四話「二つ目の契約」
翌日、エトワールは帰宅した母フィオールに、フィラントとの婚姻話、偽装作戦について伝えた。
国王陛下の命令という話と命令書を見た母が、ゆっくりと目を見開き「まさか」と呟く。母は、微かに震える指で命令書の文字をなぞった。
「人を報奨だなんて、そんな悪しきことは終わったはずでは……」
母は命令書を乱暴めに机に置き、エトワールの両肩に手を乗せた。肩を力強く握りしめられ、体を揺らされる。
「いいですこと、エトワール。私は、あなたを心の底から大切にしてくれる男性としか結婚させません」
「けれど、お母様……」
エトワールの続きの言葉は、母の鋭い声にかき消された。
「陛下にすぐに異議申し立てを行います」
言うやいなや、母は机上の命令書に手をついた。自分のために、母が腹を立ててくれる。そのことは嬉しいけれど、婚姻命令を撤回してもらうわけにはいかない。母を、父を守らないとならない。
「お母様は、昨日の騎士様は嘘をついていると言うのですか?」
母の右手に両手を伸ばし、そっと握りしめる。さらにギュッと力を入れた。
「エトワール」
「お母様、私はホール軍医長官が苦手です」
今度はエトワールが母の言葉を遮った。母が、苦々しいというように眉根を寄せる。
「エトワール。あなたが……」
「あの方は、何にどう手間取って困っていたのか存じ上げませんが、あのような酷い環境を作ったのですよ!」
叫んだ瞬間、エトワールの目は潤んだ。眼前に苦悶の顔がいくつかちらつく。彼女が熱心に看病しても目を覚まさなかった兵士たちの表情が忘れられない。
「フィラントさんの目は信じられる光を宿していました。敵が同じなのですから、協力して、彼らに助けを求めるべきです」
両手で握りしめている母の手を自身の頬に当てた。母の目は、沈む夕陽のように揺らめいている。
「エトワール、だからといって、あなたが愛のない結婚をする必要はありません」
「偽装ですから、必要なのは愛ではなく信頼関係です」
「エトワール……」
その時だった。突然、玄関方面から大きな音がして、バタバタと何人もの足音がしたので身を縮める。
エトワールは母に抱き寄せられ、父は扉前に移動した。妻と娘を守るというように。
居間の扉も急に開き、黒い外套に身を包んだ不審人物たちが入室してきた。その数は三で、明らかに男性というような背の高さ。強盗だと、エトワールは震えた。
「何者……」
勇ましく叫んだ父の語気が消えていく。父の喉元に鋭い刃が突きつけられたので、エトワールは小さな悲鳴をあげた。
叫びながらも、自分を抱きしめる母の腕から離れて庇うように前に出る。母を守らないとならない。母もまた、エトワールを止めるように動いてくれた。
「やあ、やあ、やあ。これが本番ならシュテルン一家は全滅だ。敵がいると教えたのに不用心だね」
声を出した人物は、上品な動きでフードをあげた。前髪で顔が隠れている、メガネをかけた青年が現れる。彼は、優雅さのある手つきで外套を脱いだ。右隣にいる、父の首に刃を向けていない人物が外套を受け取る。
村人たちとよく似た服装なのに、腰に下げている短刀の柄は美しい銀色。ベルトのバックルも同じく。
エトワールは、白銀に輝く短刀の柄やバックルの意匠が『鷲』だと心の中で呟いた。
鷲はアルタイルの象徴にして守護神の遣い。鷲という神聖な意匠を纏う人間は、王族か詐欺師しかいない。
「この声はユース殿下……これはなんの真似ですか⁈」
エトワールの背後で母が叫び、一歩前へ進み出た。母が王子様と知り合いとは驚きだ。昨日、話をしたフィラントの主、王子様がわざわざ現れるなんて。
「突然の非礼を侘びます。これは警告でした」
ユース王子は困り笑いを浮かべて、片膝をついて首を垂れた。父の喉元から刃が離れていく。
「警告……ですか?」
戸惑ったような父が、ユース王子と母を交互に見る。母は、恐る恐るというようにユース王子の肩へ手を伸ばした。その手は少し震えている。
「あの、殿下……」
「私はもう何ヶ月も前にシュテルン家に護衛をつけた。既に二回、怪しい人物を捕らえたと報告を受けたのに、君たちはまるで気づいていない」
我が家は誰かに狙われている。これはそういう指摘だ。昨日のフィラントの話から推測するに、ホール軍医長官関係だろう。母を害したいと思うほど、敵対心を抱いているなんて。
「フィオール様、戦場の天使様。此度、手を結ぶことになったこともあり、ウェイルズでの献身的な働きについての御礼を申し上げにきました」
ユース王子はますます頭を垂れた。母がしゃがみ、頭を上げるように声を掛ける。
あの忌々しい地獄のような野戦病院を、人がきちんと回復する環境に大変化させた戦場の天使——母は、王子が直々に感謝を述べに来る人なのだと、改めて誇らしくなった。
「私は一時間ほど前に帰宅しまして、昨日の話を聞いたばかりです。そこへいきなり殿下の来訪。それもこのような事で大変、混乱しております」
「脅かしてすまない。しかし、恐怖は身をもって体験しないと教訓にならない。そろそろ危機感を学んで欲しかったんだ」
「殿下。家族を守っていただいていた御礼を申し上げます。だからどうか、顔を上げて下さいませ」
それでも、ユース王子は頭を下げ続けている。
「フィオール様、我らの天使、ウェイルズで私の部下たちを救っていただき、誠にありがとうございました」
「殿下、私は神の教えと、自身の良心に従っただけです」
「そうだ。それなのにあのホールときたら、私の可愛い部下たちを殺した。君たちのお陰で生き延びられた者もいるが、実に許し難い」
ユース王子はゆらりと立ち上がり、まだしゃがんでいる母を見下ろした。その目には、真冬の井戸水のような冷たさが宿っている。
「殿下、私もホール軍医長官には少々思うところがありますが『殺した』とは穏やかではないです」
母は立ち上がり、両手を握りしめて眉尻を下げた。
「アルタイル王族は風と鷲の神の遣い、三賢者より民を任されている。国とは人だ。私からすると、あの男は国賊である」
場の空気を切り裂くような凛とした声が広がっていく。
「父上は躊躇しているようだが、私は絶対に許さない」
静かだが怒りの滲んだ声。吹雪いたように、空気が冷えていく。
第三王子であるユース・アルタイルは社交場の人気者。お喋りで明るく、異国との外交で活躍し始めている。お酒と女性に弱いところが玉に瑕。そんな噂と、目の前の人物はまるで結びつかない。
「一時間程前に帰宅して、夫と娘から婚姻話を聞いたところでございます。その許さないと、娘の結婚が関係あるそうですね」
「そうなんだ。ホールは君を疎ましがっている。手柄を横取りして、自分の名誉を傷つける成り上がり女だと」
この発言に、母の顔色が悪くなった。
「まさか。あの方が私のことをそのように?」
母は勝ち気で行動力もあるけど、平和主義者だから誰かと対立することを苦手にしている。
「ヘラヘラ笑って近寄って、おだてて聞き出したら喋る喋る」
母はこの台詞に、とても悲しそうに笑った。エトワールはホール軍医長官をますます嫌いになった。優しい母を嫌うなんて。
「あんな男のために傷つく必要なんてない。私は貴女を尊敬しているから、殴りそうだった」
柔らかく笑ったユース王子は、前髪の向こうにある目に星空みたいな煌めきを光らせた。
素敵な目で綺麗そうな顔立ちだから、顔が隠れてしまい、視界も遮る髪をどかしたらいいのに。
「マダム・フィオール。フィラントには教えていないんだが、君の兄君を丸め込んで、家督を娘に譲るようにした」
母に兄がいるなんて初めて聞いた。母は、エトワールを養子に迎える前から実家家族と縁を切っている。
「兄を丸め込んで? 娘って、兄に娘はいません」
「いや、そこにいるだろう」
そことユース王子に手のひらで示されたのはエトワールだった。思わず息を呑む。ユース王子はニコッと笑い、パチンと指を鳴らした。
「エトワール令嬢、君の実父はマダム・フィオールの兄だ」
まるで予想外の台詞に、瞬きを繰り返す。
「お母上は可哀想な赤の他人ではなく、姪っ子を助けた」
実母は結婚するはずの男性に捨てられた女性だった。だから、エトワールは実母にもフィオールにも、身分違いの相手には気をつけなさいと言われて育った。
「姪……お母様、そうなのですか?」
「実は……そうなの。病院でお世話をして看取った。それは事実だけど、昔、兄や両親が追い払った女性だと気づいて……」
血の繋がらない娘から、血の繋がりのある姪に変わるなんて。今でも幸せな娘なのに、ますます幸福だと自然と唇が綻ぶ。それなのに、母は俯いている。
「ごめんなさいエトワール。あんな兄や親の所有物になったらろくなことにならないから隠していたの。殿下はなぜこのことを?」
市民の孤児から男爵令嬢になれたので『おとぎ話みたい』と思っていたのに、伯爵の私生児だったなんて。
「私は地獄耳でね」
ユース王子の声は軽くて明るいのに、棘があって空気が冷えていく。
「借金で大変そうなピエール・カンタベリに、私生児の娘に家督を譲り、負債を押し付けたらいいって勧めた。本人が思いついたと感じるように遠回しにね」
ユース王子は不敵な笑みを浮かべた。彼の雰囲気の落差や発言の変化の怪しさに疑心暗鬼に陥る。
「娘に負債をって、どういうことですか!」
母はユース王子に詰め寄った。
衝撃的なことに、ユース王子は母の唇に人差し指を添えて柔らかく微笑んだ。面食らったように固まった母が後退りする。エトワールも口元を押さえて呼吸をするのを忘れた。人妻に、こんなことをするなんて非常識にも程がある。
パチンッと指を鳴らすと、ユース王子は愉快そうな声を発した。
「調べ物をしていたらラッキーカードを発見。エトワール令嬢が借金を背負い、婚姻でフィラントを伯爵にしてくれるなら、彼女の借金は私が返そう」
どうやら国王陛下は、息子を通じて母を守ろうとしてくれている。実家を捨てた母に、再び伯爵家という盾がつく。
「殿下。申し出は大変ありがたいのですが、私は娘を報奨妻にはさせません。たとえ中身が契約で報奨でないとしても。愛娘に不名誉な看板はつけられません」
母のこの発言を静かに聞くと、ユース王子は片手でそっと前髪を掻き上げた。
顕になった美しい形の目は、フィラントと似ている気がした。同じような黒紫色の瞳だからだろうか。
けれど、目の前の瞳には万華鏡の輝きはなく、夜に覗き込んだ井戸の中のように深くて暗い。
「不名誉とは、成り上がり騎士の妻は不名誉という意味か?」
ユース王子の眼光に鋭さが宿り、場がピリッと張り詰める。
「私はそうは思いませんが、貴族の多くはそのように蔑むでしょう。娘を兄の世継ぎにはしません。だから娘と借金は関係ありません」
「父上の命令は既に出ている。陛下の威信に関わるから、男爵夫人の申し立ては絶対に受け付けない」
ニコリと笑うと、ユース王子は歯を見せた。それでも母は首を横に振ってくれた。エトワールのために。
「国王直々の命令を断ったら反逆罪で絞首台さ。私と敵対するなら、ホールその他の汚職をこの家族につける。君たち家族は終わり」
それは、あまりにも衝撃的な台詞だった。
「……殿下、協力して欲しいと頼んだのは建前で強制なんですね!」
掠れ声で叫ぶと、母はエトワールを抱きしめながら後ろに下がった。
「そう。私は手強いから敵対はやめておけ。シュテルン男爵夫人。いくら戦場の天使様でも、持ち駒の無い男爵の妻だ。既に動き出している私の計画に逆らう術はない」
「娘と夫を抜いて、私だけにしてくださいませ。それなら喜んでご協力致します。私は陛下にも殿下にも御恩がございます」
「ところが、私はフィラントと契約を交わしたエトワール令嬢と契約に来たんだ。君ではなく」
ユース王子の目は燃えるような目で、エトワールを射抜くように見据えた。
「エトワール・シュテルン男爵令嬢。共に愛する者を守ろう。私を味方に選んでくれれば、君のご両親を守る。必ず」
あの人の目と酷似した瞳のフィラントとは違うけど、ユース王子の瞳の中にも綺麗な光が散らばっている。この輝きは、偽ることはできない。
両親、特に母が私を強めに抱き寄せたけど、一歩前に進み出た。状況は理解したし、昨日から自分が何を成したいのかよくよく理解している。
「殿下、お母様とお父様をどうかお守り下さい。私は二人のためなら色々と励めます」
エトワールと、両親に名を呼ばれた。母に縋りつかれて首を横に振られた。私はこの愛に報いたい。
ユース王子を信じていいのか分からないけれど、従って探るしかない。それに、あの人と同じ目をした、誠実そうなフィラントのことを信じたい。
「見た目はいいけど、おっちょこちょいなアホ娘って噂だから君には期待してない。フィラントに伯爵の身分をくれればいい。励めるなら、社交場で仲良し夫婦を演じなさい」
穏やかで優しい笑顔で、ウインクまで飛んできたのに台詞は辛辣だった。おまけに目に棘がある。
「んなっ!」
「じゃあね、木登りしてドロワーズを丸出しにする偽物お嬢様。伯爵になるなんて知らないフィラントと一緒に、私の駒として仲良く助け合ってくれ」
見られていた、恥ずかしいと顔に熱が集まる。「あれは猫を助けようとした」と言う前にユース王子は部屋を出て行った。ヒラヒラと手を振りながら。
「なんなのよあの王子様は! 私はお母様とお父様の娘として励んで、きちんと男爵令嬢ですのに、偽物だなんて!」
思わず叫んで地団駄を踏んだら、ドレスの裾が足に絡まって転んだ。両親が同時に「心配しかない」と呟く。
こうして、エトワール・シュテルンは家族を守るために誰につくか決め、未知数の政治闘争に飛び込んだ。




