8話「お見合い風のお茶会」
父親以外の男性と密室で二人きりなのも、向かい合ってお茶を飲むことも、エトワールにとって初めてのこと。
変な汗が体のあちこちから流れている。自分は目の前の彼を意識している、緊張しているという思考が、ますます体を熱くしていく。
そんなエトワールの目の前で、フィラントは凛と背筋を伸ばている。足を軽く揃えてソファに座り、膝あたりに拳を置き、無表情で視線は窓の外。
お互い自己紹介をしたあとから、ずっと沈黙が横たわっている。
何か話題……。フィラント様は自分と話したくないみたいだと、冷えた汗が背中を伝っていく。ときめきはズキズキした痛みに変化して、自然と唇を強く結んだ。太腿の上で重ねている手をきつく握りしめる。
「マダム・ヴィクトリアから説明があったように、アストライアはかなり治安が悪いです」
「……あの、彼女からはまだ、その話を聞いていません」
怪訝そうな表情になったフィラントが、ゆっくりとエトワールの方へ顔を向け、ため息混じりでうつむいた。
「そうでしたか。ご安心ください。シュテルン家の方には常に誰かが護衛につきます。私の班が護衛の任を受けています」
「あの、なんとなく。門前でのやり取りでそうみたいだなと。だからそれは心配していません」
快活なエトワールとしては珍しい、とても小さな声が出た。おまけに少し震えた。
「不安なことばかりでしょう。マダム・ヴィクトリアにも、侍女たちにも、あなた様の過ごしやすい環境を整えるように頼んであります。何かあれば、遠慮なくお申し付けください」
軽く頭を下げると、フィラントは再び窓の外へ視線を移した。怒って……はなさそう。つまらないみたい。どうしよう、なにか話題と思考を巡らせる。
恋愛結婚と見せかければ、ホール軍医長官が嘲る「報奨妻」ではなくなる。それは母フィオールにとっても、フィラントの主ユース王子にとっても喜ばしいこと。だから協力しましょうという約束をしたので、これからのこと——どのようなお芝居をするのか、会議をすると思っていた。
お見合い風にお茶をすると聞いたので、和気あいあいと話し合うのだと。
「初めてお会いした時に理由を説明しましたが、外ではあなた様を口説かないといけません。任務のために」
苦々しそうに変化したフィラントの横顔を眺めながら、エトワールは"嫌な任務だと考えているようだ"と悲しくなった。
「そうらしいですね。私はレッスンだけが仕事、あとは私らしくと言われました」
「護衛中に雑談をしたり、贈り物を渡すべきだと言われまして。話してもいい会話内容と欲しいものを教えていただけますか?」
フィラントは眉間のしわを深くした。窓の外を睨みつけている。
「話しても良いこと……。特になんでも構いませんけれど……」
頭が痛いというように、フィラントは片手をこめかみに当てた。
もしかして、とエトワールは瞬きを繰り返した。彼はエトワールが嫌なのでも、嫌な任務だと感じているのでもなく、ただ、困っているだけかもしれない。
そのように楽観的に考えてみたものの、あまり納得はできない。
「あの、練習してみましょう。会話の練習です。ひとまず……欲しいものはなんでしょうか。それからお願いします」
どうぞと手で促す。その他も微かに震えた。男性と二人きりだからではなく、フィラントに既に嫌悪されたかもという恐れのせいだ。こんなに他人に煙たがれることは滅多にない。
「エトワール様、欲しいものはなんでしょうか」
苦痛でならないというようなフィラントに睨まれて、エトワールはたじろいだ。
「……その、嫌いな人間には何も贈りたくないものです。だから……まずは少しくらい私を好意的に思っていただけるように励みます」
エトワールは、"あの人"と重なるところのあるフィラントと親しくなりたいという気持ちを抱き始めている。
なので、涙が込み上げてくるくらい悲しくても、勇気を出した。まだまだ出会ったばかりだから誤解は少ないだろう、だから嫌悪もきっと小さいはずだと前向きに考えながら。
「……」
ますます険しい顔つきになったフィラントは、しばらく無言だった。
「考えても分からないので教えて欲しいのですが」
フィラントの声は掠れている。
「私から物を贈られたくないではなく、私があなた様を嫌っていて贈り物をするなんて嫌だろうとは、どういうことですか?」
そう問いかけられても。エトワールは言葉に詰まり、その後に「あれっ?」と気がついた。今のような台詞を口にしたのなら、自分は嫌われていないと。
フィラントはうつむいて自分の拳を睨みつけている。エトワールの胸の中で、むくむくと"彼も緊張しているだけかもしれない"と希望が沸いてきた。
「話すどころか一緒にいるのも苦痛なようでしたので。まだろくに話していないのに」
瞬間、フィラントは勢い良く顔を上げ、怒ったような表情で「まさか」と大きめの声を出した。エトワールは少しびくつき、目を大きく見開いた。
「俺がなぜエトワール様を嫌っていると思ったんですか?」
俺。エトワールは瞬きを繰り返しながら、口調の崩れたフィラントを眺め続けた。あの顔は嫌悪ではなかった。それなら……やはり緊張だろうか。
エトワールはそろそろと唇を動かした。他人の気持ちは聞かなければ分からない。
「ずっとつまらなそうで、私がお嫌そうなお顔でしたので。単に緊張でした?」
すると、フィラントは両手で顔を覆い、体を丸めて大きなため息を吐いた。
「こういう顔なんです。表情筋が死んでいる、鉄仮面だと言われます」
「そうでしたか」
悲しみは波が引くように引っ込み、喜びで唇を綻ばせた。背中から冷や汗も消えていく。
「それなら良かったです」
「……こういう顔ですみません」
「いえ。お顔をあげてください。それであの、誤解でしたので話を戻します。欲しいものはなんですか? と問われましたので……」
欲しいものはそこそこあるけれど、「目の前にいる人から贈られたら嬉しいもの」となると難しい。
フィラントから贈られたいもの。そう考えた瞬間、エトワールの顔はボッと火がついたように熱くなった。自身が赤面したと思って片手で顔を半分隠して横を向く。
「お花とか……でしょうか」
言ったらくれるというのなら言ってしまえ。エトワールはそう考えながら、「自分は初恋の人からやはりこの人へ気持ちを移したのかもしれない」と感じ、ますます熱くなった。
「エトワール様、大丈夫ですか? 旅の疲れで熱? ……ちょっ、誰か! 外で控えている誰か!」
「えっ?」
あっという間に目の前にフィラントが膝をついて、「失礼」という声がけとほぼ同時に手の甲が額に当てられた。
骨ばって大きな手。羞恥で熱かったのに、体温が一気に下がった。一瞬、目の前が真っ暗になった。キィンと耳鳴りが頭を貫く。
『おおお! これはこれは可愛らしいなぁ』
気持ちの悪い声が蘇り、吐きそうになった。フィラントはあの男性ではないと、閉じそうになる目を思いっきり見開く。視界が暗闇から明るい室内へ戻ってきた。
「申し訳ございません。咄嗟に主に対してするように触れてしま……」
座っているのに体がぐらついたので、エトワールはつい、フィラントの腕に手を添えた。目の前の彼は自分を思いやり、心配してくれている優しい人だから大丈夫。怖くない。
「すみません。あまり男性に慣れていなくて、誰でも少々怖いのです……。助けようとしていただいたのに……」
エトワールは小さく首を横に振り、「ここはもう安全だ」と自分に言い聞かせた。
埃臭い屋根裏部屋ではないし、突然怒鳴ったり殴る叔父や叔母も、ましてやあのおぞましい男性もいない。けれども、克服したと思っても時々このように突然、具合が悪くなる。
布越しの彼の体温が、冷えた心の奥まで染みこんでいくようで、ようやく息が深く吸えた。
エトワールは深呼吸をしながら「ありがとうございます」と小さな声を出した。顔を上げ、フィラントの黒紫色の瞳を直視し、恥ずかしさのあまり息が止まる。
「……」
息をすることを忘れたせいなのかまたふらつき、フィラントの腕の中へ体が落ちていった。ソファからも落ちそうだが、上手く力が入らない。
「エトワール様! おいっ! 来てたなら助けてくれ!」
抱き抱えられる形になったので、恥ずかしさのあまり、まつ毛も唇も震えた。あちこちの筋肉が固まって動けない。
ふと、侍女——確かサシャと目が合う。彼女はいつから室内にいたのだろうか。
「もうっ、ダメですよ、サー・フィラント。エトワールお嬢様は見ての通り相当な初心ですから、がっついて口説くのは良くないです」
侍女サシャは腰に手を当ててフィラントを「めっ」と叱るように見下ろした。
「はぁ? おい、何を言っている。旅疲れで風邪のようなんだ。すぐに休めるよう手配して、医者を呼んでくれ」
「呼び出しに応じたら、する前寸前みたいだったので、『見せつけプレイかよ』って思ったんですが、大変失礼な誤解でした。すみません」
「はぁあああああ⁈ 君の脳内はどうなっているんだ!」
エトワールも同じ気持ちだ。侍女三人のうち、一人はかなり変わり者のようだ。
「休む場所ならお嬢様のお部屋の寝台がいいかと。サー・フィラント、運んでください」
「エトワール様、しばし辛抱を」
ふわり、とエトワールの体が宙に浮く。あまりにも軽々と持ち上げられたので、「うんと力持ち……」と驚いた。その時だった。
「ぐうううううううう」
エトワールのお腹から、かなり大きなお腹の虫が空腹だと喚いた。両手で顔をそろそろと隠して背中を丸める。
フィラントの逞しい腕や力強い手が触れているところは熱くてならない。淑女とは正反対のお腹の虫の音なので、消えたくなるくらい恥ずかしい。
「お嬢様は風邪じゃなくて旅で腹減りのようですね。お茶しか運ばなくていいと言われていましたが、お菓子も必要だったということです」
「エトワール様、すみません。サシャ、すぐに何か食べるものを」
「合点承知です!」
「お、降ろしてください! 今のは淑女が家出をしただけです! お腹は減っていません! 忘れてください!」
恥ずかしさのあまり、つい、体をよじって足をバタバタさせてしまう。そうしてから、これもはしたないことだと慌てる。
「あはは、エトワールお嬢様って面白い方なんですね」
サシャの笑い声が室内を満たす。フィラントは「今、すぐに」と言うと、エトワールをそうっとソファの上へ降ろして座らせた。
その時、またしてもエトワールのお腹から「ぐううううう」という音が出て室内に響いた。良いところを見せたい相手に、一度ならず、二度までも。
「もう少し淑女なんです。本当です。あれは木登り猫遊びではありませんでしたし、これも違うんです……」
エトワールは情けなさでメソメソ泣き出した。こんなことで泣くなんて。
「淑女ではないなんて思っていません。えっ、あの。どうしよう、サシャ。エトワール様が俺のせいで泣いた」
「今ので『はしたない』と嘆いて泣くなんて、淑女の鏡ですよ。そう言って慰めてあげてください。頭をなでなでとか」
サシャは、「何か食べ物を持ってきます」と言い残して部屋から去った。
エトワールは自分に「落ち着きなさい」と命じながら、ポケットからハンカチを取り出し、目元を押さえ、「すみません」と謝った。
「サシャの言うとおりなので。腹の虫くらいで恥だとは奥ゆかしいので、悪くなんてないです」
「そのようにありがとうございま……」
感謝の言葉と共に顔を動かしたら、しゃがんでこちらを見上げるフィラントと視線が交錯した。
何度見ても、「あの人みたい」という感想ばかり湧き上がる瞳だ。
気になってならないし、淑女ではないお腹の虫事件を消し去りたい。エトワールは必死に声を出した。
「あの、フィラント様は子供の頃にどちらで暮らしていました?」
「子供の頃? 王都ですがなぜですか?」
「……それなら、その、昔、貴族らしき女の子を、迷子を助けたりしませんでした?」
「いえ。……それって、エトワール様のことですか?」
「ええ、はい。名前が分からなくてお礼をできないまま、もう何年も経ってしまっていて」
「その人を探しているなら私が見つけます。教えてください」
エトワールは「こんなに目が似ているのに彼ではないのか」と落胆しながら、初恋話のうち、「恋をした」という部分は省いて語った。
フィラントが顔をしかめ、「もしかして」と呟く。
「アルタイル大聖堂の高いところへ登って……。あの時の」
「あの時?」と、エトワールが口にして期待に胸を膨らませたその瞬間、胸の高鳴りは彼の発言でバリンと割れた。
「ユースの膝の上で寝ていた迷子か。ユースだ。その男の子はユース・アルタイル。俺の主です」
胸の奥が静かに冷えていく。頭ではすぐに理解できたのに、心がその意味を受け入れるのを拒んでいる。
あの星を閉じ込めたような瞳、あの笑顔、あの天邪鬼な優しさ——その全部がフィラントではない。
一瞬、何も考えられなくなって、ただ黙って彼を見つめた。自分の中にある感情は、「あの人」と重なるからだと思っていたのに。
初恋の君が王子様。それは普通、とても嬉しいことだが、エトワールはただただ、悲しくなった。
それでますます自覚する。エトワールはフィラントを好きになっていると。
だから、初恋の君と彼が別人だったという事実に、運命的な再会ではなかったことに、こんなにもショックを受けている。
「まさか。彼はとても身なりが悪かったです」
「俺と会うためによくそういう格好をして城を抜け出していたんです。あそこは俺たちの密会場所で」
エトワールは「それならユース殿下に会いたい」とは思わなかった。
それで、自分の初恋は終わりを告げていたと自覚する。その理由は新しい恋だということも。
「我々がユース殿下と会う予定はありますが、早めて欲しいと手紙で頼みましょうか?」
「いえ、今のことは教えないでください…… 」
疲れていたようで、意識が遠のいていく。過度な緊張や落胆のせいかもしれない。
「エトワール様」
自分の名前を呼ぶ声がしたが、それを最後にまどろみに沈んだ。
夢を見た。記憶の断片を寄せ集めた、つぎはぎだらけの夢を——




