第108話 冥影
研究区画を離れたシェルは、そのまま神殿の出口へ向かっていた。
長い廊下の左右には、いくつもの閉ざされた扉が並んでいる。
その前を通り過ぎようとしたところで、シェルの足が止まった。
「……」
壁のさらに向こうから、複数の人間の気配が伝わってくる。
弱っている者も、魔力を大きく消耗している者もいたが、まだ生きていた。
シェルは目を伏せる。
自ら向かう理由はない。
だが、彼らをこのまま帝国の檻へ残しておく理由もなかった。
再び歩き出し、数歩進んだところで自らの影へ視線を落とす。
「《冥影》よ」
足元の影が揺れた。
「錠だけを壊しなさい」
その影から一つ、また一つと黒い存在が分かれ、瞬く間に数え切れないほどへ増えていく。
ただの黒い染みではない。
ぼやけた輪郭から細長い腕が伸び、その先には爪のように尖った指があった。
人の姿にも、魔物のようにも見える。
だが、そのどちらとも言い切れない。
下半身に脚はなく、黒い煙のように細く揺らめきながら床の影へ溶け込んでいた。
曖昧な姿でありながら、そこには確かな意思がある。
禍々しい影の群れが、シェルの周囲へ広がっていった。
冥影たちは音もなく床へ沈み、壁へ溶け、あるものは天井を這いながら施設の奥へ散っていった。
気配さえ残さない。
シェルはすでに前を向いていた。
◇
「……水……」
掠れた声が、暗い部屋へ落ちた。
部屋には鉄格子の檻がいくつも並び、その中では学院生や王都から連れ去られた人々が、疲れ切った様子で床や壁へ身体を預けていた。
「まだ……誰も来ないのか……」
「分からない……」
「ここから……出られるのかな……」
答えられる者はいない。
重い沈黙だけが、その場を満たしていた。
その時。
――パキン。
「……え?」
小さな音に、一人が顔を上げる。
「今の……」
檻の外を見ると、金属の錠が床へ落ちていた。
「……鍵?」
近くにいた学院生が立ち上がり、鉄格子へ手を掛ける。
恐る恐る押すと、扉は抵抗もなく開いた。
「……開いた」
「なんで……?」
「誰かいるのか?」
周囲を見回す。
だが、誰もいない。
その間にも。
――パキン。
別の檻から同じ音が響いた。
「こっちもだ!」
――パキン。
「また……!」
錠だけが、次々と正確に砕かれていく。
「何が起きてるんだ……」
「分からない……」
やがて最後の錠が床へ落ちた。
その傍らを、一つの黒い影が音もなく滑っていく。
誰一人として、その存在には気づかなかった。
役目を終えた冥影は、床へ沈んでいった。
◇
別の収容区画でも、同じ頃。
鉄格子や魔法錠が、次々と開いていた。
「開いたぞ……!」
「外へ出られる!」
「動ける人から手を貸して!」
捕らわれていた者たちは、互いを支えながら檻の外へ出ていく。
解放した者の姿を見た者はいなかった。
◇
神殿へ続く廊下。
床を這い、壁から滲み、あるいは天井から垂れ落ちるように姿を現した冥影たちは、細長い腕を揺らし、煙のような下半身をたなびかせながら、次々とシェル自身の影へ溶けていった。
やがて最後の冥影が戻る。
影が一度だけ揺れた。
「……」
その直後。
シェルの左手の傍らで空間が歪む。
研究者へ与えた赤黒い血が、一滴の雫となって現れた。
それはシェルの人差し指へ吸い寄せられ、触れた瞬間、指先へ溶け込むように戻っていく。
シェルは、そこへ視線すら向けなかった。
通路の先には、外の光が差し込んでいる。
シェルは歩調を変えることなく、その光へ向かって進んでいった。




