9話「過去と夢と今と」
埃のにおいがしない。だから、これが夢だとすぐに分かった。屋根裏の薄暗がり、木製の壁の隙間から空を見上げている少女がいる。
ああ、これは過去の自分だ。そう気づいた瞬間、胸の奥がちり、と痛んだ。
あの頃、流れ星に祈りと願いを伝えると叶うという話を信じて、よく探していた。
「誕生日おめでとう、わたし」
自分で自分にお祝いを告げても返事なんてない。
少女が待つ母親の代わりに、「おめでとう、エトワール」と口にして、抱きしめてあげたいと少女に近寄った。
「お母さん、早く来ないかなぁ……」
エトワールは知っている。少女が待っている母はもう来ないことを。
恋人だと思っていた男性は単なる遊び人で、子供を身籠った母を捨ててお嬢様と結婚した。娘を育てるため母は妹を頼った。けれどもその信頼は裏切られ、やがて母は都会へ働きに出ることに。
この子は病気でお金がかかるから、妹夫婦にそう言われ、信じて。
この過去のことはもう夢に見たくないけれど、一部分だけは見たい。
母は月に一回は会いに来ていたのに、そのまま三ヶ月も現れなくて、あの誕生日を迎えた。
今はもう知っている。母は病気になり、それでも働き、そしてこの数日前に他界したと。
「流れ星、ないなぁ……」
手を伸ばしてボサボサの頭を撫でようとしたけど、夢だから、エトワールの手は少女の小さな頭をすり抜けた。
「エ、ト、ワール! ……エトワール!」
怒鳴り声に少女の体がビクリと震える。
また何か怒られるのだろうか?
少女の横顔にはそう書いてあり、ひどく怯えて見える。
自分は自分のことを見られないはずなので、これはどこかの誰かの怯え顔の投影だろう。
「行ってはダメ!」エトワールは叫んだが、少女には届かない。
次の瞬間、景色がパッと切り替わった。あの頃、毎日、毎日、掃除をさせられていた古びた客室にいる。
「おおお! これはこれは可愛らしいなあ」
自分の目の前に、色白の太った金髪の男性が立っている。そばかすが多い顔は赤らんでいて、ギラつく目が気持ち悪くてならない。
勢いよく腕が伸びてきたので、エトワールは悲鳴をあげた。
一度ぶたれた以外には何もなかったと知っていても、恐ろしくてならない。
泣き叫んだ瞬間、何かに包まれた。世界が光に満ちて白だけになっていく。あまりにも、あたたかかった。
光の眩しさは消えたものの、あたたかさは残った。新しい両親が自分を間に挟んで横になり、微笑み合いながら少女の髪を撫でている。
少女は二人と手を繋いで、白詰草が咲く丘を歩いていた。
「お母さんのお墓に、冠を飾ってもいい?」
「もちろんよ。私たちの目に見えるところから離れないようにね。お腹が減ってきたらサンドイッチを食べましょう」
「どれ、私も一緒に冠の材料を集めるか」
「ありがとう、お母様、お父様」
エトワールは少女が頬にキスされたり、よしよしと頭を撫でられるところを眺めている。
間一髪、エトワールを救ってくれて、さらには養子にして母に代わって慈しんでくれる新しい両親の敵は自分の敵だ。二人を守るためなら、自分にできることならなんでもしたい。
そう考えた瞬間、また世界が変わった。とてもたかいところから、雲一つない星空を眺めている。これは忘れもしない、アルタイル大聖堂の塔からの景色だ。
隣に誰かがいる。この場所だから、"あの人"に違いない。久しぶりにこの夢を見られた。
「あの青白い大きな星が三賢者を護るフェンリスだ。俺のお気に入り」
会いたかったあの人の顔がぼんやりしているのは、これが夢だから。夜空ははっきりとして美しいのに、彼の周りはぼやけた世界で、万華鏡の中みたい。
「三賢者? フェンリス? それはなに?」
「貴族の娘なのに、そんなことも知らないなんてこの国の未来は暗いな。あーあ、俺はこのままだと馬のクソ係だ」
ふっ、と彼は自分の前髪に息を吹きつけた。今の視界はボヤボヤしているが、確か困ったような怒り顔だった。申し訳なさに襲われたことを、昨日のように感じる。
「……ごめんなさい。私、養子なの。私がうんと勉強をしたら、よいことがあるのね」
そう言ったら、彼はとんとんとんと優しく肩を叩いてくれた。
「それなら俺の未来は明るそう。三賢者は友愛、慈愛、敬愛の象徴だ。フェンリスは忠誠。そんな風に、聖典は大切なことを教えてくれる」
「それなら、聖典を読めるくらい勉強するわ」
「俺のために、誰かのために、その真心をずっと忘れないでくれ。上に立つ人間が悪人だと、下々は死ぬだけだから」
彼の口にした「死ぬ」という言葉のあまりの恐ろしさに、自然と身震いする。
「……死にそうな生活なの? 私のお母様とお父様に頼めば、きっと大丈夫よ」
「まさか。毒蛇の牙では絶対に死なない」
その時だった。霞がかっていた世界がパァッと鮮明になった。白い歯を見せて屈託なく笑うあの人の顔がよく見える。
風にさらさらと揺れた黒髪はぼさほぼさで、顔は煤か何かで汚れている。その中で、笑顔は太陽のように輝いて、宝石のような黒い瞳はあまりにも優しかった。
しかし、「こういう顔だった」と思った時には、彼の笑顔は消え、無表情で感情の読めないフィラントの顔に変化した。
「失礼、足をお怪我でも?」
カランカラーン、カランカラーン、カランカラーン——
鐘の音がする。
「ユース派になります。閣下のことは、以後、フェンリスとお呼びください」
ヴィクトリアの、いかにも業務ですというような淡々とした声が鐘の音に混じって響く。
そうだ。フェンリスは三賢者に救われた狼で、彼らの遣いとして働き、常に彼らを守った。
嘘をつく罪人の頭を噛み砕き、救うべき者のところへ颯爽と現れる。
何かがおでこに優しく触れている。そう思いながらゆっくりと目を開くと、とても悲しそうな声がした。
「すみませんエトワール様。宝物だと思って大事にします……」
完全にまぶたをあげた時、声の主は横を向いた。フィラントは小さなため息を吐き、壁を凝視している。
寝台脇の棚に桶があり、彼の手には折りたたまれた布があった。
フィラントが看病してくれたようだ。なぜ、謝ったのだろう。
自分は彼の宝物のように扱われる。そのことは、エトワールを甘美な世界へ誘った。
毎日、毎日、忘れもしなかったあの人を、特に大きな理由もないのに心から追い出した人の、精悍な横顔を眺め続ける。
初恋の人だと判明したユース王子様と再会したら、この気持ちは消えるのだろうか。
なぜか分からないけれど、この想いは消えないで欲しい。エトワールはそう思いながら、フィラントの腕にそっと手を伸ばした。
刹那、フィラントは恐ろしい睨みをエトワールに向け、おまけに拳を振りあげた。
反射的にエトワールは身を縮めた。思わず、小さな悲鳴を上げる。
「叔父さん、叔母さん、殴らないで」
「も、申し訳ございませんエトワール様。長年の癖で……」
「癖?」
エトワールはそろそろとフィラントを見上げた。
彼は椅子から離れて床に膝をつき、頭を下げている。
「本当にすみません。背後からの気配に敏感で……。すみません」
「……そう、なのですか。兵士さんですものね」
凛とした姿勢に丁寧な口調に"王宮騎士"という情報で、エトワールはフィラントが「戦場で功績をあげた兵」だということを忘れていた。
門前で荒々しい一面を目撃したけれど、その印象はとても薄い。
今の反応はきっと、敵に強襲された時にすぐ反応できるようにする訓練の賜物。それはつまり、フィラントが死に近いところで働いていたことを示している。
この事実は、エトワールの胸をきつく締めつけた。
「こんなことにならないように、適切な距離を心がけます」
「看病してくださった結果ですから頭を上げてください。親切にしていただいて、嬉しいです」
それでも、フィラントは顔を上げようとしない。
「お互い気をつけましょう。私は過敏に反応しないようにします。フィラント様は私の気配に、新しい日常に慣れて欲しいです。同じようなことがあると、お互い、悲しいだけですから」
フィラントは戦場で命を失う危険に晒されていた。それが悲しくて、目にじわじわと涙がにじんでいく。
「……そのようにありがとうございます。あの、叔父や叔母に殴られたことがあるんですか?」
ゆっくりと顔を上げたフィラントの表情は険しい。青ざめている。
「今の両親に引き取られる前のことです」
そう言いながら、エトワールは目元の涙を指でぬぐった。
「その二人は今どこに?」
彼の声が低く、硬く響いた。
「とっ捕まえて……牢屋にぶち込みます」
思いもよらない台詞に、エトワールは目を見開いた。それから、少し笑った。自分のために憤り、手助けするという発言が嬉しくて。
「もう逮捕されました。両親が通報したんです。詐欺とか、いろいろあったみたいで。たぶん、まだ……どこかの牢屋にいるはずです」
彼女の笑顔は徐々にしっかりとしたものになり、彼女は喜びで肩を揺らした。
フィラントは眉間のしわをわずかに緩め、静かに立ち上がった。
「それなら……いいのですが」
フィラントは一呼吸のあと、きっぱりと告げた。
「エトワール様やご家族を害する者は俺の敵です。そばにいれば必ず守ります。これからは常に護衛をつけますので、ご安心ください」
華麗な挨拶をされたので、エトワールの胸はドキッとはねた。
顔が熱くなり、思わず布団を掴んで持ち上げる。
「それはあの、ありがとうございます……」
長年、ずっと心の中にいたあの人——ユース王子よりも、彼の一挙手一投足が気になってならないし、事あるごとに感情が揺れ動かされる。
その事実を自覚して、エトワールはますます照れた。
「医者が旅疲れと空腹、それに緊張で血の気が引いたのだろうと。すぐに食事を持ってこさせます。失礼」
フィラントは足早に立ち去ろうとした——が、扉を開けようとしない。エトワールが「危ないです」と注意する暇もなく。
ゴンッ!
重い音とともに、フィラントは扉に真正面から突っ込んだ。
彼は数秒固まったあと、何事もなかったかのように姿を消した。
ドジ同士なら、気が合うかもしれない。
そう思ったら、胸のときめきはなかなか止まらなかった。




