第107話 研究の果て
「これ以上、あなたたちを知る必要はなさそうですね」
その言葉を最後に、シェルは研究者たちから視線を外した。
身体の周囲に残っていた赤黒い揺らめきが、ゆっくりと濃さを増していく。
「……?」
研究者たちが身構える。
だが、魔力は彼らへ向かわなかった。
シェル自身へまとわりつき、傷んだ白い衣服を覆っていく。
裂けた布も、乾いた血も、汚れた白も、すべてが赤黒い揺らめきの中へ沈んだ。
代わって現れたのは、身体に沿う黒衣だった。
袖口からは素手が覗いている。その上から深い暗赤色の布が首元から肩、胸元へ幾重にも重なり、腰には金属の留め具を備えた黒い帯、肩元には鈍い光を宿す円形の装飾が形づくられていく。
やがて衣装を覆っていた濃い魔力が収まり、身体の周囲には再び僅かな赤黒い揺らめきだけが残った。
「……」
誰も言葉を発しない。
シェルは研究室へ視線を巡らせた。
一人。
また一人。
その視線が、一人の研究者で止まる。
「……っ」
男の肩が跳ねた。
反射的に視線を逸らそうとした、その直前。
シェルの黄金の竜瞳が僅かに細められる。
「――え」
次の瞬間、シェルの姿が消えた。
音も、風も、床を蹴った気配さえない。
「どこに――」
男の声が止まる。
目の前に、シェルが立っていた。
「……!」
右手が伸びる。
素手の指が男の首を掴み、その身体を片手だけで床から持ち上げた。
「ぐっ……! っ……ぁ……!」
両足が宙を掻く。
男は必死にシェルの腕へ縋りついた。
「や、やめろ……!」
「離せ!」
周囲から声が飛ぶ。
シェルは目の前でもがく男を見たまま、穏やかに口を開いた。
「あなたたちの研究とは、このようなものです」
「……な……にを……」
シェルは空いている左手を持ち上げ、親指の爪を人差し指の腹へ僅かに滑らせた。
浅い傷が開き、赤黒い血が滲む。
「……?」
深い黒を溶かし込んだような色だった。
シェルは指先へ目を落とし、そこに溜まった一滴を確認する。
「ま、待て……」
男の声が震えた。
シェルの指先が首元へ近づく。
握られた皮膚には、爪によるごく浅い傷があった。
「やめ――」
一滴。
赤黒い血が傷口へ触れた。
雫は皮膚に残らず、そのまま男の内側へ吸い込まれていく。
シェルの指先では、すでに浅い傷が塞がり始めていた。
手を離す。
「がっ……!」
男が床へ落ち、両膝をついて激しく咳き込んだ。
「な……何を……した……」
シェルから返事はない。
男が顔を上げる。
「……?」
右目から、一筋の血が流れた。
「え……」
続いて左目からも赤い筋が落ちる。
「な……何だ……これ……」
瞬くたびに血が増えていく。
「ぐっ……! 中が……身体の中が……焼ける……!」
身体が硬直し、そのまま床へ崩れ落ちた。
「やめろ……! 何だよ、これ……!」
胸元を掻きむしり、床を這いながら仲間へ手を伸ばす。
「助けて……助けてくれ……!」
震える指先が宙を掻いた。
その瞬間、背が大きく反る。
「――ぁ」
身体の奥から鈍い軋みが響いた。
「あ……ぁ……」
肩が異様に膨れ上がり、腕が伸び、指が歪む。
脚の骨格まで、人の形から外れていった。
「いや……だ……」
血に濡れた目が必死に周囲を探す。
「たす……け……」
顎が歪む。
舌も、口も、もう人の言葉を正しく作れない。
「だ……じゅ……」
「だじゅげ……で……」
それでも男は、最後まで救いを求めようとしていた。
「だじゅげでえぇえええええ――ッ!!」
それが、男に残された最後の人間の言葉だった。
「――――ッ!!」
絶叫とともに、身体が一気に膨張した。
天井へ迫る巨体。
異様に長い腕。
床へ食い込む爪。
頭部には、人間ではあり得ないほど巨大な口が裂けている。
「ば……化け物……」
一人が後ずさった。
その瞬間、シェルが静かに口を開く。
「《虚無》」
闇属性に属する古代魔法。
その名が静かに告げられた直後、世界からすべての色が消えた。
「……え?」
研究室がない。
壁も天井も見えず、足元に確かな感触だけが残っている。
床の輪郭さえ見えない。
視界を満たしているのは、果ての見えない闇だけだった。
「な……何だ、ここは……!」
「扉は!?」
「出口はどこだ!」
研究者たちの声が、何もない空間へ響く。
光はどこにもない。
それでも、この場所に閉じ込められた者たちの輪郭だけは、闇の中へ浮かび上がるように見えていた。
研究者たち。
異形へ変わった男。
そして、シェル。
「お、お前……何をした……!」
シェルは研究者たちと異形へ視線を向けた。
やがて、穏やかな声が響く。
「あなたたちも同じことを、王都の人間にしてきたはずです」
「……」
「ですから」
シェルは彼らから視線を外した。
「最後まで、向き合ってください」
「ま、待て……!」
一人が叫ぶ。
シェルはそのまま歩き出した。
「待ってくれ!」
「ここから出せ!」
「頼む! 何でもする!」
一歩ずつ闇の中を進む。
やがて何もない暗闇の先に、一枚の扉が現れた。
「出口……!」
一人の研究者が、その扉へ向かって駆け出す。
「開けろ!」
必死に走る。
しかし。
「な……」
距離が縮まらない。
どれだけ足を動かしても、扉は同じ場所にあり続けている。
「何でだ……!」
「何で近づけないんだ!」
その横を、シェルだけが何事もないように歩いていく。
「待て……!」
研究者の顔が引きつった。
シェルが近づいた時だけ、扉が静かに開く。
「待ってくれえええっ!」
その背後から、低い唸り声が響いた。
「……ひっ」
異形が動き始める。
研究者たちは一斉に走り出した。
どこへ向かっても壁はない。
物陰も、別の出口もない。
逃げ込める場所など、どこにも存在しなかった。
シェルは一度も振り返らないまま扉を抜ける。
直後、扉は閉じ、その輪郭ごと闇の中へ消えた。
◇
「来るな……」
一人の研究者が後ろを振り返る。
「来るな!」
異形の巨体が、闇の中を迫っていた。
「うわあああああっ!!」
男はただひたすらに走る。
足元には何かがある。
何を踏んでいるのかさえ分からない。
逃げる先もなかった。
巨大な口が開く。
「待っ――」
男の上半身が一瞬で呑み込まれた。
「助け――!」
外に残った両脚が激しく暴れ、次の瞬間にはその身体すべてが異形の口内へ消えていく。
「いやだ……!」
「逃げろ!」
研究者たちは散り散りに走った。
どれだけ走っても、景色は何一つ変わらない。
異形だけが、確実に距離を詰めてくる。
やがて闇のどこかで、次の悲鳴が上がった。
「くそっ……!」
ガシスも走り続けていた。
息が切れ、足が縺れる。
止まることはできない。
「何なんだよ……!」
振り返る。
何もいない。
「……は……」
ほんの一瞬、表情が緩んだ。
その直後。
巨大な顎が足首へ食らいついた。
「――がああああああっ!!」
身体が倒れ、ガシスは見えない足元へ両手をつく。
「離せ!」
顎が閉じる。
鈍い破砕音が響いた。
「があああっ!! 離せええええっ!」
異形は止まらない。
脚から少しずつ噛み砕きながら、逃れようとする身体を引き寄せていく。
「誰か!」
ガシスは何もない闇へ手を伸ばした。
「助けろ! 助けてくれ!」
返事はない。
周囲の研究者たちも、自分が逃げるだけで精一杯だった。
再び、鈍い音が響く。
「やめろ……!」
見えない足場を掻いていた指が滑った。
「やめろおおおおおっ!!」
悲鳴が闇の中へ響き渡り――途切れた。
異形は次の獲物へ向かう。
どこまで逃げても、終わりは同じだった。
一人。
また一人。
悲鳴が闇へ呑まれていく。
やがて、何もない空間から助けを求める声は一つも聞こえなくなった。
◇
現実の研究施設では、シェルが薄暗い廊下を一人で歩いていた。
背後を振り返ることなく、研究区画を離れていった。




