18話「フィラントとユースの奮闘」
ユース自室で、暗号で書かれた手紙に目を通している。フォンからの手紙に、愉快な箇所を見つけた。
エトワールは、今の自分は母親の代わりだと意気揚々と病院視察をして、職員と同じ服装で潜入していたため、酔っ払っている患者に尻を撫でられた。だが、スカートの下に仕込んでいた鎖帷子が患者の魔の手を防いだ。
(ふーん。お嬢様は鋼鉄の令嬢と呼ばれ始めました、ねぇ。あの小娘も少しはやるな)
死病に死体、糞尿にまみれた野戦病院に母親と共に降り立った小さな天使様は、調査通り実務経験があるようだ。でないと、このような現実的な対処はできない。
フォンからの手紙に一通り目を通し、彼の妻であり、エトワールの教育係のヴィクトリアの手紙に移った。
そこには、エトワールはどうやら男性恐怖症だと記載されていた。フォンとは異なる視点で観察してくれて助かる。
(それでも奮い立つ……ヴィクトリアはあのエトワール令嬢の愛嬌に取り込まれた可能性、と)
エトワールは、化粧の薄い田舎令嬢状態でも美しかった。両親のシュテルン夫妻が社交場に出さずに隠していたのも頷ける。それでいて母親譲りのような、決意と慈愛に満ちた瞳。
ああいう女性は人を惹きつける。フィラントの本能が彼女を選んだので、それだけで信用の担保はあるけれど、自分でも分析して確証を得ていくことは大切だ。
「ユースお兄様! レティアが参りましたよ」
事前の約束どころかノックも無しに、レティアが襲来した。相変わらず、従者が多い。
「麗しのお姫様。私の可愛い妹よ。成人したというのに、ノックという作法すら忘れる程、お兄様に会いたかったのかい?」
立ち上がって両腕を広げると、レティアはツカツカと靴音を鳴らして近寄ってきた。
胸ぐらを掴まれたので、甘ったるい香水の匂いが鼻をくすぐる。今日は白薔薇の香りだったのでうんざりした。薔薇は苦手だ。
「お兄様! フィラントは爵位を得て、私の夫になるという話だったのに、結婚とはどういうことですか!」
天下の美少女に睨まれるのは悪くないが、断崖絶壁と言いたくなる小ぶりな胸の持ち主にはときめかない。十六才になったばかりなんて子供だからなおさら。
「レティア、そんな話が出たことは一度も無い」
「だってフィラントが貴族になるという噂を耳にしました。それなら私のために決まっています。下々の不細工な女性が狙っていますが、みんな、鏡を見るべきです」
ウェイルズの英雄の一人、成金騎士は使える。下位貴族はさっそく、末娘との縁談を目論んでいる。その噂は社交界の女性のほぼ頂点、レティアの耳まで届いたようだ。
「君のためではなく報奨だ。それで貴族になるのではなく、男爵令嬢との縁談許可なだけ。君はフィラントとろくに話したこともないのに、なんでいきなり」
「殿方は顔よ! そして強くないと。花の無い社交場はつまらない。最低。終戦したのに、お兄様がフィラントを連れて歩かないから!」
フィラントが社交場にいたことはほぼない。これまで、レティアがこのようにフィラントの名前を出したこともない。
レティアは成人したことで始まった縁談話を拒否するために、どういうわけかフィラントを使うようだ。他に思惑があるのか、誰かの入れ知恵なのか調べなくては。
「君がフィラントだなんて、そんな話を聞いたことがないから当たり前だ」
「そりゃあそうですわ。みんなが欲しがっているから欲しくなったのですもの」
ユースはわずかに思案して、机の上に置いてあるピアリを手にした。フィラントが、高く売れないかという打診と共に手紙に同封していたもの。
「レティア、これは欲しいか?」
「うわぁ。綺麗。こちらは薄いエメラルドですの? でも、虹色がかっています」
国王は娘を溺愛しているが、煌国の機嫌を取るために買った品は、一つとして娘に贈らず、次々と他国へ売った。
この国は戦後で、金はあればあるほど良い。やはり、レティアはピアリを見たことがなかった。
「耳飾りにすると良いと思う」
「私にくださいますの? そりゃあ私は可愛い妹ですものね。ビルマお兄様に自慢しないと!」
「ぜひ、そうしてくれ。ビルマ兄上も喜ぶ」
「リチャードお兄様にも見せて差し上げよう。私が天日干ししないとキノコが生えて、カビてしまうわ」
レティアは鼻歌混じりで退室した。彼女はいつも、嵐のようだ。疲れるし少しばかり苛つくが、政治に関与する気配はないし、精神が幼くて兄たちを慕うところには癒されもする。
だが、信用することはない。頼ることもない。なにせビルマと同じ血が流れている。そうでなくても、自分が信頼する者はこの世にただ二人だけ。ユースはゆっくりと腕を伸ばしてから着席した。
★ ☆
フィラントは脳内で復唱した。社交場におけるダンスとは、一般的に女性の手を取り、腰に手を回し、音楽に合わせて揺れることである。
つまり、エトワールとダンスレッスンとなると、彼女の手に触れ、あの細い腰に手を添えることになる。それは即ち——
「フォン様。遺書を書く時間を下さい」
フォンはジャケットを手にしながら、呆れ顔を浮かべた。なぜだろう。
「お嬢様に触れても死なない。人は緊張では亡くならない。サー・フィラント。私に敬語を使うなと何度言わせるつもりですか?」
「フォンさん。何度も頼んでいますが、屋敷内では……いやせめてこういう閉ざされた場では以前の扱いをして下さい。疲れてなりません」
「フォン様」と『様』を付けそうになるが、付けてはいけない。フィラントは丸くなりそうな背中を、懸命に伸ばした。
「しかしですなあ。まあ、いいか。慣れない仕事ばかりで精神的に堪えてそうだからな。フィラント、そのような姿だと疾風の黒隼騎士の名が廃るぞ」
「疾風の黒隼騎士? 俺の異名は血塗れ騎士や死神騎士です」
「『です』はやめろ。事件があると疾風の如く、颯爽と現れる。華麗な馬術に巧みな剣捌き。特に隼のような素早い突き。新聞にそう書かれていた」
フォンに新聞を差し出されたので目を通す。確かに、そのような記事がある。それも、目立つところに。
「レグルス様でしょう。治安維持の要として招聘したと触れ込むと言っていたから、血塗れ騎士、死神騎士では困らせてしまいます」
「もう少し砕けた口調になれ。もうそれなりの地位で、まもなく貴族になるんだから」
「俺の人生は奇妙過ぎる。ユース王子はなんで俺を子爵になんて。俺はもう少し低い立場で身の丈に合った生活をしたい……」
昔から知っているフォンを前にすると、本音ばかり口から出てくる。
それにしても、改めて考えるとユース王子の元教育係の一人が自分の教育係だなんてとんでもない話だ。
「おい、フィラント。勇猛果敢な騎士姿はどこへ消えた。わざわざフェンリスに頼んでお膳立てしてもらったのに、毎日毎日、挨拶くらいしかできずに情けない」
背中を叩かれそうになったので、返り討ちにしないように腕に力を入れて停止し、拳を握った。平穏な生活というものに、まだまだ慣れない。
「日々、エトワール様のお目を汚さないように最新の注意を払っています。なので、ダンスレッスンの中止を要求します」
「だから『です』はやめろ。仕事でもあるんだから、エトワール様を口説け」
「エトワール様を口説くなんて、可哀想なことはしません」
「死神騎士に近寄られたくないだろう、ねぇ。他の人間関係もだが、君はその歪んでいる考えや視界を変えるべきだ」
フォンはフィラントの胸元に指を突きつけた。
「歪んでいる? どういうことですか?」
「だから口調。フィラント、君は好意をそのまま受け取れなくなっている。何度も指摘されているはずだ。スヴェトでの凍傷や頭の怪我が悔やまれる」
「好意をそのまま……」
髪に埋もれている古傷を指でなぞる。確かに、この怪我の後から記憶障害が出るようになった。大切な過去はこぼれ落ちているから辛い。
「今の話の流れだと、エトワール様は俺に好意的、友好的ってことなんですけど、まさか」
そんな奇跡はあり得ない。フィラントは次々と失敗している。
「そのまさかだ。君は彼女に何をした」
「たびたび怖がらせ、目の前で殺戮未遂をしました」
「いや、盗賊団からしかと守った。エトワール様はその日、感心顔をしていたぞ。新聞も熱心に読んでいた」
「……感心。恐怖と嫌悪ではなく?」
「エトワール様はそんな話はしていない。本人に聞いてみろ。聞いたら、人の話を素直に受け入れろ。裏を読むな」
人の言動、特に言葉は疑うもの。でないと主を守れず己も死ぬ可能性がある。
血塗れ姿を見せて嫌われたと認識したけど、それは認知の歪みでそうでもない。本当なら、と唇の端が震えて緩んだ。
まだ『好意的な知人』の立場から転落していないなら、挨拶以外の雑談も許される。
可能な限りエトワールを怖がらせない。それは難しいが、仕事に励むという行為が防波堤になってくれたようだ。
「女性を待たせるものではない。これを着なさい」
フォンが着させてくれようとしたジャケットは、ユース王子のものだった。
「これ、フェンリスの服ですよね?」
「フェンリスからの伝言だ。財政難で君の衣服を用意する余裕はないから、これで我慢しろ」
「自分のものは自分で買うのに、フェンリスは相変わらず部下に甘いです」
「そうだな。それが彼の剣で盾だ。メテオーラ様もきっと喜ばれている」
「ええ、きっと。この命尽きるまで、フェンリスにお仕えします」
着替えていたら、不意に軽い眩暈がした。
『早くしろ』
これはいつの記憶だ? 早く着替えろ、だっただろうか。
『生き方、他者への対応は何もかも必ず自分に返ってくるそうだ』
暗闇で声がした。不意に明るくなる。窓辺に佇んで微笑むユース王子の姿が見えたので手を伸ばす。
フォンに名前を呼ばれて、幻は消え去った。幻聴ももうしない。
「ぼんやりしてどうした?」
「……古傷が痛んで。すみません」
「はぁ……。その謝罪癖も直せ。社交場でペコペコされては困る」
それは確かに。
衣服を整えて玄関ホールのベンチで待機となった。
フォンに声をかけられて顔を上げると、階段上に着飾ったエトワールがいた。
プラチナブロンドの巻き髪は、晩餐会に参加するご令嬢たちのように整えられ、ドレスも宝飾も彼女の美しさを際立たせている。
エトワールはこの姿だとさらに輝いていて、触れてはいけない天使中の天使……は大天使と呼ぶのか?
神々しいという感覚は、亡きメテオーラ妃以来、初めて感じた。けれども、この感覚はそれとは何かが異なる。
階段から降りてくるエトワールだけが時が止まったくらい、ゆっくり見える。歩くたびに、流れ星が降ってくるように光が飛び散る。彼女が歩いたところが、光の道に……
「ふぎゃ!」
エトワールは最後の数段というところで奇声を上げてつんのめって揺れた。神や大天使ではなく、人間だと我に返る。
エトワールが階段から転げ落ちると危惧して、体を動かした。
駆けつけて、ぐらりと揺れて倒れそうなエトワールを抱き止める。あまりにも細くて軽い。しっかりした布越しなのに、体温が伝わってきて手のひらが熱い。熱くてならない。
早く体を離さないといけないのに、このままがいいと主張するように腕が動かない。この甘い香りは何の花だっただろうか。鼻先にまとわりついていた血の臭いが消えている。
エトワールの手で体を押されたので、慌てて手を離した。
「フィラントさん、ありがとうございます」
あっ。笑いかけてくれた。
エトワールの笑顔の輝きに目の前がチカチカして、体の力が抜けて尻餅をついてしまった。
さららとプラチナブロンドが揺れた。まるで流星のように。あまりの緊張で、意識が飛びそうだ。目を閉じて、耳鳴りをやり過ごす。
『左手の薬指は一番心臓に近いという。お互いの薬指を絡ませたら、心臓に誓うという事だ』
これは、いつ。幼い頃のユース王子の声だけど、こんな台詞に覚えはない。小指……とフィラントはゆっくりと目を開いた。
まだ笑ってくれている。そんなに怖がられていないようだ。
初夏の青空と瑞々しい新緑の混じった宝石のような瞳。目を逸らしたら真珠のような色の肌が気になり、触れたら吸いつきそうで思わず喉が鳴る。
慌てたら瞬きの音がした。睫毛は長くて、ふんわりと持ち上がっている。見るなと自分に言い聞かせて視線を落とすと、少し厚めの、血色の良い唇に目が釘付けになった。どう見ても柔らかそう。
(ち、近っ……。近い、見たい、近い!)
心臓が爆発しそう。死ぬ。このままだと死んでしまう。遺書を書きそびれたからまだ死ねない。ユース王子を残して死ぬわけにはいかない。
まだ見たいと本能が叫んでいるのか動けない。それを無理矢理、引き剥がすようにして顔を背けた。
視線の先に、エトワールの綿のように白くて細い指があった。なぜか、フィラントはエトワールと手を握っていた。
手袋の向こうにある華奢な手は、ほんの少しでも力を入れたら折れてしまう。そうなる前に離さないと。けれども、顔を背けるよりも難しい。
あと一秒だけ。階段から転落するところを助けたのだから、これはその褒美だと、フィラントは手を離す努力をわずかな時間だけ放棄した。




