15話「フィラントとユース、決意する」
★★
アルタイル城王都、リチャード王子の私室。
ユースは悩みに悩んでチェスの駒を進めた。また負けると諦めながら、ティーカップに手を伸ばす。
対戦相手のリチャード王子が、手を読んでいたというようにすぐに駒に手を伸ばす。
「なあ、ユース」
リチャード王子に、ぽそりと名を呼ばれる。ユースは彼を見つめて、言葉の続きを待った。
「父上に、フィラントが結婚すると聞いたんだ。男爵令嬢と。君に熱心に頼まれたって」
「父上が兄上に話したのは、マダム・フィオールが私の陣営につくと教えるためですかね。何か言われましたか?」
国王陛下はわりと寡黙。人当たりは良いけれど、目はいつも偽りで満ちている。三人の息子とその後ろにいる派閥の勢力争いも、実際のところどう考えているのか読めない。
「知っての通り、父上は会うたびに同じことを言う。次の王は私だと。それで、今回のことを新しい勢力図だ、軍部を切り崩せと言われた」
「そう言うなら、父上がビルマ兄上の増長を止めてくだされば良いのに」
「右大臣たちが後ろにいるから、強気に出られるわけがない。それに、ビルマは私よりも良い息子だから」
そんなことはないと否定しようとしてやめた。リチャード王子は、ビルマの性格の悪さを嫌というほど知っているが、それでも悪口を口にしない性格だ。
「いい加減、息子の裏の顔くらい見抜いて欲しいです」
「無理もない。父上は多忙だ」
「父上に、試しに軍部の勢力を変えられる一手だから動かしてみろと言われました。部下の初恋のためだなんて、浅はかな考えはやめろと怒られました」
「忙しいから、私たち息子に手助けして欲しいということだろう」
ユースはこれも否定しようとしてやめた。違うかもしれないが、そうかもしれない。
国王陛下は、たまに兄弟の争いを煽るような素振りを見せる。その目的は不明。
リチャードは丸めている背中を伸ばして、戸惑いで揺れていた目を真摯なものに変化させた。
「あのさ。祝いたいから、フィラントを呼んでくれないか?」
「私の忠臣の一人のために、そのようにありがとうございます。すぐに連絡をします」
フィラントとほぼ接点の無いリチャード王子が「祝いたい」とは、アストライアの様子に興味を持ってくれたということだろうか。引きこもりを少しは直すという意思表示かもしれない。
「……いや」
凛としたのも束の間、リチャード王子はしゅるしゅると縮むように猫背になった。
「やはりやめる。アストライアを視察したい。付き合って欲しい」
「もちろんです兄上。仰せのままに、我が君」
引きこもり気味のリチャード王子が、こうしてどうにか理由をつけて勇気を出して動くたびに、グランフトン陣営が腐しにくる。
ユースはナイトの駒を手にして、黒いキングの駒を軽く殴りつけた。
兄を敬わないビルマ王子と、長子が家督を継ぐという伝統を私欲で無視してこの国を食おうとする右大臣グランフトン陣営を駆除しなければ。
「兄上。かなり先で手詰まりなので、私の負けです」
「あーあ、ユース。その放り投げ癖を改めろ。こうして、こうして……」
駒を幾度となく動かすと、「ほら、君の手はあった」とリチャード王子が柔らかく笑った。
「でも、兄上ならここでこうくる。どうですか?」
「えっ? この手だと私の勝ちだが……これは読んでなかった。やはり君の勝ちだった」
「兄上のチェスの腕を過信しました。実際の争いでは、最後まで足掻きます。これはあくまでゲームなので」
ユースは白いキングの駒を手にして目を細めた。リチャード王子は必ずこれにする。その時、ユースとフィラントはその左右に並ぶ。必ず守らねば。
☆ ★
その頃、アストライアの街中。
つい体が動いてしまうが、手柄などというものは、あげるべきではない。
片足を失って二度と戦地に立てないほうが、よほど幸運だ。なにせ、死ななくて済む。
それなのに、フィラントの体は敵をつい薙ぎ払い、傲慢な上司に食ってかかり、無能な指揮官を無視して前線へ躍り出てしまう。前線なので、現場で指揮官を失った右往左往する兵たちをどうにかするしかなくなる。実に最低で損な性格である。
褒美の金を渡されても使い道がない。物欲も食欲も、すっかり失った。友情を感じた同僚は、フィラントの眼前で散っていった。何年も前から味覚は消え、血の匂いだけが、常に鼻先にまとわりついている。
眠れば、味方の死体や血の夢が追いかけてくる。
それでも——それらの苦労のすべてが、今この幸福の前提だったと思えば悪くない。「生きろ」と盾になってくれた者たちも、あの世で美味い酒を飲んでくれるかもしれない。
エトワールと二人で街を歩く。フィラントにとっては、これが人生初めての「デート」だ。心臓の鼓動がやたらとうるさく感じる。
「どこへ……。市場。この街の名物、市場へ行ってみたいです」
エトワールはしばらく考え込んでから、そう告げた。
困ったような笑顔を見て、フィラントは自分が提案すれば良かったと後悔した。しかし、自分を恐れている相手をあちこち連れ回す勇気はない。
「かしこまりました。ですが、護衛の人数が足りません。増員しましょう」
二人きりではなくなる。自分としては寂しいが、エトワールは救われる。けれども、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「私は調査員ですから」
ゆっくりと、言葉を選ぶような話し方だ。
「改革案を領主様にお伝えするためには、現実を学ばないといけません」
それは殊勝な心掛け。アストライアの新領主——レグルス・カンタベリは表向き、ユース王子と敵対しているが、実際には協力関係にある。
無理難題は、後にエトワールの名声へと変わる予定。しかし、それを教えてしまうのは越権だ。
「この街の皆さんや、観光客と同じことをしてみないと、現実は分かりません」
エトワールの瞳に宿る決意に、心の中で「助けたい」と呟いた。声に出さない。嫌いな相手に言われても嬉しくないだろう。
「では、私一人でしかとお守りします」
「……。よろしくお願いします。参りましょう。お付き合いくださいませ」
少し間があった。本当は、誰かを呼んで欲しかったのかもしれない。エトワールの迷いをフィラントはあえて無視して、彼女の言葉だけを信じた。
エトワールと二人で街を散策すること——自身の願望を叶えたくて。
「調査をなさるなら、あちこち回れた方が良いですよね。馬にしますか? 二人乗りになりますが」
「ありがとうございます。お願いしたいです」
高い馬の上、二人きりになれば、「無理をしなくていい」と伝えられる。
こうして、フィラントはエトワールを連れて騎士本部署へ向かった。
☆ ★
騎士本部署で馬を借り、エトワールと二人で乗り、出発した。
距離をあけて触れないよう気をつけているが、眼前にいるエトワールの体温と気配が伝わってくる。
プラチナブロンドがさらさらと風になびく。
その輝きに「ああ、この人はやはりあの白天使だ」と、感慨深くなった。
世間話から入るか、率直に聞くか迷い、前者を選ぶことにした。
「孤児院では苦労しているそうですね。まさか、素性を隠して潜入捜査するとは。熱心で感心しますが……心配です」
突然、エトワールが振り返ったので、驚いて軽く仰け反る。彼女は悲痛な表情を浮かべていた。
とても苦労している。そのような報告は受けておらず、自分で確認していなかったことを反省した。
「母がしたことを思い出して、真似をしました」
フォンから『やりがいがあると張り切っている』という報告を受けていたが、それはエトワールの虚勢だったようだ。
「おかげで子供たちや職員の本音を知ることができました。悪いところを探さないと、改善はできません」
反省したのも束の間、エトワールは表情をガラリと変え、笑顔になって前を向いた。
庶民をよく知るサシャに協力を頼むよう、ヴィクトリアに勧められたこと。その条件として新しい契約を申し出たが、サシャは笑って「そんなもの要らない」と言ってくれた——そんな経緯を語っていく。
「ええ、フォンから報告を受けています」
「私から聞くのはお嫌ですか? 私たちは表向き、お見合い相手です」
それはすなわち、直接聞いてほしいという意味だ。フィラントは首を捻り、これも媚び売りだと気づいた。
こちらを向いたエトワールは、とても悲しげな顔でフィラントを見つめた。
「それに、共通の敵がいるから、裏でも交流しましょうという……仲間です」
誤解の原因は、エトワールの両親が王都——ユース王子の手の中にいること。
だからエトワールは自分に無理に媚びを売ろうとしていると思っていた。「裏でも交流」という台詞で、やはりそうだと感じた。
「裏でも交流だなんて、そのような契約はしていません」
「……」
エトワールは何か言いたげに、形の良い唇を震わせたが、声には出さなかった。
「無理をする必要はありません」
「……。そう……」
フィラントの知らないところで、エトワールの両親は王都に留められたが、それは人質にしたいからではない——そう言おうとした矢先、予想外の台詞が耳に飛び込んできた。
「偽装とはいえ、籍は本当に入れるのです。嫌いな人間と一つ屋根の下だなんて、苦痛でしょう?」
目を潤ませ始めたエトワールに、罪悪感が込み上げてくる。そして、同じくらい傷ついた。
無理をする必要がないと伝わり、本音を教えてくれたことは嬉しいが、その本音はフィラントにとっては悲しいものだった。
「私のどこが苦手ですか? 指摘していただければ直す努力をします。生理的嫌悪だと……困ってしまいますけれど……」
エトワールが大きな瞳に、目いっぱい涙を溜めていく。
これではまるで、自分がエトワールを嫌っているという指摘だ。エトワールは眉尻を下げ、目を見開き、唇を小さく震わせた。
「……エトワール様のどこが? なんの話ですか?」
「そそっかしくて、淑女からほど遠いからですか?」
エトワールの眉間に深いシワができる。
「まだほとんど話していないのに、そんなに嫌わなくても」
これでますます、エトワールは『フィラントに嫌われている』と考えていることが判明した。
フィラントは茫然として、「なぜ?」と記憶を辿ってみたが、心当たりはない。
嫌いになった人間に嫌われても、悲しくないので泣いたりはしない。エトワールはまだ涙をこぼしてはいないのでまだ泣いていないが、涙目は泣き顔と同じだ。
今の会話だと、エトワールは自分に悪い感情を持っていないということになる。
「いや、あの……えっ? なんで? 俺がエトワール様を嫌うなんて、あり得ないのに、どうして……!」
驚きのあまり、大きな声が出てしまった。ビクリと体を震わせたエトワールに対して、すぐに謝った。
もう怖がらせないと自分に誓っていたのに、なんでまたこうなる。フィラントはもう一度謝り、頭を下げ、片手で目を覆ってうつむいた。
「なぜ謝るのですか?」
「なぜって、突然怒鳴って怯えさせて。本当にすみません」
「怒鳴られていません」
衝撃的なことに、何かが腕に触れそうな気配がして、つい癖で払いそうになる。今ここにいるのはエトワールだけだから止まれた。彼女が自分の腕に触れたことに驚き、固まる。
「怯えていません。驚いただけです。だから、お顔を上げてくださいませ」
「……あの」
頼まれれば顔くらい上げる。すると、エトワールと目が合った。色鮮やかな瞳が、戸惑いでゆらゆらと揺れている。
「お気遣いありがとうございます。優しいのですね」
その言葉にも、微笑みかけられたことにも絶句していたら、エトワールは前を向いた。
目の前を、さららとプラチナブロンドがたなびく。心地良い風が吹き抜けて、甘い香りが鼻先をくすぐった。
「嫌われてないなら良かったです」
エトワールは暑いというように、片手で顔を仰ぎ始めた。どちらかというと秋風で肌寒いが、彼女は体温が高いようだ。
「あの、なんで嫌われたと思ったんですか?」
「先ほども、私と親しくなる必要はないとおっしゃいましたし……」
「ええ。親しくなる必要なんてありません。無理をせず、好きに暮らしてくれればいいです」
この世で一番好きな、昔ユース王子と見たあの星の輝き……白金……
風に戯れる美しい巻き髪から視線が離せない。
「ご両親のこともご安心ください。味方したいのですから、悪いようにはしません」
すると、エトワールの肩がわなわなと震えた。
「下心があって看護したのではなく仕事でしたけれど、皆さん、私にお世話になったという皆さんは好意的なのに、なぜですか?」
エトワールが振り返った瞬間、彼女の涙が目の前で散った。
「親しくなりたくないなんて、それは嫌っていることと同じです。なんで……どうして……」
「親しくなりたくないなんて、なんでですか⁈」
あまりにも想像外の台詞のせいで、また怒鳴ってしまった。申し訳ないと、フィラントは自分の口を手で覆った。
「それなら、私と親しくなりたいですか?」
エトワールは唇を震わせ、じっとフィラントを見つめる。
「だから、そんな必要はないと。誰かに何か言われました? ユ……フェンリスですか? 俺に媚びを売らなくても……」
この状況は、それしか考えられない。ユース王子は身内に甘く、そのために使えるものは何でも使う。その手段は時に卑劣だ。
「……」
彼女は何かを言い淀んだ。
「どんな命令を受けたか知りませんが、俺は最初に伝えたこと以外は望んでいません。フェンリスに余計な気遣いはするなと、よく言って聞かせます」
「なんの話ですか? 私はフェンリスさんとお会いしたことも、手紙を交わしたこともありません」
「えっ? それならフォンかルミエルですか?」
「私は……フィラントさんに媚を売れだなんて、そんなこと、誰にも命令されていません」
「……?」
フィラントが首を傾げると、エトワールも同じ動きをした。
「ならなぜ、俺なんかと親しくなりたいだなんて……」
「初対面の時から、何度も助けてくださいました。だから」
「助けた……?」
思い出そうとしても、逆しか記憶にない。知り合って早々に怖い目に合わせた。
「木から落ちた時、手を伸ばしてくださいましたよね。気分が悪くなった時も、運んでくれました。助けてくださって嬉しかったです」
その台詞に、祈るような仕草に、フィラントはしばらく何も言わず、瞬きを繰り返した。
あれは「助けた」のではなく、人として当たり前のことをしただけだ。
(あれも助けに入る……。まだ嫌われていなかった……)
怯えられて嫌われているから近寄ってはいけない。そう思っていたのに「貴方は私を嫌っている。辛い」と泣かれるとは。
「あの、いえ、あれは助けたのではなく、人として当たり前のことで……」
「人助けが当たり前とは、素晴らしいですね」
好意的な可愛らしい笑顔に、フィラントは数秒、意識を失った。
『さぁ、フィラント、励め。初恋の人を口説くんだ』
嫌われていないなら、ユース王子の言うことをしても許される。しかし、女性の口説き方なんて知らないし、失敗したら今の立場を失う。
『好意的に思われている知人』の座から転げ落ちなければ、また可愛い笑顔を向けてもらえる。
誰にでも親切にして、仕事に励み、可能な限り彼女を怖がらせない。それが、この幸福を失わない方法だ。
(絶対に今の立場を死守する)
フィラントは、そう固く決意した。




