一話「騎士、結婚すると知る」
『殺せ。殺してみろ。殺せるものなら殺してみろ。さあ——』
★
フィラントは呻いた。この世の何もかもが血染めだ。朦朧とする意識の中、そんな考えが浮かび、呻き声が漏れる。
『僕は決して裏切らない。絶対にこの秘密を口外しない』
懐かしい、若き日のユース王子の声だとフィラントは空虚に手を伸ばそうとした。しかし痛みのせいで手は動かない。
『今の季節の星空は、それもアルタイル大聖堂から眺める夜空は最高だ』
またあの大聖堂の隠れ家に行きたい。ユースと共に。そう呟いたつもりが声は苦悶にかき消された。
不意に、視界に白い影が現れた。白金の輝きが彼の世界を包んでいる。
自分を慈しんでくれる、眩しく光っている誰かがいる。
(白金……。あの星の輝き……)
体の痙攣と同時に、再び意識を失った。
★
数ヶ月後、アルタイル王都。
夕刻過ぎに届けられた一通の封書に、フィラント・セルウスは思わず眉をしかめた。
アルタイル王家の紋章が、赤い封蝋に浮かんでいる。国から何かしらの命令だ。
「おおお! 届いたか。フィラント、父上からになっているが、実際は私からだ」
ソファに腰掛け、優雅な手つきで紅茶を飲んでいたユース王子が、満面の笑みを浮かべる。
主が何かよからぬことを実行したのかもしれない。フィラントは飛行船を利用した交易の収支表の確認を止めて、手紙を開封した。
「俺が……貴族のお嬢様と結婚? 理由は何ですか? そもそも、こちらはどこのどなたですか?」
手紙の内容は「フィラント・セルウスはジャン・シュテルン男爵の娘、エトワールと婚姻せよ」というもの。
ユース王子がティーカップを軽く掲げた。
「シュテルンで分からない?」
「分かりません。貴族令嬢と結婚なんて、騎士の俺に貴族の位を与えて、さらに働かせるつもりですか? 既に仕事を押し付けているのに……」
公の場では、今のような台詞を吐かないように気をつけねばならない。友人のように接してもらっているからと、気が緩んだ。
自分たちは『王子と騎士』で、『王族と平民』なのだ。しかし、彼と二人きりだと、つい、こういう口調になってしまう。
小さなため息を吐くと、フィラントは便箋を丁寧に封筒へ戻し、唇を真一文字に結んだ。
恩を返す。ただそれだけを目的に生きてきて、業務でそれを成してきた。ユース王子が自分を使うにあたって、その必要があるなら結婚するし貴族にもなる。
「真面目で勤勉かつ優秀な君へ、父上から褒美だ。私の暗殺阻止に加え、戦場での数々の功績。長年の忠義や仕事振りに対する正当な評価だから受け取れ」
ユース王子がにこやかな笑顔で、ウインクを飛ばした。実際に何かが飛んでくるわけでもないが、思わず避けた。嫌な予感がする。
報奨という名の重労働な気がしてならない。これまでの経験に裏付けされた勘だから当たるだろう。
「アストライアで治安維持を担ってもらう。君は数ヶ月後にはアストライア騎士団の副隊長だ。その任官のために爵位が必要だから結婚してもらう」
フィラントは珍しく目を大きくして、口もあんぐりと開いた。手から滑った手紙が机の上にポトリと落ちる。
「せっかく王都へ戻ってきたのに、どうしてそんな不必要な命令を承諾したんだ。必要もなくユースと離れるなんて」
言葉遣いが崩れた自覚はあっても直せない。そのくらい動揺している。
ユース王子は表情を変えず、ニコニコしながらティーカップを机に置き、ゆっくりと立ち上がった。窓辺に近寄り、フィラントに背中を向ける。
「いつものことだ。私の宝物を取り上げるのが好きな者たちのために先回りさ」
「国境警備隊に送るとかあるだろうに、貴族だなんて。そんな大出世……して助けてくれってことなら励みます」
フィラントは手のひらを返した。力強く頷く。
「父上を説得するのはいささか疲れた。あちこちから嫌味も言われたし。私はアストライアを今のうちに押さえたい」
フィラントはいよいよ主が本格的に政権掌握に踏み出すのだとヒシヒシ感じた。
「フィラント、重要領地の治安維持のために必要な人材となれば再出征はない。アストライアまで侵攻されれば話は別だが」
「ユース……」
ユース王子は振り返り、心底すまないというような悲しげな微笑みを浮かべた。
「顔も名前も分からない白天使は諦めてくれ。初恋を叶えられなくて悪いな」
「……初恋とか、そういうものではない! 俺はただ、礼を言いたいだけで」
彼女の顔も名前も知り、許されるのなら御礼品も贈りたいけれど。そこまでは言わなかった。
仕事の合間に探してみてはいるものの、彼女——野戦病院で負傷兵たちを世話してくれた看護婦のうちの誰かは見つからない。
声と白金だけを頼りに、この半年で何人もの従軍看護婦と会ったが、全員、違った。
金髪や色白という人物は何人もいるらしいし、『歌って慰めてくれた』という話も珍しくないようで、手掛かりにはならず。
「それなら結婚しなさい。君のためで、私のためだ」
主のためならと、フィラントは小さく頷いた。
白金の輝きと共に聞こえてきた、あの優しい声を思い出し、ズキリと胸を痛ませながら。
フィラントが首を縦に振ると、ユース王子は満足げに唇を綻ばせた。
「結婚相手がどこの誰か分からない君に教えてあげよう。シュテルンの名前でピンってこないなんて。あの戦場の天使、マダム・フィオールの姓がシュテルンだ」
「えっ、あのフィオール様の娘? まさか」
思わず椅子を蹴立てて立ち上がりそうになった。
『フィオール』はフィラントも入院した前線に設営された臨時病院で衛生や看護大改革をしてくれた貴族夫人だ。
指揮だけではなく、私財も投入し、おまけに現場で誰よりも働き、大勢の兵士たちを救い、守ってくれた。
他の兵士たちと同じく、フィラントも大感謝しており、とても尊敬している。
「そのまさかさ。私はホール軍医長官が大嫌いでね。なにせ、間接的に君を殺そうとした。他の可愛い部下たちのことも」
ユース王子の声に冷たさが宿る。
「あいつを腐すのに、彼が大嫌いな『戦場の天使』を使う。ウェイルズに地獄病院を作った罪に罰を与えないとならない」
「……フィオール様はホール軍医長官に嫌われているのか? そんな話は聞いたことがない」
「私は地獄耳だ。ホールの野郎に『あなたが正しいのにあの成り上がり夫人は政治の苦労や資金繰りについてまるで分かっていない』って言ってあげたんだ」
ユース王子は再びフィラントに背を向け、窓を開き、大きく伸びをした。
「さらに、『死神騎士を彼女の息子にしてはどうか』って提案した」
愛娘が騎士の報奨妻にされる。嫌いな女がそんな目に遭ったらホール軍医長官はさぞ喜ぶだろう。
ユース王子は何かを仕掛けて、彼を喜ばせてから突き落とす計画を立てたようだ。
「私はあなたを高く買っている。影の薄いぼんくら王子に評価されても嬉しくないだろうけど。でも私は腐っても王子で、父上に甘やかされていてね」
そういう言葉でホール軍医長官に近寄ってみたという意味だと、フィラントは耳を傾けた。
「他にも色々。私は、プライドや野心で兵たちを死なせたホールを必ず左遷する。救えなかった命への弔いだ」
「俺もあの男は大嫌いだ。なんとか生き延びた先に地獄を作りやがって……」
フィラントは終戦とほぼ同時に病院行きになったので、地獄の住人にはならなかった。
しかし、不衛生で食糧も医薬品もろくにない劣悪な状況で仲間や部下が次々死んだ。なんとか生き延びた者たちからも、その悲惨さを聞いている。
「絶対に許さない者がまた一人増えて面倒くさい。私が大変なのだから、君も頑張りなさい」
ユース王子はフィラントの方へ体の向きを変えてニコリと笑った。
窓の外で輝く太陽が照らすユース王子に、フィラントは目を細めた。ほんのわずかに、柔らかく口角を上げながら。
「マダム・フィオールに気に入られるように。で、折を見て私のことを宣伝してくれ」
「そういうことは苦手で俺だと役に立つ気がしないが、精一杯励む」
「いや、君が言うことに価値があるんだ」
「そうか? まぁ、君がそう言うなら、自分なりに励んでみる」
「フィラント。私のために、君のために結婚しろ。そして仕事に励め」
この命令に、フィラントは躊躇いなく頷いた。そうしてから、眉間にしわを作った。
「……結婚って偽装ってことだよな? 俺の報奨妻だなんて可哀想だ」
「君ならそう言うと思った。報奨妻は貴族たちの反発で廃止の方向だけど作戦に必要だから偽装でいい。しぶしぶ強制婚姻命令を出した父上も喜ぶ。脚本は作ってあるから任せろ」
「それなら安心だ。天使様の娘が俺なんかの妻だなんて許されない。君なら、良い脚本や相手へのお礼を考えてくれる」
「もちろん、任せなさい」
それから数日後、フィラントはシュテルン家へ挨拶をしに行った。
村の住人に聞いたシュテルン邸へ足を運び、緊張でしばらく家の近くで立ち尽くしていた。
家から出てきた女性に目を奪われる。
微風が彼女の細い巻き髪を揺らす。太陽光がその白金を光らせた。
きらきら、きらきら——
甘い顔立ちの美女が、母親らしき女性に笑いかけている。あまりの美しさに心臓が止まりそう。
囮役で死ねと命じられて、死が口を開けて待っているようだった砦に突撃した時以上の動悸だ。
とんでもないほどの爆音が自分の内側から聞こえ始める。
「ミルダ。それでは行ってきます」
若くて美しい女性が発した声に、今度は耳を奪われた。この声はあの白天使……
まさかと、フィラントは一人ごちた。
「エトワールお嬢様、行ってらっしゃいませ」
あの女性は母親ではなく使用人。
村人にあそこがシュテルン邸だと言われた場所から現れた『エトワールお嬢様』は、結婚相手の『エトワール・シュテルン』で間違いない。
全てを捧げてでもお礼をしたい、狂おしいほど求めた天使が、輪郭を持って目の前にいる。天使は実在していて人間だった。
初恋の白天使が俺の政略結婚相手だなんて。
フィラントは幻想を追い求めていると自覚しつつあったので、この予想外の出来事にたじろいだ。ゆっくりと後退りする。
あまりの動揺でシュテルン家への挨拶を遂行せず、脱兎の如く王都へ戻った。ユース王子のところへ行き、「どういうことだ」と詰め寄る。
「探してって言うから探したんだ。感謝してくれ」
「見つかったって言えば済むだろう! なんで陛下に婚姻命令を出させたんだ!」
「だって君、口説くとか無理そうじゃん? もたもたしていると他の男に取られる。君のために父上に頼んだんだから『ありがとう』って言え」
ぽんぽん、と肩を叩かれたフィラントは、頭を抱えた。
「白目を剥くなフィラント。喜べ」
「……ふざけるな。俺の白天使を解放しろ。政治闘争に巻き込むな」
「私は二つの政治闘争をくっつけただけだ。私とホール。ホールとマダム・フィオール。この私が味方しないとシュテルン家は劣勢だぞ? 初恋の白天使を見捨てるのか?」
フィラントは声を詰まらせ、項垂れた。
お礼を言いたい看護婦がいて探している。そんな話を部下想いの主にした結果、とんでもない策を練られた。
「フィラント、私のためにエトワールちゃんとラブラブ作戦を実行し、マダム・フィオールという駒を獲得しろ」
「……らぶ、らぶ? はぁあああああああ⁈ なんだその作戦は⁈ 絶対に必要ないだろう!!」
フィラントが絶叫すると、ユース王子は両耳に指を突っ込んで「やかましい」と呻いた。
「嫌いな女の娘が死神騎士の報奨品になって不幸のどん底。ざまぁみろ。そう思って高笑いしていたのにさ、幸せになったら悔しいだろう?」
ははは、と白い歯を見せて笑いながら、ユース王子はフィラントの肩を三回叩いた。
「ほ、他っ! 他にもあるだろう!」
「君の初恋を叶え、出世させ、アストライアを掌握し、あの戦場の天使を私の駒にして、ホールを悔しがらせる。全部乗せの作戦は他にはない」
「君の頭脳なら他の方法を考えつく。エトワール令嬢を解放しろ!」
「ここまでで疲れたから嫌だ。君は私の命令を断るのか? 君は断らない。断れない。私に絶対、服従だから」
この言葉に、フィラントは唇を結んだ。彼の言うとおり、ユース王子の命令は断りたくない。
「それに意見の相違だ。君の妻の座を得られるエトワール令嬢は幸運だ。この私、次の国王の右腕が後ろ盾になるんだぞ」
「……そういう意味ではそうだけど」
「君は偽装結婚という方法で、エトワール令嬢を『報奨妻』から解放した。私が根回ししたからだ。感謝しなさい」
「おい、君が『報奨妻』にしたんだろう」
「そうだ。君の白天使をホールの魔の手から守るためにそうした。彼女を家族ごと、不幸から守りたいだろう?」
ユース王子に肩を組まれたフィラントは、昨日、垣間見たエトワール・シュテルンの姿を思い出して、静かに頷いた。
「当たり前です。そうか、何か建前がないと手助けできない。俺がいきなりシュテルン家の護衛になるなんておかしな話だ」
「そうそう。そういうこと。結婚相手だと偽って、護衛につくという話さ」
地獄の中で熱心に働いてくれた、慈しみのある、甲斐甲斐しい看護婦を守るためならなんでもする。
「お任せください。しかとお守りしてみせます」
「挙式日はまだ先だけど、結婚おめでとうフィラント。今夜はアルタイル大聖堂の秘密基地で乾杯だ!」
偽装結婚なので祝うことではない。酒を飲む口実だろう。満面の笑みのユース王子からウインクが飛んできたので、フィラントはいつものように避けた。
★
こうして、フィラントは政略結婚することになった。その先に待っているものが何か、彼は知る由もない。
『夫婦になったので観念しました。苦手でも、少々恐ろしくても、克服しないとなりません。そう思いませんか? 旦那様は、恋慕うべき相手です』
そんな未来を、フィラント・セルウスはまだ知らない。




