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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第104話 最後の天使(番外編 天界6話)

 それから、長い年月が流れた。


 かつて雲の下の世界を眺めていた少年は、ついにその場所へ向かう日を迎えていた。


     ◇


 白い光が揺れている。


 シェルの胸元。

 術式によって可視化された、一つの心核。


 曇りも、混じり気もない。

 どこまでも澄み切った純白だった。


「……相変わらず、すごいな」


 ラティスが呟く。

 フィオも隣で、その輝きを見つめていた。


「何度見ても慣れないね」

「そんなにかな……」


 シェルは困ったように口元を緩めた。


 心核。

 魔力、感情、生命、記憶――その者自身を形作る核。


 中でもシェルの《神核》は、天使たちの心核の中で最も純白の輝きを持つ。


 他の色が入り込む余地さえないほど澄み切った、彼自身の心を映すような光だった。


「状態に問題はありません」


 エルシェリアが術式を確認する。


「ですが、封じる範囲は慎重に」

「はい」


 今日は、人間界へ降りる日だった。


 何度も見下ろしてきた雲の下の世界。

 人が暮らし、町があり、知らない文化と日々がある場所。


 ずっと、自分の目で見てみたかった。


「本当にやるんだな」

「うん。でも今のままじゃ、普通には暮らせないから」


 天界で抑えている今でさえ、人間界で暮らすには強すぎる力。


 莫大な魔力と高度な魔法知識。

 中でも光魔法は、人間界のものとは大きな隔たりがあった。


 だからシェル自身が選んだ。

 さらに深く、自らを封じることを。


「残している魔力の大部分を閉じます。高度な魔法知識と技術、とりわけ光魔法に関する術式や理論も、容易には引き出せない場所へ」

「はい」

「翼も封じます。ただし、あなた自身の記憶には触れません」

「……それでいいです」


 天界で過ごした時間も、自分がシェル・ユヴィナであることも、忘れるつもりはない。


 失うためではなく、人間界で生きるために力と知識へ一時的に鍵を掛けるだけだった。


「そこまでして行きたいの?」


 フィオが尋ねる。


「うん。僕、自分で見てみたいんだ。人間界で暮らす人たちが、何を見て、何を考えて生きてるのか」


 ラティスが片方の眉を上げる。


「本で読むだけじゃ、やっぱり足りないってわけか」

「うん」


「でもさ。向こうでも、そのままシェル・ユヴィナって名乗るのか?」

「え?」

「お前の名前、人間界にも残ってるだろ。前に見た神殿にも刻まれてたじゃん」

「あ……それは覚えてるよ!」

「今の間は怪しかったけどな」

「もう……」


 フィオが小さく息を漏らした。


「普通に暮らしたいなら、別の名前の方がいいかもしれないね」

「……うん。それも考えてあるよ」


 シェルは少し照れたように視線を逸らす。


「天界の書庫で、いろんな世界の言葉を読んだことがあるでしょ?」

「ああ」

「その中に、地球って呼ばれている世界があって」


 空中に、一つの文字を描く。


 優。


「その世界の、ある国で使われている文字なんだ。『優しい』っていう言葉に使われる」


 フィオが文字を見つめ、ラティスもその一文字へ目を向けた。


「その字には、いくつか読み方があるでしょ?」

「ああ」

「前に話した、僕が一番好きな読み。あれを名前に使おうと思ってる」


 フィオが目を細める。


「一番好きだって言ってた、あの読み?」

「うん」


 ラティスがにやりとした。


「自分で『優しい』を選ぶんだ?」

「そういう意味じゃないよ!」


 シェルは慌てて否定し、空中の文字へ目を戻した。


「ただ……好きなんだ。この文字が。向こうへ行っても、誰かに優しくできる自分でいたいから」


 力や強さより、誰かを大切にできること。


 そんな自分でありたいと、シェルは願っていた。


「家名もあるの?」

「うん。『もう一度』『再び』って意味の言葉と、僕自身の名前を重ねたんだ」

「再び……シェル?」

「うん」


 シェルの表情が和らぐ。


「人間界へ行って、知らないものを見て、知らない人と出会って。でも、いつかちゃんと帰ってくる。この場所へ、再びシェルとして。そういう意味を込めたんだ」

「……お前らしいな」

「僕も好きだよ」

「よかった……」


     ◇


「シェル。準備を」

「はい」


 シェルは術式の中央へ立った。


 神核が胸元へ浮かび上がり、幾重もの光の輪が展開される。


 目を閉じる。


 魔力。

 高度な魔法知識と技術。

 光魔法の術式と理論。

 そして、翼。


 一つずつ、深い場所へ鍵を掛けていく。


「……っ」


 巨大な力が遠ざかる。


 術式は手の届かない場所へ沈み、翼の感覚も薄れていった。


 なくなったわけではない。

 自分の中にはある。


 今は、そこへ手が届かないだけ。


 やがて光の輪が消えた。


「……終わった?」

「……うん」


 当たり前だった力が遠い。


「これなら、人間界でも普通に暮らせると思う」

「普通、ねえ」

「何?」

「お前がどこまで普通にできるのかなって」

「できるよ!」

「はいはい」

「もう……」


 三人にとって、いつものやり取りだった。


 その時。

 人間界へ続く光が開き始める。


 同時に、見送りのため遠方で待機していた天使たちが動き出した。


 数十。


 さらにその向こうには、数え切れないほどの天使たちがいる。


 彼らは次々と、光へ続く道の両側へ並んでいった。


 見知った顔も、ほとんど言葉を交わしたことのない者もいた。


 一人の天使が翼を広げる。


 続いて、その隣も。

 さらに向こうも。


 純白の翼が次々と開き、道の両側を無数の白が埋め尽くした。


「……すごい」


「どうか、お気をつけて」

「また天界でお会いしましょう」

「お帰りを、お待ちしております」


「……ありがとう」


 シェルは深く頭を下げた。


 顔を上げると、純白の翼の向こうにラティスとフィオがいた。


「なあ、シェル」

「ん?」

「帰ってきたらさ、また三人でどっか行こうぜ」


 フィオも頷く。


「今度は、人間界で見てきたものも聞かせてね」


 昔、三人で知らない場所を歩き、次も一緒に来ようと約束した。


 長い年月が過ぎても、二人は変わらずそこにいた。


「……うん。約束」

「ああ」

「約束だよ」


 あまりにも当たり前の言葉。

 だからこそ、大切だった。


「シェル」


 振り返る。


 純白の翼が並ぶ中を、エルシェリアが歩いてきた。


 天座としてではない。

 遠い場所へ向かう息子を見る、一人の母親の目だった。


「……母上?」


 エルシェリアはシェルの前まで来ると、幼い頃にしていたように金色の前髪を整えた。


「向こうへ行けば、楽しいことばかりではありません。思い通りにならないことも、きっとあるでしょう」

「……はい」


 その手が頬へ移る。


「一人で何もかも背負おうとしないこと。困った時は、誰かを頼っていいのです」

「……」

「あなたは昔から、誰かのためなら無理をしてしまいますから」

「そんなにしてるかな」

「しています」


 即答だった。


 ラティスが小さく息を吐く。


「……してるだろ」

「ラティスまで?」


 エルシェリアはシェルから視線を外さない。


「本人に自覚がないところまで含めて、です」

「……もう」


 その手は、まだ息子の頬に添えられている。


「シェル」

「はい」

「どれだけ遠くへ行っても、あなたが帰る場所はここにもあります」

「……」

「それだけは、忘れないで」


 シェルは目を伏せる。


「……母上」

「はい」

「僕、ちゃんと帰ってきます」


 エルシェリアは息子の言葉をそのまま受け止め、最後に一度だけ金色の髪を撫でた。


「ええ。行ってらっしゃい、シェル」

「……はい。行ってきます、母上」


 シェルは前を向いた。


 純白の翼が並ぶ道。

 その先に、人間界へ続く光が待っている。


 一歩。

 また一歩。


 途中で足を止め、振り返った。


 幾重にも並ぶ純白の翼。

 その中央にいる母。

 一番近くに立つ二人の親友。


 そのすべてを、目に焼きつける。


「また戻ってくるから」

「分かってるよ」

「待ってるからね」

「うん」


 もう一度、天界を見渡した。


 ここで過ごした日々を忘れないように。


 そして再び前を向く。


 人間界へ続く光の中へ、一歩を踏み出した。


 白い輝きが、その姿を包んでいく。


 見送る天使たちは、ただその背中を見つめていた。


 その中で。


 二つの声だけが、最後にシェルの背中へ届いた。


「またね――ユウ」

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