第106話 神話の翼
「それが、僕の名前です」
穏やかな声が、静まり返った部屋へ落ちた。
「……シェル……ユヴィナ……?」
一人の研究者が、その名を繰り返す。
直後、表情が変わった。
「待て……」
「どうした?」
「その名前……」
男は黒髪の少年から目を離さない。
「どこかで……いや……」
掠れた声。
やがて、思い当たったように息を呑んだ。
「神殿だ……」
「神殿?」
「古い神殿に残されている名だ。天使の……」
別の研究者も目を見開く。
「シェル・ユヴィナ……まさか……」
人間界に残る古い信仰や伝承。
神殿には、神託や伝承をもとに形づくられた天使の姿とともに、シェル・ユヴィナという名も残されていた。
だが、それはあくまで信仰の中にあるもの。
天使という種族が実在すると、学術的に証明されたことはない。
「馬鹿な……」
一人が首を振った。
「そんなはずがない」
「……」
「天使など……神話の存在だぞ」
シェルは何も言わない。
「それに……お前は学院の生徒だ」
研究者が声を強める。
「ユウ・リシェル。王立魔法学院の一年生。調査もしている」
「ええ」
シェルは静かに答えた。
「学院では、ユウ・リシェルと名乗っています」
「なら……!」
黄金の竜瞳が、その男へ向けられる。
声の調子は、先ほどまでと変わらない。
「……現実を受け止められないのですね」
「な……」
研究者の顔が引きつる。
「名前が同じなだけだ……!」
男は、言い聞かせるように続ける。
「何らかの理由で伝承を知っていた。それだけだ」
誰も反論しない。
そうであってほしい。
その思いだけが、部屋にいる者たちの間へ広がっていた。
「証拠は……」
一人が口を開く。
「証拠はあるのか」
シェルの黄金の瞳が、その男へ向けられる。
「僕が天使だという証拠ですか?」
「……そうだ」
僅かな沈黙。
シェルは椅子の肘掛けへ視線を落とした。
そこには、すでに役目を失った拘束具が残されている。
割れた金属。
千切れた革。
彼を縛るものは、もう何もなかった。
「そこまで気になるのでしたら」
両足を床につけ、ゆっくりと立ち上がる。
「見せた方が早いですね」
「……何を……」
研究者の声が止まった。
シェルの背後で、空間が僅かに揺らぐ。
「……?」
誰かが目を凝らした。
最初に現れたのは。
光だった。
眩いほどの。
純白。
「……まさか」
シェルの背から白い光が左右へ広がり、形を成していく。
一枚。
さらに一枚。
幾重もの羽根。
やがて、その全貌が現れた。
「……翼……」
声が漏れる。
純白の翼。
少年の背から左右へ優雅に広がり、羽根の一枚一枚が淡い光を纏っている。
研究者たちは言葉を失った。
古い壁画。
神殿の彫刻。
伝承の中でのみ語られてきた存在。
その象徴が、今、目の前にある。
「天……使……」
ようやく、その言葉が零れた。
「本当に……」
シェルは答えない。
純白の翼を広げたまま、静かに立っている。
その姿は、神殿や伝承の中で語られてきた天使という存在そのものを思わせた。
だが。
異変は、すぐに始まった。
「……?」
息を呑む音がした。
「翼が……」
純白の羽根。
その根元に、一点の黒が現れる。
そこへ暗い赤が重なった。
「な……」
赤黒い色が、ゆっくりと広がっていく。
翼の根元から外側へ。
羽根の白さが、内側から次々と塗り替えられていった。
「何だ……あれは……」
一枚。
また一枚。
純白だった羽根が、深い黒と血を思わせる暗い赤へ変わっていく。
誰も動けなかった。
やがて、最後まで残っていた白い羽根からも純白が失われた。
そこには、すっかり色を変えた翼が広がっていた。
形だけを見れば、紛れもなく天使の翼だった。
それなのに、人々が信仰の中で思い描いてきたものとは、あまりにも違う。
「ひっ……」
一人が後ずさる。
踵が床へ散らばっていた金属片へ触れ、身体が崩れた。
男はそのまま床へ尻をつき、慌てて手をつく。
腕は震え、身体を支えきれない。
シェルはただ、翼を広げて立っていた。
それだけで、男は顔を上げることさえできなかった。
「……どうして……」
別の研究者が、震える声を漏らす。
「天使の翼が……そんな色に……」
シェルはゆっくりと自らの翼へ視線を向けた。
黄金の竜瞳が、羽根の根元から先端までを静かに追っていく。
かつては純白だった翼。
今は、一枚の白さえ残っていない。
まるで自分の身に起きた変化を、一つの事実として確かめるように。
「……これが、今の僕ですか」
やがて、その視線が研究者たちへ戻る。
怯えた者たち。
自分へ闇を流し込んだ者たち。
人の心核を弄び、攫った者たちの一部を魔物へ変え、そのまま戦場へ投入しようとしていた者たち。
そして、自分自身をも研究材料として扱った者たち。
かつてシェルは、この世界を見るため、自らの力を封じてまで人間界へ降りた。
黄金の竜瞳が、研究者たちを順に捉えていく。
「人間を理解したいと思っていました」
「……」
誰一人として答えない。
シェルは少し間を置いた。
「ですが……ここで見るべきものは、もう十分に見ました」
翼がかすかに揺らいだ。
羽根の輪郭が一枚、また一枚とほどけ、やがてその姿は揺らめくオーラへと変わっていく。
形を失った力は、シェルの身体に沿って静かに広がった。
肩から腕へ、腰から脚へ。
全身を淡く包み込んだ揺らめきは、次第にその内側へ溶け込むように薄れていった。
研究者たちは、ただその光景を見つめていた。
やがて最後の揺らめきも収まり、背中にはもう翼の姿はなかった。
身体の周囲には、ごく僅かな魔力の気配だけが残っている。
そこに立っているのは、傷んだ白い衣服を纏った黒髪の少年だった。
黄金の竜瞳が、研究者たちを映している。
それでも、誰一人として動こうとはしなかった。
シェルは穏やかな声のまま告げた。
「これ以上、あなたたちを知る必要はなさそうですね」




