14話「騎士、幸せを知る」
フィラント・セルウスは、今が人生でいちばん幸せかもしれないと感じている。
忠義を捧げるべき主君であり、友でもあるユース王子と引き離され、不満や寂しさを抱えていたが、それも“エトワールのいる日常”で一変した。
朝の礼拝に足を運べば、熱心に祈るエトワールの横顔がある。
その姿を見るたびに、色を失っていた世界が少しだけ、鮮やかに戻ってくる気がする。
戦場の記憶は濁流のように日々を侵食し、世界は日に日にくすんでいった。それで構わないと思っていたが、明るい世界を垣間見ると、嬉しいものである。
昼や夕方、仕事の合間に「口説く演技」として、シュテルン邸を訪れる。
エトワールが不在のこともあるが、在宅の時は「いらっしゃいませ」と歓迎する演技をしてもらえ、「お仕事お疲れさまです」と労ってもらえる。
怯えさせてしまったから、嫌われても仕方がない。けれど、エトワールは苦手な相手にも笑顔を向ける。それがたとえ、うつむきがちな困り笑いでも嬉しくてならない。エトワールのその笑顔を見るたびに、罪悪感は増していく。
しかし、願うことをやめられない。
これ以上怖がらせず、少しずつ信用を得られたら、談笑できる日が来るかもしれない。既に幸福なのに、そんな夢を抱いてしまう。
★ ☆
偽装のために、毎日、花か手土産を持ってシュテルン邸を訪れている。上司や部下に「お見合いしていただいていて」の一言を告げるだけで、フィラントとエトワールの噂は広がっている。
屋敷を訪れたフィラントは、シュテルン家の執事——実際は自分の教育係たちと話しているだけで、エトワールとは交流していない。
人は勝手に都合よく物語を作る。相手に話を合わせていれば、噂は勝手に広がる。偽装結婚までの作戦、芝居についての打ち合わせは必要無さそうだ。フィラントはますますエトワールと会話する理由を失った。話したいという気持ちは心の中に閉じ込めて、固く蓋をしている。
エトワールとアストライアで再会して約二週間が経つ。フィラントは部下マルクとレストランへ向かっている。
食べることが好きではないから欠席したいが、フィラントはこの食事会の出資者だ。部下を労うと言った手前、行くしかない。
ユース王子の手駒を増やすために、苦手な人脈形成に勤しんでいるが、本当はぼんやりする時間を作りたかった。
これ以上、エトワールの嫌悪感を増やしたくないので、そういう意味でも行きたくない。
(今日の俺はユースだ。そのつもりで演技をしよう。部下に懐いてもらわないとユースの味方を増やせない)
何年も前になるが、フィラントはユース王子の影武者をしていたことがある。
全力で臨めば、短時間なら、己らしくない性格を演じることができる。そうやって、人生のあれこれを乗り切ってきた。
だが、少しの影武者時間と、常に別人の顔で生きるのとでは話が違う。
フィラントとして別人のように振る舞えば、彼はそのような性格だと誤解され続けることになる。現に、今の職場でもそうなりつつある。
(『俺はユース』はやめよう。エトワール様の隣には並ばない。腕も、もうあげない)
心の中でぶつぶつ呟き、マルクの言葉を右から左へ聞き流す。
「——っあ、エトワール様。店の外で待っているなんて」
自分の世界に閉じこもっていたフィラントは、マルクの「エトワール」という単語でハッとした。
店前にいるエトワールは、この街で初めて会った時と同じ服装で、見たことのない日傘をさして笑っている。隣にいるサシャに笑いかけ、とても楽しそうだ。
サシャの格好が、侍女の制服ではなく、裕福な庶民の娘のようになっている。少年のように髪が短いので、少し浮いて見える。
「……えっ、あれ、サシャなのか?」
マルクの独り言のような声は上擦ったが、フィラントは意に介さなかった。
エトワールを待たせてしまった罪悪感で歩く速度を上げ、彼女の斜め向かいに立ち、頭を下げる。
「フィ——「班長、こんな話は聞いてないんですけど!」
距離のあるフィラントとエトワールの間に、護衛班のラーハルトが現れた。今日のエトワールの護衛は彼だったと思い出す。
「どういうことですか。マルクだけにご馳走するなんて。それも、エトワール様を伴って!」
ラーハルトからの非難の言葉を「話の流れだ」と遮る。
「他の者にもご馳走する。歓迎会をしていいって言っただろう」
「それは安酒場だし、エトワール様はいないじゃないですか!」
「じゃあ、君も今度ここに連れてくるからそれで許せ。エトワール様は呼べないからな。彼女は今日、侍女のために来たんだ」
部下たちは「奢れ、奢れ」とうるさいなとため息を吐きそうになる。全員、ユース王子——経由の領主レグルスの計らいで、他の班よりも給与が多いのに。
「それでしたらあの。サシャがお世話になることですし、私もその歓迎会にご一緒しても?」
エトワールが、ラーハルトの背後からひょこっと顔を覗かせ、彼を見上げた。
「……はぁあああああ⁈ エトワール様! 何を!」
フィラントは無意識のうちに叫んだ。主、ユース王子に対して驚き、大声を出す時のように。つい、そうしていた。
驚いて仰け反ったエトワールを見て、慌てて「大きな声ですみません」と謝る。
「世間知らずでは司教様のお役に立てませんので、見聞を広げようかと」
「エトワール様は聞かないからいいですか? ちゃんと変装するので。お嬢様に見えないように少年っぽくするんで!」
サシャがエトワールの隣に立ち、フィラントの顔を覗き込む。そしてさらに、エトワールが「お願いします」と軽く頭を下げた。
自分が惚れたせいで偽装結婚することになったエトワールに対し、フィラントは可能な限り貢ぎ、できる限り望みを叶えようと考えている。
「お願い」と懇願されれば、断らないというか断りたくない。
「……エトワール様のお望みでしたら。いや、ダメです。あんなところにいらっしゃるなんて」
断りたくないが、これは必要なこと。エトワールの見聞のためとはいえ、部下行きつけの酒場へ連れて行くなんて無理だ。
「昼間ですけど、下見もしたんですよ。やめておいた方がいいって言ったのに。でも、エトワール様は社会勉強だと」
サシャの発言に、フィラントは「誰の護衛の時だ。報告しろ……」とうなだれそうになった。かろうじて背筋を伸ばし続ける。
「そう……ですか。以後、そのような危険な行為は禁止します」
「なんでお見合い相手のサー・フィラントが、エトワール様の行動を制限するんですか!」
サシャに詰め寄られた。彼女は非難めいた目をして、腰に手を当てている。
「俺は見合い相手の前に、エトワール様の護衛責任者だ。彼女のご両親から大切なお嬢様の身の安全を託されている」
「酒場はそんなに危険なのですか? 窓から少し覗いたのですが、皆さん、楽しそうにお喋りしていました」
サシャの隣に困り顔のエトワールが並んだ。思わず後退りする。エトワールの前で「俺」と使わないように、口調が荒くならないようにしていたのに、つい。
「エトワール様のような女性は、声をかけられるどころか好き勝手に触られますので危険です」
エトワールは胸に手を合わせて、不安そうな表情でうつむいた。
「そうですよ。それに俺らがバカ話を出来ないので、エトワール様とはこういう落ち着いた店に来たいです。是非、次はこのラーハルトもお招き下さい」
エトワールはフィラントとラーハルトを交互に見やって、小さく頷いた。エトワールの残念そうな表情に気が引ける。
ちゃっかりしているラーハルトには苛立った。今の部下たちはお調子者ばかりだ。
「エトワール様。やっぱりやめておきましょう。マルクが『先輩たちは女好き』って言ってました。お嬢様に近寄らないで!」
サシャはラーハルトに「いー」っと歯を見せて威嚇して、エトワールと共に店へ入っていった。
「ちょっ、マルク! お前は幼馴染に何を吹き込んでる!」
十は年上のラーハルトに対して、マルクは鼻で笑って肩を揺らした。
「事実しか話してないっす。腹が減ったので俺も店に入りまーす」
フィラントは「また部下の愚痴を聞かされる、疲れそう」と心の中でぼやきながら、レストランへ入店した。
エトワールたちはもう着席している。マルクがそこへ近寄っていく。フィラントは店員に声をかけて、「部下が店前で仕事をしているので手で持って食べられるものを」と依頼した。
席へ向かうと、サシャとマルクが並んで座っていて、その向かい、三人掛けのソファ席にエトワールが一人で腰掛けていた。
(しまった。隣になる……)
再会した幼馴染たち、マルクとサシャは親しげに、楽しそうに会話をしている。それを無視して「席替え」とは言いにくい。
フィラントは渋々エトワールの隣に着席して、彼女となるべく距離を空けた。神経を研ぎ澄まして、怖がらせないようにしないとならない。
本日の主役二人に注文を促したが、二人は口を揃えて「この値段が怖くて頼めません」と顔を青くした。
支払いはフィラントなので、エトワールは困り笑いでフィラントを見つめている。何種類もの宝石を閉じ込めたような、不思議な色彩の瞳にジッと見つめられて、あちこちから変な汗が湧いてくる。
ほんのりと香る、さり気ない甘い匂い。白い首筋がよく見える凝った髪型。遠くから短時間眺めるだけで目が潰れると感じているのに、この至近距離で食事をするなんて心臓が止まりそう。
(貴族ではなくて、こんなに綺麗な女性ではなかったら話せたのに。それに男性を恐れていなければ……)
世間では、看護婦は汚れ仕事だと蔑まれている。だから、サシャのような孤児など最下層から脱出したい女性が目指す職業だ。
フィオールは看護婦の地位を上げる活動をしていて、戦地になったウェイルズまで来てくれた。志の高い、地位向上を掲げる看護婦有志たちとその部下と共に。探していた白天使が貴族令嬢だったなんて、おまけに直視しにくい程の美人だなんて、まるで想像していなかった。
ユース王子ならこういう注文をする。そう考えながら、店のおすすめを聞きつつ、自分が嫌いなものを除いて注文をした。
「家族でたまに都会へ行った時に楽しんでいたお店のようです。私も連れてきていただき、ありがとうございます」
エトワールに話しかけられ、緊張で吐きそうになる。彼女は相変わらず困り笑いで声も小さい。
気が合って結婚することになっているので、サシャとマルクがいるこの場では「無理をして話しかけなくていい」と配慮してあげられない。
(という言い訳で、話しかけられたいだけ……)
利己的な自分に嫌気がさして、小さく息を吐く。
「お望みならどこへでも行けるように手配します」
「どこへでも?」
エトワールが呟く。その瞳は宙を泳ぎ、言葉を探しているようだった。
「それでしたらあの、今度、ステラ湖へ行ってみませんか? とても美しいそうです」
「サシャ、ヴィクトリア夫人に伝えてすぐに予定調整を。護衛班の勤務は全てエトワール様に合わせると伝えてくれ」
「はい! 良かったですね、エトワール様。サー・フィラントも乗り気で」
「……ええ」
眉尻をさらに下げると、エトワールはうつむいた。
(げっ。俺も行くと誤解された)
気をつけているのになぜこうなる。お見合い中という嘘のせいだ。見合いは嘘だと宣言しても、王命で結婚という話は残る。
エトワールは『褒賞妻』や『母親の政治戦略に使われた娘』だと、面白おかしく政敵に吹聴されるだろう。
(ユースのやつ、フィオール様を味方にするにしても、なんていう方法を使いやがった。陛下もなぜ王命を……)
ユースは父親である国王陛下に、三男は愛嬌があって可愛いというように気に入られている。こいつは政治には向かないと、そこそこ見放されてもいるが。道化を演じているユースは、今日も元気にしているだろうか。
サシャがステラ湖はどんなところか説明していく。この街の水源で、神様の休息地とも言われている場所。だから、近くに住んだりしてはいけない。
駐在所があり、騎士たちが見回りをしている。それなのに冬になるとスケート場になる。
貴族も庶民も、アストライアへ観光に来ると、綺麗で透き通った湖を眺めに行く。
サシャやマルクも、スラム暮らしの時に「冒険」と言い、日常を忘れにたまに行っていた。
そんな風に、食事中の会話はサシャとマルクが中心で、それにエトワールが楽しそうに加わっている。
エトワールはたびたび、フィラントに話しかけた。強張った表情に申し訳なくなる。
(どこかで二人になって、無理をしなくていいと伝えないと)
食事が全て終わり、店を出た時に、エトワールとサシャを屋敷まで送り、屋敷内で彼女に話そうと決意した。
「エトワール様、私はこれで失礼します」
サシャの発言に、フィラントは固まった。
「サシャ、これでってどういうことだ?」
「午後休みなので、マルクとぷらぷら散歩に行きます」
「今日もご苦労様。ゆっくり楽しんで、暗くなる前に帰ってくるのですよ」
フィラントがサシャに何か言う前に、エトワールが彼女の肩に触れて笑いかけた。
「ありがとうございます」
「エトワール様。こいつなら大丈夫っすけど、一応、女なんでちゃんと送ります。失礼します」
屋敷まで一緒だと思っていたサシャとマルクが、会釈を残して遠ざかっていく。
「では、エトワール様。自分も失礼します」
ラーハルトが敬礼をして、エトワールが深々と頭を下げた。
「本日もありがとうございました」
離れようとしたラーハルトを捕まえたら、肘で小突かれて「羨ましくないですからね。畜生」と睨まれた。厳しくしているのに、このように部下に舐められている。
エトワールと二人だけになり、途方に暮れた。
「護衛ならフィラントさんお一人で十分ですので、暇を出しました」
「……ああ、はい。例の件で何か打ち合わせですね。私も似たようなことを考えていました」
悲しげだったエトワールがパッと笑い、フィラントを見上げた。煌めくような笑顔に軽い眩暈がする。
「あと一ヶ月もなく婚約ですので、大勢の人に目撃されるべきですよね? あちこち歩きましょう」
爪先立ちしたエトワールが、秘密の話というように耳元に顔を近づけて話しかけてきた。
(心臓が爆発する。死ぬ……)
役得とはまさにこれ。フィラントの耳奥でユース王子の台詞が蘇る。
『私のためにエトワールちゃんとラブラブ作戦を実行し、フィオール夫人という駒を獲得しろ』
この命令で大切なことは「フィオール夫人を味方につけること」である。
(ラブラブ作戦は無理だが、彼女に嫌われ続けているとユース王子に迷惑がかかる……)
これまでの度重なる失敗を挽回できたら、その先に『雑談できる知人の座』がある。
フィラントは大きな深呼吸をして、エトワールにどこへ行きたいか尋ねた。




