17話「令嬢の奮闘」
ヴィクトリア・バロンは、深いため息を吐きそうになったが耐えて、より背筋を伸ばす。
古語の音読レッスン中だったのに、エトワールはぽやんとした微笑みで、右手を宙に差し出して、固まっている。
「お嬢様。今はレッスン中ですので集中して下さい。朗読が途切れています」
エトワール・シュテルン男爵令嬢には貴族令嬢としての土台がきちんとあり、地頭は悪くなく、教えれば教えるほど吸収してくれる。
しかし、どうにも集中力が足りないようで、時折、今のように意識がどこかに飛ぶ。赤面症気味で感情が顔に出やすいから、何を考えてどうして集中できなくなったかは予想しやすい。
「……へっ? ああ、すみません」
エトワールは右手を本の端へ戻した。男女が散歩へ行くシーンを朗読して、照れながらぽやんとする。それは、そういうことである。
「昨日の市場散策は楽しかったようですね」
ヴィクトリアの問いかけに、エトワールはパッと花が咲いたように笑った。さらには両手で自らの頬を包んだ。
「楽しかったと言いますか……。私は嫌われていませんでした。勇気を出して聞いて良かったです」
「それはようございました」
ヴィクトリアは、レッスンに戻るように指示しながらため息を堪えた。
(サー・フィラントは『エトワール様の前でつい、殺戮未遂をした。終わりだ』と嘆いていたけど、どうなっているんだか)
親友の忘れ形見であるユース王子にあまりにも頭を下げられたので、こうしてここで働いている。
ユース王子は「部下の初恋成就のため」と言っていたのに、蓋を開けたら政治も絡んでいて、夫婦で調査した限りだけでもきな臭い。
愛嬌が取り柄で無能めな第三王子が牙を隠していただけだったのは、カンタベリ派の自分たちには朗報だ。今はまだ、あらゆる情報を集めなければ。
☆ ★
数日後。エトワールは司教が気にかけている、雰囲気の悪い孤児院に潜入して問題点を洗い出し、自分なりの解決策を記載した書類を領主に提示した。すると、鼻で笑われた。
だからなんだ——と。
若き韋駄天領主なんて呼ばれ始めているレグルス・カンタベリ伯爵は、執務机に頬杖をついて生あくびをした。
座っているレグルスに、ねめつけるような目で射抜かれる。
「こんなことは現場視察しなくても予想可能なことだ。そして、たった一つの院についてでしかない」
レグルスはトントンと机を叩いた。強めの固い音が響き、エトワールの体は少し強張った。
「こんな報告書で、この街全体の福祉をどう改革しろと言うんだ」
かつて自分をこき使った叔父や叔母のことが思い出されて、ドレスの裾を握りしめてしまった。
レグルスはそれを見逃さず、エトワールの手に着目して、嘲り笑いを色濃くした。
慌ててドレスから手を離して、自分の手を合わせて軽く握りしめる。力を入れないように言い聞かせたが、上手くいかない。
「何か言いなさい天使様。何も言えないなら、美しい顔でメソメソ泣いたら周りがお膳立てしてくれる温室へ帰りなさい」
「……私は頭の回転が遅く経験も乏しいのです。ですからどうかお導き下さい」
この街に来る前に教わった両親からの教えの一つ。素直に助けを求める作戦を使ってみよう。この方法で、司教の印象は良かった。
「今は小石ほどの役立ち度合いでも、いつか母のようになり、この街を良くする柱の一つになります」
「新米領主として日々神経をすり減らしている私に仕事を増やせと?」
侮蔑の目に胸が痛む。作戦は失敗のようだ。
「そうならないように励みます。まずは小さな事からコツコツと。まずこの施設を良くできなければ、街全体の福祉改革なんてできません」
「全体像の把握も無しに大きな改革なんてできるものか。この施設をどうにかしたいなら、貴族の社会奉仕義務の一環として、勝手にしてくれ」
怒鳴られてはいないが、低くて唸るような声にますます緊張してしまう。
「わ、私は予算や人材を下さいとは申していません」
声が震えてしまった。
「この施設に関与する、お墨付きをいただきたいのです」
「ほう。お墨付きとは?」
「ここは公的施設です。土足で上がり込んで勝手に改革するなど、許されるはずがありません」
母に手紙で相談したし、母の過去の経験からも学んでいる。その結果がこの発言だけど、吉と出るか凶と出るか。
「それで?」
探るような目に心臓の音が強くなる。
「細かいところに手が回らないから、あのマダム・フィオールの娘に頼んだ。成功すれば領主様の手柄に、失敗なら領主様として非難して下さいませ」
「へえ。そういう駆け引きが出来るなら、提案通り『任せた』ことにしよう。私に損はなさそうだ」
「一つの施設が終わったら次、数件繰り返せば全体に繋がる統計を取れると考えています」
「人材も予算も出さなくていいのか。そうか。それならよろしく頼むよ」
快く思ってなさそうな目をしていたレグルスは、穏やかな眼差しになって微笑んだ。エトワールは胸の前で握りしめていた手を下ろした。
「私は新たにこの街の住人になった貴族の責務として、領主様の心労が重ならないように、微力ながら助力致します」
「それはどうもありがとう。また何かあれば相談に来てくれ」
敵意は減った気がするけど、「さっさと帰れ」とは信用がない。信用や信頼は積み重ねだから当然だ。
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。そうそう、妻が新しい仲間に興味津々でね。今度、歓迎会を行うから都合のつく時間を教えてくれ。家に遣いを送る」
「歓迎会ですか。ありがとうございます」
会釈をして退室。領主の付き人が扉を閉めると、ごく自然に大きな息が漏れてしまった。手汗が凄いし、どんどん震えていく。
母は『看護士として生きる』と決意して、家族に縁切り宣言をされた。母の第一歩は、今のエトワールの何倍も険しいものだっただろう。
頬に両手を当てて「よし」と言いながら、心の中で自分に頑張れと喝を入れる。
隣で、今日の護衛の一人、マルクが低い声を出した。
「なんすかあれ。新領主様は話の分かる懐の深い奴だって聞いたのに、俺たちのエトワール様にあんな態度をとって。俺、あいつは嫌いっす」
味方してもらえるのは嬉しいけど、自分の護衛がこの街一番の権力者を、彼のテリトリー内で堂々と批判するのは困る。
「マルクさん。お気遣いは嬉しいですけれど、その、ここは領事館ですので」
「そうだよマルク。エトワール様を困らせないで」
サシャが、マルクを膝で小突いた。
「あっ、すみません。つい」
三人で領事館を出る。もう一人の護衛、ビアーと合流して、領事館で私用のあるヴィクトリアをホールで待つ。
行き交う役人たちの視線は冷たく、歓迎されていないと感じるから背中が丸くなりそう。
エトワールは『戦場の天使の娘』だ。領事館のホールで小さくなってうつむく、情けないお嬢様になるわけにはいかない。だから、前を向いて背筋を伸ばした。
フィラントが前を横切った。制服姿で凛々と歩いていく。エトワールたちには気づかなかったようだ。
「あっ、班長。ビアー先輩、班長は領事館に何の用ですか?」
「さぁ。班長はなんか出世予定らしいから、それ関係かな。っていうかマルク、お前はまーた俺にタメ口をきいて」
エトワールは、フィラントが自分と結婚して伯爵になり、騎士団で要職につくと知っている。伯爵になることは秘密だが、出世のことさえ部下たちに教えていないようだ。
「同僚で役職無しなのも同じなんだから、タメ口で当たり前って前にも言ったじゃないすか。出世予定って何になるんだ? 俺、ずっと班長の部下がいい」
「班長って、署長たちが丁重に扱っているし、総隊長とかとも話しているから師団長になるんじゃないか? もう三ヶ月も、第二師団長が空白だ」
「それなら俺、第二師団兵になりたい。俺はずっと班長の部下って頼もう」
エトワールの護衛は日替わり。彼らは良く上司のフィラントの話をするし、慕ってそうな発言もある。特に最年少のマルクは、今のように思慕が強いように見える。
「マルクって、本当、フィラント様贔屓だよね」
サシャが笑いかけると、マルクは大きく頷いた。
「そりゃあ、俺はあんな風になりたいから」
「どんな風に? マルクから見た理想の上司なんでしょう? どんな感じ?」
サシャに「お見合い相手の事を知るチャンスですね」と耳打ちされた。
お見合いは嘘で、婚約は既定路線。その婚約も嘘だと分かっているのに恥ずかしい。
マルクは「どんな」と呟いてから、嬉しそうに笑った。
「ウェイルズで最後の上官だったんだ。俺らってさ、ずっとドブネズミ扱いで死ね死ねクソガキって言われてただろう?」
マルクはにこやかに笑っているけれど、とても悲しい過去だ。
「まあね」
何食わぬ顔で相槌を打ったサシャを、ビアーが、驚いたように見つめる。サシャもマルクもまだ若いのに、苦労の多い人生だったようだと、エトワールの胸は締め付けられた。
「班長は俺らに『生き延びろ』って言ってくれた。俺たち若者は未来を作る宝だからって」
マルクの言葉に胸が痛んだ。生き延びろということは、死ぬような場所にいたということ。
ウェイルズ平野では数多の兵士が亡くなった。エトワールも、その中の百人以上を看取った。
「俺もウェイルズに行ったし、一回、班長と同じ部隊にいたけど、マルクとは会ってない。班長とはどこの部隊で一緒だったんだ?」
「俺は班長が隊長の部隊にいた。部隊名とかは知らない」
「……お前、それってかなりヤバい部隊じゃないか? 班長が隊長職を得たのって、停戦間際の激闘の頃だろう?」
ビアーの発言にサシャが顔色を悪くして、それを見たマルクは慌てたように首を横に振った。
「サシャ、そんなに酷くなかったぜ。なにせ班長が凄く強くて頼もしかったから! 俺らは鬼強隊長について行っただけ」
先週、エトワールが見たフィラントの戦いぶりは勇ましかった。
慈悲深いのか強者の余裕なのか、はたまた治安維持が仕事だからか、誰の急所も狙わず、命を奪わず、犯罪者を次々と倒した。
男性は苦手だし、荒くれ者はなおのこと。けれどもあのフィラントは全く怖くなかった。いつか怪我をしてしまう、それが致命傷だったらどうしようという恐怖は抱いたけれど。
「フィラント様ってかなり強いらしいよね。見た目は華奢めなのに力持ちだし」
「指立て伏せとか、凄いんだぜ。俺もわりと鍛えられてきた気がするけど、班長はムッキムキ」
ムキムキ。筋肉がついていて逞しいこと。フィラントは筋肉隆々……変な想像をしてはいけないと首を横に振る。他人の裸を想像するなんて良くない。
ヴィクトリアの姿が見えたと思ったら、彼女は駆け寄ってきた。
「エトワールお嬢様、お加減が悪いですか? 顔が赤いです」
熱でしょうかと額に手を添えられた。
「いえ。風邪はひいていません」
「あっ、エトワール様! サー・フィラントはムキムキって想像して恥ずかしくなりました? 初心ですね」
サシャが揶揄うように笑う。
「ち、違っ! 違います!」
「あなたはもう、サシャ。エトワール様がお許しになっている屋敷内はともかく、外では緊急時以外は淑やかな侍女でいるように命じましたよね?」
「あっ、はい。合点承知です!」
力こぶを作るように両腕を動かしたサシャに向かって、ヴィクトリアは呆れ顔を浮かべた。
☆ ★
領事館を出て帰宅。歩き方と所作のレッスンを受けていたら、サシャが来て、フィラントの来訪を告げた。
「エトワール様、今日は可愛い紅茶缶とマドレーヌをいただきました!」
今日こそお礼を言おうとレッスンを中断。ヴィクトリアも「どうぞ」と後押ししてくれた。
後ろをのんびりついてくるサシャがころころと笑った。
「サー・フィラントは相変わらず照れ屋ですね〜。成り上がり者とお嬢様ではきっと話が合わない、まずは挨拶練習って、あんなに強いのに弱々」
「その挨拶の練習もほぼないです。フィラントさんに、何か聞いていますか?」
「フォン様に、目が焼かれるって言っているのを見かけました。エトワール様は綺麗ですからね」
フィラントは本当に嘘が上手い。サシャのように、もうみんな、見合い話は事実だと認識している。フィラントがいる部屋の前で深呼吸を繰り返し、緊張しながらノックをして声を出した。
「フィラントさん、こんにちは」
「エトワール様、そんな蚊の鳴くような声では聞こえませんよ。サー・フィラント〜、今日もおやつをありがとうございます」
少しして、扉が開いた。フィラントと目が合う。彼はエトワールを見るなり眉間に深いしわを刻んだ。
「エトワール様、どうされました?」
「あの……。お茶でもいかがでしょうか?」
「気遣いは無用です。私に構う必要はありません」
この屋敷で『契約』について知っているのはヴィクトリアとフォンだけ。
フィラントは国に頼まれて、シュテルン一家の護衛を担当していることになっている。
サシャがいる前で、お見合い相手の自分に「話しません」とは、何を考えているのだろうか。
重たくなった空気を、サシャの明るい声が切り裂く。
「またまた〜。照れるのは仕方がないけど、嬉しいならお喋りしないと。サー・フィラント、挨拶はお見合いには入りませんよ」
サシャの明るさに、勇気が湧いてきた。
「そ、そうです。母がぜひにと申していますので、もっとお話ししたいです」
ここでふと、エトワールは気づいた。やたらドキドキしたり、親しくなりたいと考える理由について。
自分とフィラントは『契約相手』で、表向き親しくすればいいだけ。その表向きとは、フィラントの社交に付き合う時。
(前に『好きな人』と思ったこともあったような……)
好きな人。好き。エトワールの体温は一気に上がった。
「エトワール様。苦手な相手を克服しようとは良い心がけですが、無理はいけません。必要ないことはしなくて構いません」
ピシャリと扉が閉じられて愕然とする。つい見惚れてしまう煌めく瞳に滲んでいたのは不快感だった。
「エトワール様は、サー・フィラントに何か言ったんですか?」
猫のような目に覗き込まれる。サシャの瞳には、物悲しい女性が写っていた。
「いえ……。特に何も」
このままでは泣くと、エトワールは走り出した。外の空気を吸いたいと階段を駆け降りる。
(少しは仲良くなれたから、たまにの挨拶だけなのは本当の照れだと思っていたのに違った……。あんな風に拒否しなくても……)
嫌わられていなかったし、市場で親しくなれた気がしていたのにあの拒絶ぶり。あれから会話らしい会話はなかったので、フィラントの態度の理由は、皆目、見当がつかない。
なんとなく向かった玄関ホールに着くと、呼び鈴の音が鳴り響いた。料理人と使用人を兼任するドナが現れて、来客対応をした。
ドナは、エトワールにこのようなことを告げた。
週末、領主邸でエトワール・シュテルンの歓迎会が行われる。領主の従者はその招待状を届けにきたと。
都合の良い日を聞くと言っていたのに。エトワールは招待状をそっと開いた。招待状には『噂のお見合い相手、サー・フィラントとぜひ』と記されている。
誘ってもいいものだろうか。そう悩んでいたら、ヴィクトリアに「お茶の用意ができました」と話しかけられた。
「あら、そちらは」
「……品評会をされるようです」
「フェンリスから、こういうことがあるだろう、フィラントを護衛に付けるようにと仰せつかっています」
嬉しさと同時に、怖さに襲われた。フィラントにまた拒絶されると。
ヴィクトリアと共にフィラントたちのいる部屋へ行き、四人だけになると、予想は外れた。
フィラントは穏やかな様子で「参加者の観察はお任せ下さい」と微笑んでくれた。
(笑ってくれた……)
トトッと胸が弾んで、ぼんやりしてしまった。ヴィクトリアに名前を呼ばれて我にかえる。
「予定より早いので、早急にダンスレッスンをしましょう。二人が揃っていてちょうどいいです」
二人でダンスレッスンだなんて、とんでもない展開になってしまった。




