第105話 黄金の竜眼
部屋の中央には、赤黒い魔力だけが残っていた。
向こう側は見えない。ユウの姿も椅子も拘束具も、すべてが禍々しい揺らめきの内側へ隠されている。
「……動きは?」
「ありません」
「心核は」
「反応しています。ですが……やはり数値は読めません」
研究者たちは距離を取ったまま、その塊を見つめていた。誰も近づこうとはしない。
先ほどまで、自分たちが闇を流し込んでいた少年が確かにそこにいた。
それなのに今は、その中で何が起きているのかさえ分からない。
「……終わったのか?」
「分かりません」
「記録を続けろ」
「はい」
短いやり取りのあと、再び部屋を静寂が支配した。
その時だった。
「……?」
一人の研究者が目を細める。
「待ってください」
「何だ?」
「魔力が……」
赤黒い揺らめきが、ゆっくりと動き始めていた。
「薄くなっている?」
「違います」
別の者が首を振る。
「消えているんじゃない」
広がっていた魔力の外縁が、少しずつ縮んでいく。
中心へ戻っていた。
「収束している……?」
霧のように満ちていた赤黒い魔力が、一筋ずつ内側へ引かれていく。
消滅しているわけではない。
そのすべてが、少年のいる場所へ戻っている。
「全員、そのまま動くな」
低い声が飛んだ。
「対象から目を離すな」
返事はなかった。
誰もが、目の前の異変を見つめている。
赤黒い魔力がさらに縮んでいく。
やがて、その下から床が現れた。
続いて椅子の脚。
そして、床へ散らばる金属片。
「拘束具が……」
腕を固定していたはずの金具だった。割れた留め具と千切れた革、足元にも壊れた拘束具が転がっている。
「いつ壊れた……?」
「確認できていません」
「魔力に覆われてからだ……」
誰にも答えは分からなかった。
赤黒い揺らめきは、何事もなかったかのように胸元へ戻り続ける。
さらに魔力が引き、少年の足が見えた。
衣服は変わっていない。
汚れた白い布。拷問によって裂けた箇所。乾いた血の跡。
そこだけは、あの時のままだった。
しかし。
「……傷が」
誰かの声が止まる。
露出している肌に、傷がない。
切られた痕も、火傷も、赤く腫れていた箇所さえ見当たらなかった。
「再生……した?」
「そんな術式は使っていない」
「意識が戻った様子も確認できていないぞ」
赤黒い魔力が腰から引き、腕が現れた。
「……」
一人が息を呑む。
あれほど炎に炙られていた腕にも、何一つ残っていない。
焼けた痕も、裂けた傷も、すべて消えていた。
まるで、初めから傷ついてなどいなかったかのように。
「あり得ない……」
研究者の声が掠れた。
赤黒い魔力はさらに胸へ戻り、肩から首、顔へと、覆われていた少年の姿を少しずつ露わにしていく。
「首の傷も……」
消えていた。
ガシスの刃が触れた場所にも、痕一つ残っていない。
「……」
壁際にいたガシスも、口を閉ざしていた。
彼だけはよく知っている。
どこへ刃を当てたのか。
どこまで腕を炙ったのか。
左目を、どれほど傷つけたのか。
自分の手で与えた傷だった。見間違えるはずがない。
そのすべてが消えている。
ガシスは何も言わず、椅子に座る少年を見つめていた。
そして、赤黒い魔力が頭部からも退いていった。
「……髪……?」
誰かが呟く。
最初に見えた一房は――
黒。
さらに魔力が引く。
その下から現れる髪も黒い。
「金色じゃ……ない」
部屋へ連れてこられた時、少年の髪は淡い金色だった。
だが今、そこにあるのは光を吸い込むような黒髪だった。
「変色……?」
「それだけじゃない」
一人が掠れた声で言う。
「顔を見ろ……」
少年は、まだ目を閉じたまま頭を垂れている。
左側の顔にも、刃で傷つけられた痕跡は残っていない。瞼も、その周囲の皮膚も、右側と変わらなかった。
「傷が……全部……」
白いフード衣装に残る汚れや破れ、血痕だけが、そのまま残されていた。
赤黒い魔力は、今や少年の胸元にわずかに残るだけだった。
「……戻っている」
「どこへ?」
「胸元へ……」
あれほど部屋を覆っていた魔力が、一筋、また一筋と少年の胸へ戻っていく。
やがて最後の大きな揺らめきも胸元へ収まり、部屋を満たしていた魔力のほとんどが少年の内側へ戻った。
残るのは、身体の周囲を漂うごく僅かな赤黒い揺らめきだけ。
その向こうには、砕けた拘束具と傷んだ白い衣服、そして椅子に座る黒髪の少年がいた。
「……」
誰も声を出さない。
少年も動かない。
「……生きているのか?」
ようやく、誰かが声を絞り出した。
「生命反応は……」
研究者が確認しようとした。
その瞬間。
少年の指が動いた。
ほんの僅かに。
「……!」
研究者たちの動きが止まった。
俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
黒い前髪が揺れた。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。
黄金。
深く澄み切った金色。
その中心には、細長い瞳孔が縦に伸びていた。
「……左目……」
誰かが掠れた声を漏らす。
傷つけられ、視力を失っていたはずの左目。
そこにも傷はない。
右目と同じ黄金色。
同じ縦長の瞳孔。
二つの竜瞳が、目の前にいる研究者たちを一人ずつゆっくりと捉えていく。
その視線を受けた一人が、無意識に一歩後ろへ下がった。
「……お前……」
声が震えていた。
少年は何も答えない。
「お前は……何者なんだ……?」
問いだけが、静まり返った部屋へ落ちた。
「……」
その研究者へ視線が止まる。
しばらく相手を見つめたあと、少年は口を開いた。
「シェル・ユヴィナ……」
一度、言葉を切る。
「それが、僕の名前です」




