません」


「昨日まで存在していた術式です。何の痕跡も残さず消えるなど……」


「分かっています。ですから、私も何度も確認しています」


「もう一度、調べてください」


 エルシェリアが言った。


「エルシェリア様……」


「どこかに残っているはずです。何かの間違いかもしれません。もう一度調べれば……反応が残っているかもしれないでしょう?」


 誰も返事をしなかった。


 以前そこには、幾重にも重なった光の術式が浮かんでいた。


 シェルが人間界で普通に暮らすため、自らへ施した封印。


 その封印そのものが維持されているかを確認するため、天界側に残されていた連動術式が、今は跡形もなく消えている。


 破壊された痕跡さえない。


「エルシェリア様」


 ヴァレオンが声を落とした。


「どうか、一度落ち着いてください」


「でも……」


「私たちも心配しています」


 ミレイアが続ける。


 そう言う彼女の手も、強く握られていた。


「ですが今は、確認できるものを一つずつ調べるしかありません」


「でも……何も分からないのでしょう?」


「……はい」


 エルシェリアの顔から血の気が引いた。


「シェルは……今、どうなっているんですか?」


 誰も答えられない。


「生きているんですよね?」


「……」


「誰か……答えてください」


「エルシェリア様、落ち着いてください」


 近くにいた天使が声をかけた。


 その声も僅かに震えていた。


「まだ、シェル様に何かあったと決まったわけではありません」


「では、なぜ術式が消えたのですか?」


 エルシェリアの声が強くなる。


「昨日までは、何の異常もなかったのでしょう?」


「はい。ですが――」


「だったら、どうして……!」


 そこで言葉が途切れた。


 エルシェリアが額へ手を当てる。


「……申し訳ありません」


「謝る必要はありません」


 ヴァレオンがすぐに答えた。


 その声にも、普段にはない硬さがあった。


「私も……今すぐ人間界へ降りたい気持ちは同じです」


「ヴァレオン……」


 ミレイアが彼を見る。


「分かっています」


 ヴァレオンは一度目を閉じた。


「だからこそ、今は急いで状況を確かめるべきです」


「エルシェリア様」


 フィオが呼んだ。


 そこでようやく、エルシェリアが二人に気づいた。


「……ラティス。フィオ」


「俺たち、花畑から来た」


 ラティスのいつもの勢いはなかった。


「花畑……?」


 フィオが息を整える。


「シェルが植えた花が……全部、枯れていました」


「……え?」


 エルシェリアだけではない。


 ヴァレオンとミレイアも、二人を見る。


「他の花は何ともありません。シェルが自分で植えて、ずっと世話をしていた花だけです」


「昨日までは普通だった」


 ラティスが続けた。


「それに……」


 フィオの声が僅かに詰まる。


「あの花に残っていたシェルの光も、もう感じない」


 ミレイアが息を呑んだ。


 ヴァレオンの表情がさらに険しくなる。


「……術式だけではないのですか」


「そんな……」


 エルシェリアの足元が揺れた。


「エルシェリア様!」


 ミレイアがすぐに身体を支える。


「大丈夫ですか?」


「……大丈夫、です」


「大丈夫には見えません」


 ミレイアの声も震えていた。


 ミレイアはエルシェリアを支えたまま、近くの椅子へ視線を向ける。


「エルシェリア様。どうか、一度お掛けください」


「いいえ……」


 エルシェリアは首を振った。


 だが、その視線は定まらない。


 何もなくなった台座から、ラティス、フィオ、ヴァレオン、ミレイアへと視線を移す。


 けれど、どこを見ても答えはなかった。


「……どうすれば」


 誰に向けた言葉でもなかった。


「私は……どうすればいいんでしょう」


 宮殿が静まり返る。


 誰よりも多くの天使を導いてきた天座エルシェリアが、今は自ら答えを求めていた。


「……術式に、何か残っていないんですか」


 フィオが尋ねた。


「消える直前の反応とか……」


 ミレイアが僅かに目を見開く。


「……記録」


 ヴァレオンも台座を見る。


「共鳴の記録か」


 一人の天使がすぐに術式の記録を確認する。


「普段、この術式からシェル様の居場所そのものを知ることはできません。ただ……」


 光の記録がいくつも浮かび上がった。


「消失する直前、人間界側と最後に強く共鳴した地点が残っている可能性があります」


「調べてください」


 エルシェリアがすぐに顔を上げた。


「お願いします。その場所を……」


「はい!」


 天使はすぐに作業へ戻った。


     ◇


 間もなく、術式が最後に人間界側と共鳴していた地点が判明した。


「王国領内です」


 人間界の地図が光の中へ浮かび上がる。


 その一点を、天使が指し示した。


「追憶の都と呼ばれる旧跡。その中にある古い神殿の周辺です」


「追憶の都……」


 ラティスが呟く。


「シェルが、どうしてそんな場所に?」


「分かりません」


 また答えはなかった。


 エルシェリアは地図を見つめている。


 やがて、震えていた指をゆっくり握った。


「……行きます」


「エルシェリア様」


「シェルに何が起きたのか……ここにいても分かりません」


「私が行きます」


 その声にはまだ震えが残っていた。


 ミレイアがエルシェリアの前へ回る。


「エルシェリア様。どうか、ここにいてください」


「でも……!」


「お気持ちは分かります」


 ミレイアは静かに首を横へ振った。


「ですが、何が起きているのかも分からない今、天座であるエルシェリア様まで天界を離れるわけにはいきません」


「そんなこと……今は……」


 言い返そうとした声が途中で弱くなる。


「分かっています」


 ミレイアはエルシェリアの手を取った。


「今すぐシェル様のもとへ向かわれたいお気持ちは、分かっています」


「……」


「それでも、今はヴァレオンたちに任せてください。私もここに残ります」


 ミレイアが傍らへ視線を向ける。


 ヴァレオンは静かに頷いた。


「私が先に人間界へ向かいます」


「ヴァレオン……」


「現地を確認し、必ず戻って報告します」


「俺も行く」


 ラティスが一歩前へ出た。


「僕も」


 フィオも続く。


「シェルのことなら、俺たちだって分かる」


「何か残っていれば、僕たちなら気づけるかもしれません」


 エルシェリアは三人を見つめた。


「……私も、行きたいです」


 小さな声だった。


「あの子に何が起きたのか……自分で確かめたい」


「分かっています」


 ミレイアは握った手を離さなかった。


「だからこそ、ここで待ちましょう」


「……」


「エルシェリア様は一人ではありません。私もここに残ります」


 しばらく返事はなかった。


 やがてエルシェリアは目を閉じ、震える息を吐いた。


「……分かりました」


 再び目を開き、ヴァレオン、ラティス、フィオを見る。


「シェルを……見つけてください」


「必ず」


 ヴァレオンが答えた。


 ラティスとフィオも強く頷いた。


     ◇


 準備に時間はかからなかった。


 人間界へ向かうのは、ヴァレオン、ラティス、フィオの三人だけ。


 エルシェリアとミレイアは、その出発を見送るため宮殿の外へ出た。


 やがて三人の前に、人間界へ続く光が開く。


 ラティスが、その光を前に一度だけ振り返った。


「エルシェリア様」


「……はい」


「シェルを見つけたら、絶対連れて帰ってくるから」


 エルシェリアの瞳が揺れた。


「……お願いします」


 フィオも彼女を見る。


「行ってきます」


「……気をつけて」


 最後にヴァレオンが一礼した。


「必ず、状況を確認して戻ります」


 エルシェリアは何度も頷いた。


「お願いします……ヴァレオン」


 三人が人間界へ続く光へ向き直る。


 ヴァレオンが先に踏み込み、その後をラティスとフィオが追った。


 光の向こうへ三人の姿が消えていく。


 やがて、人間界への道が静かに閉じた。


 それでも、エルシェリアはその場から動かなかった。


 つい先ほどまで光があった場所を、ただ見つめ続けている。


 ミレイアも何も言わず、その隣に立っていた。


「……シェル」


 エルシェリアが小さく名前を呼ぶ。


 人間界へ旅立った日の声が、今も耳の奥に残っていた。


『僕、ちゃんと帰ってきます』


 エルシェリアは両手を胸元で強く握った。


「……帰ってきて」


 ミレイアは何も言わず、エルシェリアの肩へそっと手を添えた。


 二人はしばらく、人間界への光が消えた場所を見つめていた。

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