19話「ダンス・ロマンス・アンバランス」
階段からの落下しそうだったエトワールは、フィラントの腕の中におさまった。
フィラントの腕に抱きしめられながら、彼の体の上に乗っているような体勢に、始めは怯えで体が強張ったが、今は羞恥心しかない。
エトワールの父は、自分が養父だと自覚して娘を抱きしめたりしない。
褒める時は握手がメインで、たまにそっと肩や頭、背中を子供相手のように撫でるくらい。
だから、エトワールが異性に抱きしめられるのはこれが初めて。
実母や養母、女性の腕とはまるで違う包容力。胸元の服にくっついた耳に聞こえてくる、ドクドクと脈打つ心臓の音。
母たちや抱擁の挨拶を交わす友人たちとは全く違う、それでいて父とも異なる香り。
(香水ではないし、汗や汚れの匂いでもない……)
見た目で分かっていたはずなのに『異性だ』と強く感じた。自分とはまるで違う生き物だと。それでいて、過去の嫌な出来事も蘇らない。
逞しい腕で胸板も厚く、サシャの「ムキムキ」という台詞が耳の中で響いた。
看護婦として兵士たちを治療する時に、男性の体や筋肉は見知っている。それなのに、まるで知らないことのよう。
動悸はすごいし汗もダラダラ。顔も手も熱くてならない。
肩を軽く押されて体を起こす。鋭い眼光に寄せられた眉毛に、強めに結ばれた唇。体に触るなというように手を取られたのもそう。フィラントは、どう見ても怒っている。
「……粗忽者で申し訳ありません」
「いえ。怪我はありませんか?」
表情は険しいけれど、声色は優しかった。怒ってはいないようだ。安堵で唇の端が震える。
「本当にすみません……。助けていただいたので怪我はありません」
スッと立ち上がったフィラントの影が落ちてくる。手を差し出されたので、おずおずと手を伸ばした。
初対面時と同じで、立ち上がる手助けをされた。それなのに、胸の鼓動の鳴り響き方が違う。あの時よりもずっと甘い。
「サー・フィラント、このままレッスンに移れるのでエスコートを」
「はい、ヴィクトリアさん」
フィラントの腕に手を招かれて並び立つ。父以外では、初めてこのような触れ合いをした。やはり、父の腕とは太さも固さもかなり違う。
(ムキムキ……)
服を脱いだら、あの負傷兵たちのように筋骨隆々……服を脱いだら⁈ と自分の妄想を首を振って払う。
「ヴィクトリアさん。エトワール様が萎縮しているのでレッスンは中止しましょう」
凛としたフィラントの声がホールに響いて消えていった。
「お嬢様は社交経験がないのと、私が厳しいので緊張しているだけです。そうですよね、エトワール様。レッスンを続けられますよね?」
「は、はい! にゃにも問題ありませぬ!」
瞬間、ヴィクトリアは吹き出した。笑って悪いというように片手で口元を隠して横を向いている。隣でフォンも顔を背けて震えている。
フィラントは……眉間に深いしわを刻んでいた。またやらかした、呆れられていると気分が沈む。
「時間は有限です。初心者ではないサー・フィラントがエスコートしてください。最近の流行りはワルツです。はい、1、2、3」
ヴィクトリアが手を鳴らす。一定のリズムで手を叩いて1、2、3と繰り返す。
フィラントにお辞儀をされて、手を取られ、手袋に唇が寄せられた。布越しの大きな手の熱が腕を伝い、全身を焦がすような感覚に襲われる。
「ヴィクトリアさん。エトワール様が震えているのでレッスンは中止しましょう」
その通りで、恥ずかしくて手の震えが止まらない。
「エトワール様はエスコートされる経験が不足しているので練習しないといけません。エトワール様、歓迎会で恥をかきたくありませんよね?」
「お母様の顔に泥を塗りたくありません。練習せずに本番は無理です」
練習は絶対に必要。それに、せっかくフィラントと手を握り合えたのだから。その考えが脳裏をよぎり、顔に熱が集まっていく。
「ご無理はなさらないように。いつでも中断します」
エトワールはこんなに緊張して照れているのに、フィラントは涼しい顔だ。
「お気遣いありがとうございます……」
胸が高鳴るとはこういうこと。エトワールは動揺しつつも踊れることに感激しているのに、フィラントは「こんな簡単なことなのに練習なんて面倒」みたいな表情をしているから悲しい。
両親と練習したことがあるので動ける。そう思ったのに、緊張でガチガチで、つま先が床につっかかった。
慣れない靴から足がスルリと抜ける。よろめいてフィラントの胸にぶつかり、「もう少しできるのに」と心の中で嘆いた。
落ち込んでいたら、フィラントの手で彼の肩を支えにするように誘導された。彼はそうしながらしゃがんだ。
「無骨者故、足を引っ掛けてしまい申し訳ありません。おみ足を失礼したいです」
いつの間にか、フィラントはエトワールの靴を手にしていた。どうぞと差し出している。フォンが軽く拍手をした。
「そうですサー・フィラント。女性を立てて、すぐにトラブル対処とは良い立ち回りです」
「改善点はありますか?」
「今のところはないです。ヴィクトリア、エトワール様の靴の調整はこれからか?」
フォンは、妻のヴィクトリアに問いかけた。
「ええ、明日の午前中に靴屋が来ます」
この娘はまたドジを。誰もそんな風に呆れていないようなので、胸を撫で下ろす。
「みなさん、ありがとうございます」
フィラントは騎士なのに、エスコート慣れしているのはなぜ。王宮騎士とは、そういうものなのか。
ふと、フィラントの主——ユース王子は女性にだらしないという噂話を思い出す。彼も女性と戯れてきたのかもしれないと想像して、胸がチクチク痛んだ。
1、2、3——1、2、3と揺れて、たまに導かれるようにクルリと回る。
両親が仲睦まじそうに踊る時、二人の目はずっと合っているのに、フィラントとはまるで目が合わない。口笛話で笑ったあの日は、夢だったと思えてくる。
(あれ?)
どんどん顔を背けられると落ち込んでいたら、フィラントの耳がほんのり赤く色づいていることに気づいた。
「サー・フィラント。エトワール様を口説いていることになっているから、熱視線で見つめましょう」
フォンのこの指導で、フィラントは足を止めた。
「そんな目はできません」
声が掠れているし小さい。
「エトワール様から目を離さない。それで充分だからそうしなさい」
「俺なんかが、そんなに長く見るなんて許されません」
その発言に、耳を疑う。
「俺なんかだなんてなぜですか? 王宮騎士様と田舎の男爵令嬢ですので、一般的には『私なんか』ですのにそのように」
ヴィクトリアに『さん付け』で呼ぶように指導されたのでそうしているが、本来なら、エトワールくらいの身分だとフィラントのことは『様』を付けて敬って呼ぶものだ。
それなのに、フィラントは身分格差を気にしていたようだ。それも、世間の常識とは逆の方向で。
「俺は死神で、血塗れ騎士ですよ⁈」
叫ぶと、フィラントはゆっくりと手を離した。後退りして俯き、片手で口元を隠した。
鋭い目つきで床を睨みつけている。今まさに、自分を侮辱した人間がそこにいるというように。
「そのように嘲り、見下す方がいるのですね」
兵とは人殺し。屍の山を築く理由は人それぞれなのに、人を守るという尊い者もいるのに、世間は一括りにして蔑む。特に貴族はそう。
しかし、国境線守護、そして簒奪された領地奪還のための戦いが繰り広げられたのがウィエルズ戦線だ。だから世間は、あの戦いに参加した者に関しては賛美する。 差別意識の強い貴族でさえ、内心はどうであれ、まず感謝と賞賛を示す。
そこで英雄的活躍をしたらしいフィラントは、国防の英雄の一人だ。さらに彼は戦後の今も、警務騎兵としてこの街の平和を背負ってくれている。
エトワールは悔しいと唇を噛んだ。大勢の兵は、国を、土地を、民の命を守るために戦い抜いて傷ついた。亡くなった者も沢山いる。
それなのに、尊敬の念とは真逆の評価を下す者がまだいる。そのこと自体に腹が立つが、面と向かって本人に言う意地の悪い人間がいるなんて、怒りで叫び出しそう。
「あの、エトワール様?」
フィラントはおずおずと顔を上げた。その目にはハッキリとした拒絶の色が滲んでいる。
この目はかつての自分の目とよく似ている。両親に救われて養子になっても、すぐには心を開けず、引きこもっていた自分が、鏡を通して見た目と同じ。そう感じて、エトワールの喉は熱くなり、視界が少しぼやけた。
「私は……存じ上げています。あのウェイルズで、兵たちがいかに誇らしく、勇猛果敢だったかを」
フィラントは無言で瞳を揺らしている。
「戦う姿は見ていなくても、皆さんの怪我の数々が物語っていました」
重症部屋以外の兵士たちとは、両親のどちらかとたまに話していた。様々な人がいた。彼らが戦った理由も、色々だった。
フィラントは自慢一つしない、横暴さのかけらもない人だから、何のために戦ったのかは聞かなくても分かる。
エトワールは、そっと手を伸ばしてフィラントの両手を掴んで軽く握りしめた。
かつて母フィオールがそうしてくれたように。しっかりと目を見て言葉を探す。
「この手は命を救うために血染めになったと言うのなら、私も同じです。看護婦とは穢れを引き受ける仕事ですもの」
フィオールに育てられたエトワールからすると、この国の価値観、特に貴族の思考は一部、歪んでいて醜い。
命を救ってくれと頼むのに、その手伝いをする女性たちを「金のため汚い仕事も厭わない賤しい者」だと嘲り踏みつける。
『どうして助けてくれなかったのよ! あなたたちが杜撰な看病をしたんでしょう!』
夜通し懸命に看病しても、感謝ではなく罵声を投げつけられたことは、一度ではない。
『お金のためにあんな汚い仕事をしているなんて。下手な庶民よりも下だから、話しかけてこないで欲しいですよね。同じ貴族だなんて、恥ずかしい』
尊敬する母を蔑む貴族たちしかいない社交場には行きたくないと、両親に泣きついたこともある。
尊敬する母の背中を追いかけ、母に許される限り共に活動してきた。
命を救う手伝いをする者は、時に尊敬されずに尊厳を踏み躙られる。それがこの世界の現実だ。フィラントはきっと、ずっと頭のおかしい人たちに、自尊心を踏み潰されてきた。
「エトワール様にそんなことを言う者がいるんですね」
フィラントの表情に、苛立ちが揺らめいて見えた。エトワールは願いを込めて、フィラントの手を強く握りしめた。
「お金儲けの為ならどんな汚いことでもする。人を救えず死に誘う。私はそんな看護婦でした。死神で血塗れ、賤しい女でございます」
瞬間、フィラントはエトワールの手を強く握り返してくれた。力強い声で「違う」と否定されて、胸が昂る。
「誰だそんなことを言うクソ野郎は!」
粗暴な言葉遣いに面食らったけど、前にも少し垣間見たから驚愕はしない。
フィラントの無表情は消え去って、怒りと悲しみを露わにしている。予想通り、憤ってくれた。面と向かって違うと伝えても、自分の中で固定された価値観は中々、覆らない。でも、これならきっと届く。かつて、両親がエトワールにしてくれた方法ならきっと。
「庇ってくださり嬉しいです」
「庇ってなんていません。侮辱するやつがおかしいだけです」
「ええ。私も助けてくれる騎士様が不当に侮辱されると腹わた煮えくりかえります。あの、なのでフィラントさんも、ご自身を下げてはなりません」
自分たちは似たような憤りを抱える同士だと伝えたかったのに、フィラントは頬をひきつらせてエトワールの手を離した。
ジリジリと後退りして、首を大きく横に振り、背を向けた。
(お母様の口調でつい。失敗した。あっ)
フィラントは玄関へ向かって駆け出した。なぜか、その近くの長椅子に突っ込んでぶつかった。痛そうなので心配で、近寄ろうと足を踏み出す。
経験が乗っていないと感じられる言葉は軽く受け取られる。フィラントは何も知らないくせにと憤り、怒り心頭で視界が狂ったに違いない。
フィオールの娘、本人もあのウェイルズで働いたという情報だけでは、フィラントはエトワールの経験を推測できなかったということ。
それはつまり、結局のところ信用や信頼の問題だ。エトワールは小さなため息をついた。信頼関係が育まれていないのに、説教じみた言葉選びをしてしまって、間違えた。
足の痛みで軽く跳ねていたフィラントが、玄関扉へ手を掛けた。
「フィラントさん、まだ親しくもないのにお説教のようなことを……」
振り返ったフィラントと目が合う。顔が赤く見えたのと、瞳に怒りが滲んでいないので、トクッと胸が跳ねた。
エトワールが彼の経歴や経験を庇ったことに喜び、驚いてパニックになったのかもしれない。先程、エトワールのために憤ってくれたのでそうであって欲しい。
「ありがとうございます。私のために怒ってくれて」
ゴンッ!
フィラントは大きく目を見開いた後に、既視感のあるぶつかり方をした。扉を開かないで突撃はこれで二度目。彼は何も言わず、振り向くこともせず、屋敷から出て行った。
「おい、サー・フィラント! まだ打ち合わせもレッスンもあるのに!」
フォンの呼びかけに、鐘の音が被さった。何時か分からないが、ゴーン、ゴーンと鐘の音が鳴り響く。育った村の澄んだ鐘とは違い、錆びが不穏な音を混ぜている。だから苦手だ。
けれども——エトワールはその中にあるキラキラとした音を見つけて笑った。
歴史ある鐘だから多面的。まるでフィラントのようだと笑いながら両手で頬を包んだ。
★ ☆
フィラントは屋敷を出ると、門と玄関の間で座り込んだ。両手で髪を掻きむしり、死にそうだと呻いた。
顔は分からないけど、声と白金できっと探せると信じていた。探しても探しても見つからないけど、ユース王子のお節介で会えた。
お礼を言いたかった。感謝の気持ちを形にして贈りたかった。それだけだったのに——
『だって君、口説くとか無理そうじゃん? もたもたしていると他の男に取られる。君のために父上に頼んだんだから『ありがとう』って言え』
ユース王子のことなら深く理解している。フィラントはあの時、つい、彼女を政治闘争に巻き込むなと言ったが、ユース王子ならフィラントのためにわざとそうした。だからこんな状況になっている。
「エトワール様を解放するのは俺だ……。分かってるのに、こんなことばかりで無理……」
建前が無ければ、話すことすらできない。美人で、母親は政治に使える人で、献身的な性格の女性はあっという間にどこかの家や男性が手に入れる。
男性が怖いのにレッスンに付き合わせ、不用意な発言で自己否定をさせてしまった。
事実を話しているだけだと、ユース王子の『卑屈はやめなさい』という批難に耳を貸してこなかったせいだ。
「班長? 何してるんすか?」
気配が先にしていたが、殺気はないし、ここは戦場ではないので無視していたら、部下の声が落ちてきた。くるくるした金髪が、夕陽を浴びて風に揺れる。
「……あっ。もじゃ犬。マルクって、あのもじゃ犬か? ハウザーが気にかけていた」
亡き戦友の名を口にしたら、胸がズキズキと痛みだした。友は、フィラントを庇って敵に貫かれた。
「忘れた、覚えてないって照れ隠しじゃなくて本当だったんですね」
「ああ。俺は記憶力が悪い」
卑屈は良くないと学んだが、胃が重たくなって息も苦しい。ユース王子もエトワールも庇ってくれたが、フィラントの全身は敵だけではなく味方の血でも染まっている。
ハウザーだけではない。数少ない友は次々と死んだ。フィラントを庇って。
マルクは今よりも子供だったのに、『死ね』と無謀な作戦の駒にした。生きろと願いはしたが、隊長として死地へ送り、足手纏いになれば見捨てた。
フィラントは立ち上がって進み、門前に待機させていた馬に乗って駆け出した。ユース王子の政治の駒として、人前で叫ぶわけにはいかない。




