二話「令嬢と運命の鐘」
『エトワール、愛のある結婚をするのよ』
エトワール・シュテルンは母の教えを守ることが、自身の人生を幸福たらしめると信じている。
☆
エトワールは「あっ」と叫んだ。
ぎしりと揺れる枝にしがみつくも、今にも滑り落ちそうだ。高所恐怖症ではないが、地面が遠くて体が強張る。
どこかの鳥を驚かせてしまったのか、羽音がばさばさと頭上を掠めていった。枝から手が滑り、「落ちる!」と怯えた瞬間、質素なドレスが枝に引っかかった。
助かったと胸を撫で下ろしたエトワールの眼前を、猫が悠然と通り過ぎていく。『猫は景色を楽しみたくて高いところへ登り、降りられなくなった』と思い込んでいたが、エトワールの勘違いだった。
逆さになった世界で笑いながら、足元にある枝に両手を伸ばす。鍛えていない腹筋ではどうにもならず、やがて頭がくらくらしてきて諦めた。
「誰か……」
「助けてください」と言い終える前に、枝に引っかかっていたドレスがビリビリと裂けて宙から落ちた。
地面に尻もちをついて、軽く頭を打つ。目がちかちかしたが、低い場所からの落下だったので大したことはない。
「エトワールお嬢様!」
呆然と空を仰ぐエトワールを呼ぶ声がした。使用人のミルダに名前を呼ばれて少し焦る。「何もありませんでしたよ?」というような表情を浮かべて、破れたドレスを足に巻きつけた。
「猫が木にいたから木登りだなんて、そんなことはしていないわ」
「もう、子供じゃないんですから」
ミルダは呆れ顔を浮かべた。
「お嬢様が木に登っていたところを私は見ましたよ。またすぐにバレる嘘をついて」
「つい、ごめんなさい。お母様やお父様に、はしたない娘って言われないように秘密にしてね」
ミルダの何か言いたげな表情に焦り、足に巻いたドレスのことを忘れて歩き出そうとしてよろめき、自分の足につまずいて再び尻もちをついてしまった。
「まったくもう、お嬢様は……」
ミルダが片手を額に当てる。エトワールは恥ずかしくて顔を隠そうとした。
その時だった。すっと、ミルダの隣を人が横切った。エトワールは自分に大きな影が落ちたので、ゆっくりと顔を上げた。精巧な彫像のように無表情な青年がいて、じっと彼女を見つめている。全身を眺めるのではなく、真っ直ぐ、射抜くように目だけを見られている。
青年の目は、とても不思議な色を帯びている。黒い宝石に光が反射して他の色が見え隠れする——まるで万華鏡のような眼差し。
無言で手を差し出されて、助けようとしてくれたと分かったけど動けない。この瞳は『あの人』にかなり似ている。幼い頃に助けてくれた、名前も知らないあの人の目の輝きとそっくりだ。
「立てますか?」
青年は手助けするというように、片手を差し出してくれた。彼の声で、エトワールは我に返った。
村で見たことのない青年。服装と帯刀している姿で兵士だと分かる。駐在兵などのくたびれた制服や、彼らが腰に下げている剣とは格が違う。黒と銀を基調にした制服に、黒い手袋とブーツ。剣の鞘も柄も白銀に輝いている。
背が高く、顔立ちも整っている。十年以上経っているから『あの人』と顔が似ているかどうか分からない。意志の強そうな眉は同じな気がするけれど、特別だとか、特徴的な形ではない。
あの人——汚れてボロボロな衣服を着た少し臭う男の子が、このような立派な衣服を着られる青年になるとは思えない。目が似ているだけの別人だろう。
このような目立つ姿の騎士を一度でも見かければ村中で話題になるはずだが、彼のことは何も知らない。
「失礼、足をお怪我でも?」
青年は片膝をついた。エトワールはすぐに返事ができなかった。言葉が喉につかえて出てこない。カランカラーンと聖堂の鐘が時刻を告げる中、エトワールの心臓は激しく打ち始めた。
カランカラーン、カランカラーン——
妙に耳に残る鐘の音が、時ではない何かを告げている気がしてならない。
「……い、いえ! どこも怪我していません!」
急に渦巻いた動揺に戸惑いながら立ち上がろうとする。すると——
「あっ、あら。あら?」
再びドレスの裾に足を取られて体勢を崩し、青年の胸に倒れ込んだ。子供のように抱き上げられ、そっと地面に降ろされる。
「……ありがとうございます」
触れ合いは、一瞬だった。それなのに、顔がみるみる熱くなっていく。
「猫と木登りとは、楽しそうですね」
青年が横を通りすぎたので目で追う。彼は、エトワールが先ほどまで登っていた木を見上げた。
「猫が降りられないと思ったのです。遊んでいたわけではありません」
なぜか「この人に子供扱いされたくない」と感じて、思わずそう口にしていた。
「そうですか」
彼はそれ以上何も言わず、木を見上げ続けた。自分はお喋りなはずなのに、なぜ言葉が出ないのか。
「助けていただきありがとうございました」も、「みっともないところをお見せしました」も、口にするのは簡単なはずなのに、心臓がすごくうるさい。なんで……
ミルダが寄ってきて、エトワールの肩に手を添えた。
「お嬢様、先ほどの『大丈夫』は嘘で、お怪我を?」
「いえ、いえ、どこも」
「お嬢様を助けていただき、ありがとうございました。行きましょう、お嬢様」
ミルダに促されて歩き出したものの、「まだお礼を言っていない、名前も聞いていない」と振り返る。
ミルダは青年を一瞥し、警戒するような様子でエトワールの背中に手を添えた。
「そちらのお嬢様は、シュテルン卿のご息女……エトワール様でいらっしゃいますか?」
青年はエトワールとミルダを見ずにそう言った。木の葉にそっと触れて弄っている。その指先は、わずかに震えているように見えた。
「はい、そうでございます。助けていただき、ありがとうございました」
青年がゆっくりと振り返り、目が合う。思わず息を飲んだ。
足先から手の指先まで何かが走り、体がかすかに震える。またしても顔が熱くて仕方がない。その原因を考えても答えは出ない。
『あの人』は、たまにしか行けない場所で出会った、どこの誰かも分からない人。十年も経っているから成長した姿は分からない。探しても見つからないだろうと諦めかけている。その『あの人』と、このように再会できるはずなどない。でも……また会えたのではないかと考えてしまう。このように、あの人の目と似ていると感じる男性と会うのは初めてだから。
この青年は初恋のあの人かもしれない。そんな風にエトワールが戸惑っていると、青年は口を開いた。
「私はフィラント・セルウスと申します。国王陛下の命により、あなたと婚姻することになりました」
王命で結婚。予想外の言葉に、頭の中が真っ白になる。理解が追いつかない。
混乱で何も言えないままでいると、フィラントと名乗った青年は、まっすぐこちらを見つめ、静かに言葉を続けた。
「本来であれば、まずはご両親にご挨拶をすべきところなのに、先にご本人とお会いするとは」
エトワールは慌ててドレスの裾を広げて会釈を返した。
「お嬢様!」
ミルダの叫び声が響いた。
頭を下げたことで、自分の生足が見えていることに気づく。動揺の積み重なりで、ドレスが破れていることを、すっかり忘れていた。
「……いやあああああああ!」
絶叫が空気を揺らし、そのせいか木の葉がひらりと一枚地面へ落ちた。
「すみません! うっかりで! はしたない娘ではありませんので! 本当にうっかりなんです! お見苦しいものをお見せしました!」
エトワールは大絶叫しながら慌てふためいたが、フィラントは眉ひとつ動かさず、ゆっくりと顔を背け、何も言わなかった。
一瞬、視線がぶつかった時に、エトワールはまたしても初恋の少年のことを強く思い出した。
☆ ★
十数年前、日が落ちかけたアルタイル王都のとある路地でのこと。
「高いところからなら、お父様やお母様を見つけられると思ったの」
エトワールは、ポロポロと涙を流した。高台を目指して歩いていたけど、足が痛くなって動けなくなってここに座り込んでいたと相手に語る。
もう足は痛くなくなってきたけど、日が落ちてきて怖くなり、どうして良いのか分からなくなっているとさらに続けた。
少年は、そんなエトワールに自分が持っている袋を押しつけた。
「荷運びをしろ。その代金をお金ではなく道案内で払ってやる」
その台詞の意味は「助けてあげる」だと理解したエトワールは「ありがとうございます」と微笑んだ。
ずっと寒かったけど、胸の真ん中から温かさがじわじわと広がっていく。
「大聖堂が近いからそこへ行く。大司教様が助けてくれるから。おいで」
少年はエトワールが立つのを待ち、歩き出してからも速度や様子を気にかけてくれた。エトワールはうつむきながら、もう泣くまいと耐えた。泣き続けると、優しい人を困らせてしまう。
「夜が始まったから流れ星を探すといい」
それは、心細いエトワールの心に染みるような優しい声だった。
「流れ星……?」
「そうだ。流れ星に祈れば願いを叶えてくれる」
「嘘よ。叶ったことなんてないもの」
エトワールは吐き捨てるように呟いた。
「流れ星は美しい願いしか叶えない。流れ星は美しい祈りを叶えればまた星になれる。だから、綺麗な願いを頼むんだ」
少年は話を続けた。
「お父様とお母様のところへ帰りたいです。そうではなくて、お父様とお母様が私にまた会えて幸せになりますように。そんな風に祈るといい」
「……初めて聞いた話です」
「さぁ、流れ星を見つけられるように夜空を見てごらん。夜は暗くて怖いけど、それだけじゃないから」
少年の腕がゆっくりと空を横切る。
エトワールは大きく頷いて視線をあげ、昼と夜が交わる幻想的な空を眺め「素敵な空……」と感嘆の声をあげた。この夜空の美しさはきっと、優しさでできていると、涙が頬を伝っていく。
「あっ! 流れ星!」
エトワールは急いで両手を合わせ、強く握りしめ、願いを口にした。
「私を助けてくれた男の子が、うんと幸せになりますように」
エトワールが願いを『両親との再会』にしなかった理由は、自分を助けてくれた男の子の身なりがかなり悪く、あまり良い生活をしていないと感じたから。
少年はなぜか驚いたように目を見開き、その後は柔らかく微笑んだ。あまりにも優しい笑顔にドキドキして、あれから何年も経っても、思い出すたびにときめく。
エトワールは、あの日見たもの全て、特に大聖堂の高いところから眺めた絶景を一度たりとも忘れていない。




