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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第107話 研究の果て

「これ以上、あなたたちを知る必要はなさそうですね」


 その言葉を最後に、シェルは研究者たちから視線を外した。


 身体の周囲に残っていた赤黒い揺らめきが、ゆっくりと濃さを増していく。


「……?」


 研究者たちが身構える。


 だが、魔力は彼らへ向かわなかった。


 シェル自身へまとわりつき、傷んだ白い衣服を覆っていく。


 裂けた布も、乾いた血も、汚れた白も、すべてが赤黒い揺らめきの中へ沈んだ。


 代わって現れたのは、身体に沿う黒衣だった。


 袖口からは素手が覗いている。その上から深い暗赤色の布が首元から肩、胸元へ幾重にも重なり、腰には金属の留め具を備えた黒い帯、肩元には鈍い光を宿す円形の装飾が形づくられていく。


 やがて衣装を覆っていた濃い魔力が収まり、身体の周囲には再び僅かな赤黒い揺らめきだけが残った。


「……」


 誰も言葉を発しない。


 シェルは研究室へ視線を巡らせた。


 一人。


 また一人。


 その視線が、一人の研究者で止まる。


「……っ」


 男の肩が跳ねた。


 反射的に視線を逸らそうとした、その直前。


 シェルの黄金の竜瞳が僅かに細められる。


「――え」


 次の瞬間、シェルの姿が消えた。


 音も、風も、床を蹴った気配さえない。


「どこに――」


 男の声が止まる。


 目の前に、シェルが立っていた。


「……!」


 右手が伸びる。


 素手の指が男の首を掴み、その身体を片手だけで床から持ち上げた。


「ぐっ……! っ……ぁ……!」


 両足が宙を掻く。


 男は必死にシェルの腕へ縋りついた。


「や、やめろ……!」


「離せ!」


 周囲から声が飛ぶ。


 シェルは目の前でもがく男を見たまま、穏やかに口を開いた。


「あなたたちの研究とは、このようなものです」


「……な……にを……」


 シェルは空いている左手を持ち上げ、親指の爪を人差し指の腹へ僅かに滑らせた。


 浅い傷が開き、赤黒い血が滲む。


「……?」


 深い黒を溶かし込んだような色だった。


 シェルは指先へ目を落とし、そこに溜まった一滴を確認する。


「ま、待て……」


 男の声が震えた。


 シェルの指先が首元へ近づく。


 握られた皮膚には、爪によるごく浅い傷があった。


「やめ――」


 一滴。


 赤黒い血が傷口へ触れた。


 雫は皮膚に残らず、そのまま男の内側へ吸い込まれていく。


 シェルの指先では、すでに浅い傷が塞がり始めていた。


 手を離す。


「がっ……!」


 男が床へ落ち、両膝をついて激しく咳き込んだ。


「な……何を……した……」


 シェルから返事はない。


 男が顔を上げる。


「……?」


 右目から、一筋の血が流れた。


「え……」


 続いて左目からも赤い筋が落ちる。


「な……何だ……これ……」


 瞬くたびに血が増えていく。


「ぐっ……! 中が……身体の中が……焼ける……!」


 身体が硬直し、そのまま床へ崩れ落ちた。


「やめろ……! 何だよ、これ……!」


 胸元を掻きむしり、床を這いながら仲間へ手を伸ばす。


「助けて……助けてくれ……!」


 震える指先が宙を掻いた。


 その瞬間、背が大きく反る。


「――ぁ」


 身体の奥から鈍い軋みが響いた。


「あ……ぁ……」


 肩が異様に膨れ上がり、腕が伸び、指が歪む。


 脚の骨格まで、人の形から外れていった。


「いや……だ……」


 血に濡れた目が必死に周囲を探す。


「たす……け……」


 顎が歪む。


 舌も、口も、もう人の言葉を正しく作れない。


「だ……じゅ……」


「だじゅげ……で……」


 それでも男は、最後まで救いを求めようとしていた。


「だじゅげでえぇえええええ――ッ!!」


 それが、男に残された最後の人間の言葉だった。


「――――ッ!!」


 絶叫とともに、身体が一気に膨張した。


 天井へ迫る巨体。


 異様に長い腕。


 床へ食い込む爪。


 頭部には、人間ではあり得ないほど巨大な口が裂けている。


「ば……化け物……」


 一人が後ずさった。


 その瞬間、シェルが静かに口を開く。


「《虚無》」


 闇属性に属する古代魔法。


 その名が静かに告げられた直後、世界からすべての色が消えた。


「……え?」


 研究室がない。


 壁も天井も見えず、足元に確かな感触だけが残っている。


 床の輪郭さえ見えない。


 視界を満たしているのは、果ての見えない闇だけだった。


「な……何だ、ここは……!」


「扉は!?」


「出口はどこだ!」


 研究者たちの声が、何もない空間へ響く。


 光はどこにもない。


 それでも、この場所に閉じ込められた者たちの輪郭だけは、闇の中へ浮かび上がるように見えていた。


 研究者たち。


 異形へ変わった男。


 そして、シェル。


「お、お前……何をした……!」


 シェルは研究者たちと異形へ視線を向けた。


 やがて、穏やかな声が響く。


「あなたたちも同じことを、王都の人間にしてきたはずです」


「……」


「ですから」


 シェルは彼らから視線を外した。


「最後まで、向き合ってください」


「ま、待て……!」


 一人が叫ぶ。


 シェルはそのまま歩き出した。


「待ってくれ!」


「ここから出せ!」


「頼む! 何でもする!」


 一歩ずつ闇の中を進む。


 やがて何もない暗闇の先に、一枚の扉が現れた。


「出口……!」


 一人の研究者が、その扉へ向かって駆け出す。


「開けろ!」


 必死に走る。


 しかし。


「な……」


 距離が縮まらない。


 どれだけ足を動かしても、扉は同じ場所にあり続けている。


「何でだ……!」


「何で近づけないんだ!」


 その横を、シェルだけが何事もないように歩いていく。


「待て……!」


 研究者の顔が引きつった。


 シェルが近づいた時だけ、扉が静かに開く。


「待ってくれえええっ!」


 その背後から、低い唸り声が響いた。


「……ひっ」


 異形が動き始める。


 研究者たちは一斉に走り出した。


 どこへ向かっても壁はない。


 物陰も、別の出口もない。


 逃げ込める場所など、どこにも存在しなかった。


 シェルは一度も振り返らないまま扉を抜ける。


 直後、扉は閉じ、その輪郭ごと闇の中へ消えた。


     ◇


「来るな……」


 一人の研究者が後ろを振り返る。


「来るな!」


 異形の巨体が、闇の中を迫っていた。


「うわあああああっ!!」


 男はただひたすらに走る。


 足元には何かがある。


 何を踏んでいるのかさえ分からない。


 逃げる先もなかった。


 巨大な口が開く。


「待っ――」


 男の上半身が一瞬で呑み込まれた。


「助け――!」


 外に残った両脚が激しく暴れ、次の瞬間にはその身体すべてが異形の口内へ消えていく。


「いやだ……!」


「逃げろ!」


 研究者たちは散り散りに走った。


 どれだけ走っても、景色は何一つ変わらない。


 異形だけが、確実に距離を詰めてくる。


 やがて闇のどこかで、次の悲鳴が上がった。


「くそっ……!」


 ガシスも走り続けていた。


 息が切れ、足が縺れる。


 止まることはできない。


「何なんだよ……!」


 振り返る。


 何もいない。


「……は……」


 ほんの一瞬、表情が緩んだ。


 その直後。


 巨大な顎が足首へ食らいついた。


「――がああああああっ!!」


 身体が倒れ、ガシスは見えない足元へ両手をつく。


「離せ!」


 顎が閉じる。


 鈍い破砕音が響いた。


「があああっ!! 離せええええっ!」


 異形は止まらない。


 脚から少しずつ噛み砕きながら、逃れようとする身体を引き寄せていく。


「誰か!」


 ガシスは何もない闇へ手を伸ばした。


「助けろ! 助けてくれ!」


 返事はない。


 周囲の研究者たちも、自分が逃げるだけで精一杯だった。


 再び、鈍い音が響く。


「やめろ……!」


 見えない足場を掻いていた指が滑った。


「やめろおおおおおっ!!」


 悲鳴が闇の中へ響き渡り――途切れた。


 異形は次の獲物へ向かう。


 どこまで逃げても、終わりは同じだった。


 一人。


 また一人。


 悲鳴が闇へ呑まれていく。


 やがて、何もない空間から助けを求める声は一つも聞こえなくなった。


     ◇


 現実の研究施設では、シェルが薄暗い廊下を一人で歩いていた。


 背後を振り返ることなく、研究区画を離れていった。

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