三話「契約の始まり」
着替えを終えたエトワールは、応接室へ向かい、扉の前で深く呼吸を繰り返した。意を決して扉をノックし、名を告げて父に声をかける。
入室を促されて部屋に入り、案内された席——父ジャンの隣に腰を下ろした。向かいのソファには、神妙な面持ちのフィラントが座っている。エトワールは彼の姿を見つめながら、心の中で「似ている……」と小さく呟いた。
つい先ほど、扉の外側にいた時——再会する直前までは平静だったのに、今や胸の鼓動が早まっている。過去にも転んだ自分に手を差し伸べる者はいたし、優しさに触れることもあったというのに。
父親のジャンがフィラントのことを紹介し始めた。彼は『王宮騎士』で、来月、アストライア領地の騎士団の特別顧問職に任官する。
「彼はウェイルズ平野奪還の立役者で、陛下から名誉ある仕事を任されたそうだ」
「いえ、立役者の一人というより、その部下です」
「ご謙遜を。フィラントと言えば、あの急襲作戦で最初にゲルダの丘を奪還してくれた英雄です」
エトワールは父の話を聞き、「そうなんだ」と心の中で呟いた。
野戦病院で耳にした嫌な噂が蘇る。国境での防衛戦で行われたあの作戦は無謀で、功を焦る上官同士の対立が招いた惨劇だった。
死傷者は多く、彼女のいた病院には絶え間なく担ぎ込まれる兵士の姿があった。母や同僚と共に何人もの死に直面し、幾度も涙を流したあの記憶は、今なお胸の奥に残っている。
「その中の一人というだけです。お嬢様の顔色が悪いので、続きは明日にいたしましょうか」
フィラントが控えめに告げると、父がエトワールの顔を覗き込んだ。
「エトワール、どうした」
彼女は小さく首を横に振った。
「お国のために命を賭して下さった皆様のことを思い出しました」
ポケットからハンカチを取り出して目元に当てる。
「フィラント様はよくぞご無事で。国を、民を守ってくださったことに、心から感謝申し上げます」
「ご存知でしょうが、娘も妻と同じく戦場看護婦をしておりました」
エトワールは、父の腕に寄り添うようにして頷いた。
「ええ、皆さんには大変お世話になりました」
フィラントが静かに頭を下げる。
「フィラント様もお怪我をされたのですね……。今はお元気そうで何よりです」
『国王による婚姻命令』の詳細はまだ不明だが、彼の妻となることが、民を守る英雄を支えることにつながるなら——それはとても誇らしいことだ。
エトワールは心からの笑顔を浮かべた。
けれども、フィラントは彼女を見ることなく、無表情のままジャンを見据えている。
「お嬢様たちのおかげで、傷はもう癒えました」
そう、フィラントは再び軽く頭を下げた。
「お父様、それで……なぜ私なのですか? 母の働きぶりに感銘を受けた陛下が、娘に良い伴侶をと考えてくださった、ということでしょうか」
そう問いながら、心の中では「逆のような気がするけれど」と考えている。その疑念を口に出せば、場の空気を悪くするに違いない。そう思って、わざとすっとぼけた。
「……ああ、そうだな。そうだ。そういうことだ。フィオールへの褒美の一つがどうやら彼のようだ」
父がそう答える間も、フィラントは顔を上げず、静かに沈黙を保っている。
「英雄には金、地位、女と相場が決まっているので、私にもそれが与えられることになりました」
エトワールは言葉を失い、不安げな眼差しで父親を見た。もしかして——その予感はあったが、いざ自分が『戦後の報奨品』であると提示されたので動揺して、胸の奥がひやりと冷えた。
親の教えこそが自分を幸せにする。結婚相手は地位や財産ではなく『愛』を大切にして決めることにしていたのに。
「アストライアは近年急成長している貿易都市で、人の往来が激しく、治安がかなり悪いです。そこへの任官は貧乏くじというか嫌がらせです」
フィラントは頭を下げたまま、言葉を続ける。
ジャン・シュテルンの妻——フィオールもまた、政治の関係で国外へ追い出される。戦争が終わったことで、なあなあだった地位や役職の取り合いが始まり、王位継承権問題も再び表面化しつつあると。
「ホール軍医長官が、フィオール様を目の敵にしていることはご存知ですよね?」
「……いえ。エトワール、そうなのか?」
父に尋ねられたエトワールは、首を横に振るしかなかった。そんな話は、母から聞いたことがない。胸の奥に小さな不安が灯る。
「ご存知ないようですが、そうなのです。陛下はホール軍医長官を無下にできません」
国王は『戦場の天使』ことフィオールを、敬意をもって扱いたいと考えている。しかし、それを表立って行えば、ホール軍医長官がへそを曲げ、正論めいた手段で嫌がらせを始める。
今、フィオールに下されようとしている——煌国への視察団派遣の辞令がまさにそれ。看護婦育成学校の設立を願うフィオールに対して、一見すれば好意的な命令だが、実際には——
「ある筋から聞いた話ですが、視察不足だと帰国を長引かせるつもりのようです。その間に、"戦場の天使"を崇める民衆の熱は冷めるだろうと」
「……妻からそのような話は聞いていません」
ジャンが低く呟き、エトワールも「私もです」と声を落とした。母のことが心配で、気分が滅入る。
母は戦後、平穏な生活に戻り、近隣の医療活動に従事している。看護婦学校設立の話など、娘である自分には一切話していない。しかし、母には内に秘めるところがあるので、この話を信じることにした。
「近々、王都から使者がくるでしょう。フィオール様もご在宅だと思ってうかがったのですが、明日お戻りになるそうですね」
「……ええ」
父の声はかすかに震えていた。
弱き者を助けることに生涯を捧げてきた妻が、政治闘争の渦中にあるなど、想像もしていなかったというように。
「フィオール様の敵は、自分たちの敵と親しい人物です」
フィラントはこう語った。どのような職であっても、自分は主のために尽くすと誓っている。ユース王子が、恩賞の一つとしてフィラントに貴族の地位を用意してくれた。
しかし、平民が貴族になるには、婚姻という手段しかない。近年、『報奨妻』は貴族社会では嫌われており、国王といえども婚姻命令を出すのは困難だ。
「それで、都合の良いお嬢様を紹介するから自力で口説け、という無理難題を突きつけられました」
そこに敵対勢力の横やりでアストライア騎士団副隊長への任官が決まり、結婚相手もその土地に縁ある者が望ましいという話が出てきた。
「私の主、ユース王子がそこにフィオール様の件を絡めました」
ホール軍医長官はフィオールの人の良さにつけ込んで、視察開始までの期間も彼女を僻地に追いやろうとしていた。ユース王子はその隙を突き、アストライア行きを推した。
「ユース王子はフィオール様を高く評価しています。力になりたいと……立場が弱くとも、できる限り」
忠臣であるフィラントが働く都市であれば、彼を通じてフィオールを守れると考えて動き、計画は無事に成功。
「可能な限り、生活の安全をご用意します。もちろん、他にも」
フィラントは一通の封書を差し出した。机の上に置かれたそれには、王国の紋章入りの蝋封が施されている。
その紋章——円に十字、そして鷲を組み合わせた意匠は、アルタイル王国に暮らす者であれば誰もが知るもの。
「こちらは陛下からの婚姻命令書です」
瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた気がした。自分の未来を変える紙が、今、目の前にある。
ホール軍医長官から見れば『戦場の天使の娘』が『報奨妻』になるなど痛快極まりない。
だがこの婚姻は、ホール軍医長官の意図とは真逆の意味を持ち、フィオールの娘のそばに番犬をつけることになる。
「……番犬ですか。それはありがとうございます」
父はそう口にしつつ、素直に感謝しているとは見えない複雑そうな表情を浮かべた。しかし、彼は頭を下げた。
「妻に迫る危機について教えてくださったことにも、感謝します」
目の前の凛とした騎士が、自分の番犬になる。エトワールは黒くて毛の短い、スラリとした犬を想像した。とても頼もしい気がすると微笑む。
「自分との婚姻によって、お嬢様はお母上の視察に同行する機会を失ってしまいます。それもホール軍医長官の意図するところです。母娘を引き離すのは、嫌がらせでしょう」
「私は来月、王都へ上京して一人暮らしをする予定でした。ですので母と離れることは、嫌がらせにはなりません。ホールさんとやらは、そのことまで知らなかったのですね」
エトワールは母を敵視する人間を「軍医長官」などという敬称で呼びたくない。
「……王都へ上京、ですか。……すみません」
「フィラント様が謝ることではありません。政治って……本当に大変なんですね」
「大変そうです。自分は指示通り働くしか能がなくて」
しかし、ユース王子はホール軍医長官の味方のふりをして、父親に頼んでこの婚姻命令を出すことに成功した。それだけではなく、『報奨妻』という構図を恋愛結婚の芝居で塗り潰し、ホール軍医長官に一泡吹かせたいと考えている。
そこで、フィラントとエトワールは同時期に別々の理由でアストライアへ移住し、ごく自然に出会い、婚姻に至ったということにしたいと提案された。
国王が政敵に非難材料——『貴族への強制婚姻命令』を与えたくないことは分かっているから、それをしてもらう代わりに配慮する。国王とユース王子の間で、そんな取り決めをしたという。
「生活の安全確保に加え、謝礼金、できる限り快適な生活を用意します。その代わり、私の任務や社交にお付き合いください」
隣に座る父はエトワールの手を握り、迷っているような表情を浮かべている。手紙も含めて全て嘘かもしれない……でも、自分たちにこの話の真実性を探る力はない。父は田舎村の文官で、エトワールはその娘だ。何の力もない。
母フィオールなら、何か調べることはできるだろうか。
「エトワール様。これは私とあなた様の契約になります。お母上も含めて話し合い、アストライアでお返事をください」
フィラントはゆっくりと立ち上がり、恭しいと伝わってくるような綺麗なお辞儀をしてくれた。ようやく彼と目が合う。やはり、あの人に似ている瞳な気がする……そう感じて疑心は吹き飛んだ。
「いえ、ここで返事をいたします」
エトワールは大きく深呼吸をしてフィラントを真っ直ぐ見つめた。視線が交差したのはほんのわずかな時間で、彼は無表情で目を逸らし、窓の外を眺めた。返事の内容など、もう分かっているというように。
「お母様を守っていただいたようで、ありがとうございます。ユース殿下やあなた様にご協力したいです」
立ち上がって会釈をして、そう、口にした。
顔を上げると、ついさっきまで窓の外を見ていたフィラントはジッとエトワールを見つめていた。眉毛の一本も動かさず、何も言わない。
「そうですか。では、アストライアでまた」
フィラントは帰るというように出入り口へ向かって歩き出した。
「あの、作戦会議をしないのですか?」
協力してください。協力しましょう。そういう話をしたのだから、普通なら話し合うはずだ。
「嘘はつくほど綻ぶものです。婚姻までの流れが分かっていれば構いません。都度、指示を出します。まずはアストライアでお待ちしています」
フィラントは振り返ることなく去った。
彼は凛として冷めた態度だったのに、エトワールの心には謎の熱が残って燻った。




