第104話 最後の天使(番外編 天界6話)
それから、長い年月が流れた。
かつて雲の下の世界を眺めていた少年は、ついにその場所へ向かう日を迎えていた。
◇
白い光が揺れている。
シェルの胸元。
術式によって可視化された、一つの心核。
曇りも、混じり気もない。
どこまでも澄み切った純白だった。
「……相変わらず、すごいな」
ラティスが呟く。
フィオも隣で、その輝きを見つめていた。
「何度見ても慣れないね」
「そんなにかな……」
シェルは困ったように口元を緩めた。
心核。
魔力、感情、生命、記憶――その者自身を形作る核。
中でもシェルの《神核》は、天使たちの心核の中で最も純白の輝きを持つ。
他の色が入り込む余地さえないほど澄み切った、彼自身の心を映すような光だった。
「状態に問題はありません」
エルシェリアが術式を確認する。
「ですが、封じる範囲は慎重に」
「はい」
今日は、人間界へ降りる日だった。
何度も見下ろしてきた雲の下の世界。
人が暮らし、町があり、知らない文化と日々がある場所。
ずっと、自分の目で見てみたかった。
「本当にやるんだな」
「うん。でも今のままじゃ、普通には暮らせないから」
天界で抑えている今でさえ、人間界で暮らすには強すぎる力。
莫大な魔力と高度な魔法知識。
中でも光魔法は、人間界のものとは大きな隔たりがあった。
だからシェル自身が選んだ。
さらに深く、自らを封じることを。
「残している魔力の大部分を閉じます。高度な魔法知識と技術、とりわけ光魔法に関する術式や理論も、容易には引き出せない場所へ」
「はい」
「翼も封じます。ただし、あなた自身の記憶には触れません」
「……それでいいです」
天界で過ごした時間も、自分がシェル・ユヴィナであることも、忘れるつもりはない。
失うためではなく、人間界で生きるために力と知識へ一時的に鍵を掛けるだけだった。
「そこまでして行きたいの?」
フィオが尋ねる。
「うん。僕、自分で見てみたいんだ。人間界で暮らす人たちが、何を見て、何を考えて生きてるのか」
ラティスが片方の眉を上げる。
「本で読むだけじゃ、やっぱり足りないってわけか」
「うん」
「でもさ。向こうでも、そのままシェル・ユヴィナって名乗るのか?」
「え?」
「お前の名前、人間界にも残ってるだろ。前に見た神殿にも刻まれてたじゃん」
「あ……それは覚えてるよ!」
「今の間は怪しかったけどな」
「もう……」
フィオが小さく息を漏らした。
「普通に暮らしたいなら、別の名前の方がいいかもしれないね」
「……うん。それも考えてあるよ」
シェルは少し照れたように視線を逸らす。
「天界の書庫で、いろんな世界の言葉を読んだことがあるでしょ?」
「ああ」
「その中に、地球って呼ばれている世界があって」
空中に、一つの文字を描く。
優。
「その世界の、ある国で使われている文字なんだ。『優しい』っていう言葉に使われる」
フィオが文字を見つめ、ラティスもその一文字へ目を向けた。
「その字には、いくつか読み方があるでしょ?」
「ああ」
「前に話した、僕が一番好きな読み。あれを名前に使おうと思ってる」
フィオが目を細める。
「一番好きだって言ってた、あの読み?」
「うん」
ラティスがにやりとした。
「自分で『優しい』を選ぶんだ?」
「そういう意味じゃないよ!」
シェルは慌てて否定し、空中の文字へ目を戻した。
「ただ……好きなんだ。この文字が。向こうへ行っても、誰かに優しくできる自分でいたいから」
力や強さより、誰かを大切にできること。
そんな自分でありたいと、シェルは願っていた。
「家名もあるの?」
「うん。『もう一度』『再び』って意味の言葉と、僕自身の名前を重ねたんだ」
「再び……シェル?」
「うん」
シェルの表情が和らぐ。
「人間界へ行って、知らないものを見て、知らない人と出会って。でも、いつかちゃんと帰ってくる。この場所へ、再びシェルとして。そういう意味を込めたんだ」
「……お前らしいな」
「僕も好きだよ」
「よかった……」
◇
「シェル。準備を」
「はい」
シェルは術式の中央へ立った。
神核が胸元へ浮かび上がり、幾重もの光の輪が展開される。
目を閉じる。
魔力。
高度な魔法知識と技術。
光魔法の術式と理論。
そして、翼。
一つずつ、深い場所へ鍵を掛けていく。
「……っ」
巨大な力が遠ざかる。
術式は手の届かない場所へ沈み、翼の感覚も薄れていった。
なくなったわけではない。
自分の中にはある。
今は、そこへ手が届かないだけ。
やがて光の輪が消えた。
「……終わった?」
「……うん」
当たり前だった力が遠い。
「これなら、人間界でも普通に暮らせると思う」
「普通、ねえ」
「何?」
「お前がどこまで普通にできるのかなって」
「できるよ!」
「はいはい」
「もう……」
三人にとって、いつものやり取りだった。
その時。
人間界へ続く光が開き始める。
同時に、見送りのため遠方で待機していた天使たちが動き出した。
数十。
さらにその向こうには、数え切れないほどの天使たちがいる。
彼らは次々と、光へ続く道の両側へ並んでいった。
見知った顔も、ほとんど言葉を交わしたことのない者もいた。
一人の天使が翼を広げる。
続いて、その隣も。
さらに向こうも。
純白の翼が次々と開き、道の両側を無数の白が埋め尽くした。
「……すごい」
「どうか、お気をつけて」
「また天界でお会いしましょう」
「お帰りを、お待ちしております」
「……ありがとう」
シェルは深く頭を下げた。
顔を上げると、純白の翼の向こうにラティスとフィオがいた。
「なあ、シェル」
「ん?」
「帰ってきたらさ、また三人でどっか行こうぜ」
フィオも頷く。
「今度は、人間界で見てきたものも聞かせてね」
昔、三人で知らない場所を歩き、次も一緒に来ようと約束した。
長い年月が過ぎても、二人は変わらずそこにいた。
「……うん。約束」
「ああ」
「約束だよ」
あまりにも当たり前の言葉。
だからこそ、大切だった。
「シェル」
振り返る。
純白の翼が並ぶ中を、エルシェリアが歩いてきた。
天座としてではない。
遠い場所へ向かう息子を見る、一人の母親の目だった。
「……母上?」
エルシェリアはシェルの前まで来ると、幼い頃にしていたように金色の前髪を整えた。
「向こうへ行けば、楽しいことばかりではありません。思い通りにならないことも、きっとあるでしょう」
「……はい」
その手が頬へ移る。
「一人で何もかも背負おうとしないこと。困った時は、誰かを頼っていいのです」
「……」
「あなたは昔から、誰かのためなら無理をしてしまいますから」
「そんなにしてるかな」
「しています」
即答だった。
ラティスが小さく息を吐く。
「……してるだろ」
「ラティスまで?」
エルシェリアはシェルから視線を外さない。
「本人に自覚がないところまで含めて、です」
「……もう」
その手は、まだ息子の頬に添えられている。
「シェル」
「はい」
「どれだけ遠くへ行っても、あなたが帰る場所はここにもあります」
「……」
「それだけは、忘れないで」
シェルは目を伏せる。
「……母上」
「はい」
「僕、ちゃんと帰ってきます」
エルシェリアは息子の言葉をそのまま受け止め、最後に一度だけ金色の髪を撫でた。
「ええ。行ってらっしゃい、シェル」
「……はい。行ってきます、母上」
シェルは前を向いた。
純白の翼が並ぶ道。
その先に、人間界へ続く光が待っている。
一歩。
また一歩。
途中で足を止め、振り返った。
幾重にも並ぶ純白の翼。
その中央にいる母。
一番近くに立つ二人の親友。
そのすべてを、目に焼きつける。
「また戻ってくるから」
「分かってるよ」
「待ってるからね」
「うん」
もう一度、天界を見渡した。
ここで過ごした日々を忘れないように。
そして再び前を向く。
人間界へ続く光の中へ、一歩を踏み出した。
白い輝きが、その姿を包んでいく。
見送る天使たちは、ただその背中を見つめていた。
その中で。
二つの声だけが、最後にシェルの背中へ届いた。
「またね――ユウ」




