11話「やきもちと笑顔」
アストライアへ移って二日目。ヴィクトリアのレッスンは、朝食から始まった。
食事をするだけなのに、ヴィクトリアの指導は驚くほど細かくて、どっと疲れた。
母に教わりながら励んできて、恥ずかしくない娘になったと思っていたのに、姿勢、手や指の形や動かし方など、いくつも注意されるとは。食べただけなのに、まるで一日中働いた後のような疲労感だ。
このあとは着替えて、聖堂と騎士団へ挨拶に向かわなければならない。ゆっくり休む時間などなさそう。
朝食は焼きたてのパン、温野菜のサラダ、ハムの入ったオムレツにきのこ入りのスープと、とても贅沢だった。しかし、一日かけて食べるような量を一気に食べたので、気分が優れない。
「お嬢様、顔色が悪いです。いかがされました?」
ヴィクトリアの問いかけに素直に答える。とても美味しい朝食だったけれど、量が多かったと。
「レッスンに必要だからなのでしょうけど……」
「いいえ。お嬢様が快適に過ごせることがレッスンよりも優先です。すぐに見直しましょう」
結果、エトワールは料理長と話すことになった。ヴィクトリアに遠慮せずと促されたので、「朝食はパンとスープのみで」と頼めた。
「昼食はいかがなさいますか?」
「昼も夜も、今、お伝えした朝食と同じくらいの量でしたらなんでも。おまかせします」
料理長オットーはにこやかに笑って了承してくれた。
「確認ですが、お嬢様の苦手なものは辛いものだけでしょうか」
「ええ。どなたに聞きました?」
「ヴィクトリア様からです」
エトワールが彼女を見ると、「お母上に手紙で教わりました」と微笑みかけられた。
「そうでしたか。ご配慮ありがとうございます」
「この屋敷はお嬢様の城です。ご要望があればなんなりと。予算内で工夫します」
要望を口にして良いのなら。エトワールは手で胸を押さえながら、ゆっくりと息を吸った。
「厨房の見学や、お料理を教えていただくことは可能ですか?」
両親は自らを『貧乏男爵と勘当された女性』と称し、我が子に生活力を持たせるため、エトワールにあらゆることを教え込んだ。料理もその一つで、特に好んでいる。
「屋敷内のお嬢様は基本的には自由です。今のところ、オットーが受け入れるなら、その願いは叶います」
ヴィクトリアの物言いには、どこか棘がある気がした。何も思わなかったのか、オットーはニコニコしている。
「厨房見学はいつでも歓迎ですし、自分にできることは何でも教えます」
「ありがとうございます。新しい生活に慣れてきたら声をかけるので、よろしくお願いします」
この会話のあと、着替えに向かう間、エトワールはヴィクトリアに「基本的にとは何か」と質問してみた。ヴィクトリアは周囲に誰もいないか確認した後に、小声を出した。
「お嬢様はフィラントに雇われた妻役です。彼がノーと言えば従うしかありません。もちろん、契約を続ける場合は、ですけれど」
「フィラントさんは厨房見学や料理をするなと言いそう。そういうことですか?」
「私は彼と会話するようになって間もないですし、彼は寡黙です。あの無表情ですから何を考えているのか、どういう価値観を有しているのか分かりません」
ユース王子はヴィクトリアたち協力者に、現場指揮官はフィラントだと明言している。
そのフィラントは、ヴィクトリアたちにこう頼んだ。この屋敷内のことはシュテルン家の心身の安全が優先、生活を快適にするよう。
不服というように、ヴィクトリアは唇を尖らせた。
「それなのに私としたことが、下調べが足りませんでした」
フィラントの頼みや、エトワールのために何かすることに不満があるわけではなさそうで、緊張が柔らいだ。
「食事量のこともですし、料理をしたいだなんて。価値観が凝り固まっていました。申し訳ありません」
「いえ、すぐに配慮していただいて助かっています」
趣味について問われながら自室に着くと、ヴィクトリアは予定まで時間があるので休めると言って去った。
窓辺にある椅子に腰を下ろす。窓を開けて風を浴び、はち切れそうなお腹が苦しくなくなるのを待つ。
楽になってくると少し歌い、遊びに来た小鳥に触れた。田舎では緑に囲まれていたけど、都会には建物ばかりで寂しい。屋敷の庭も、まだ何もない状態だ。
紹介された雇用者に庭師がいて、今、眼下で花壇を造ってくれているように見える。
ヴィクトリアに話せたので、花を植えたり、野菜を作ることもできそう。これから冬になるので寒さにも耐えられる花について考えていたら、黒毛馬が目に入った。
遠いけれど、黒い馬に乗っている騎士はフィラントだと分かった。
エトワールは思わず部屋を飛び出して、階段を駆け降りた。そうしてから寝巻きだったと気づき、慌てた瞬間、従者が玄関扉を開いた。
さぁっと風が吹き抜けて、フィラントの黒髪がさらさらと揺れる。パチリとフィラントと目が合う。
瞬間、息ができなくなった。
★
フィラントは何度目かの瞬きをした。エトワールの無防備な寝巻き姿はそれでも消えない。
全身の筋肉という筋肉が停止したのか、指一本動かない。目だけは動くが、瞬きのたびにチカチカと光が飛び交う。
……。
……天使?
エトワールは探していた白天使だから天使であるが、今のこの姿はそういう意味とは違う。プラチナブロンドの髪はふわふわと揺れ、レースの多い白い寝巻き姿は美麗だ。
なぜかいきなり、天使がさらに天使になって降臨した。
一刻も早く目を背けないと、無礼者だと嫌悪されると分かっているのに体が動かない。
☆
恥ずかしさのあまり、エトワールは絶叫した。
「そそっかしくて、着替えていないことを忘れていました! はしたなくてすみません!」
消えてしまいたい。両腕で体を隠そうとしてみたが、どうしたって隠すことはできない。
フィラントは眉一つ動かさなかった。侮蔑も動揺も、驚きすら見せず、ただ静かに背を向ける。「失礼します」と無表情で凛とした声を出し、エトワールに背中を向けて直立している。
悪く思われてなさそう。それは朗報だが、照れられてもいない。全ての態度が、フィラントは自分に興味が無いと突きつけている。シュテルン家を優先してくれる話や、昨日の「宝物」発言とは乖離するけれど。
「手配していた馬車が壊れたそうで、お迎えにあがりました。こちらでお待ちしております」
「……は、はい。すみません。すぐに支度をしてきます」
回れ右をした時に、階段上にいる、真っ赤な顔で眉毛を吊り上げているヴィクトリアと視線がぶつかった。叱られると考えながら階段を登る。
「お嬢様。いくらお屋敷内では自由と言っても、その格好のままウロウロすることは許したくありません」
ヴィクトリアに小声で囁かれて、ますます身を縮める。
「私もそのような考えを有しています。つい。窓の外にフィラントさんの姿が見えたのでつい」
「微笑ましいから応援したいですが、人生の先輩として忠告します。あのフェンリスさんの忠臣ということは、主人に似て、女性にだらしないですよ」
「……えっ?」
「昨日のドレスに対する喜びようで確信しましたが、今のでさらに」
自分でも自覚しつつある淡い恋心を見透かされたことが恥ずかしい。
それに加えて、フィラントが“女性にだらしない男”かもしれないという言葉に、心がぐらぐらと揺れる。
「ヴィクトリア、あのフェンリスさんの『あの』とは?」
「ご存知ないなら知らないままが良いかと。乙女の耳が腐ります」
「腐る……」
ヴィクトリアと三人の侍女と自室へ行き、着替える間、ぐるぐると考えてしまった。
乙女の耳が腐るような女性関係のある王子とはなんなのか。その忠臣は同類か、気になってならない。
支度を終えて、ため息を吐く。今日のドレスもフィラントからの贈り物だから嬉しいという感情よりも、モヤモヤが勝っている。
馬車がないので、エトワールはフィラントの馬に乗ることになった。
馬に乗るのは生まれて初めてで、おまけに男性と二人乗りなので大緊張。気になる男性と二人乗りだから、なおさら。
「サシャ、若い娘を歩かせて悪いな」
フィラントは馬の隣を歩くサシャに話しかけた。
「いえ。三人乗りは無理ですし、私は馬に乗れません。そそっかしそうなエトワール様は一人だと落ちます」
「ああ、一人で乗せて落馬は避けたい。エトワール様、申しわけありませんがこれでご容赦ください」
返事もお礼もしつつ、エトワールは心の中で「サシャ」と呟いた。サシャと呼び捨て。そういえば昨日も聞いた気がする。随分と親しげだ。
☆ ★
道中、エトワールとしてはあまり面白くない状況が続いている。フィラントはずっと、サシャとだけ話している。ヴィクトリアは彼を寡黙と評したけれど、ごくごく普通に喋っている。
エトワールに対するような礼儀正しさは消え、気のおけない友人と語るように、サシャとの会話を楽しんでいる。
話題は「マルク」という人物のこと。マルクはサシャの知り合いでフィラントの部下なのは分かった。話を聞いているうちに、昨日会った、くるくる癖毛の金髪騎士がマルクという名前だったと思い出す。
「今のところちゃんと働けているなら良かったです」
「君はマルクといつからどんな知り合いなんだ?」
「私たちは、七番街あたりのスラムの姉弟なんです」
スラムという単語にエトワールは目を見開いた。
「ああ、そういえばあいつ、食うために志願兵になったって言っていたな」
「私はどん詰まり人生は嫌だから、仕事を求めてこの街を出たんです。幸運にも働き口を見つけて、貯金もできたので、一回帰ってきたんですよ」
サシャは楽しそうに笑いながら、とても悲しい話をした。スラム仲間は流行病で亡くなっていた。生き残っていたのはマルクだけで、彼も死にかけだったと。
「医者にかかるくらいのお金があるって言ったら、要らないって怒って大変でした」
「でも、病院につれて行った。だから今、元気なんだな」
「死にかけてたから、寝ている隙に連れて行ったんです。出世払いしろって言って押し付けたから、靴磨きから志願兵になっちゃって」
マルクは家出のように出征してしまった。仕事先にマルクからの手紙とお金が何回か届いたけど、宛先が書いてないので返事はできず。
サシャは前職をクビになったので、マルクからの手紙を郵便局止めにした。三回目の郵便はこず、一年半ほど経ってから再会した。
「ああ、そういえば。サシャに会いに行ったらクビになってて行方不明だったけど、偶然会えたって言っていたな」
「そうなんですよ。自分が住所を書き忘れていたせいなのに、私がいなくなったって濡れ衣です。弟分なのに兄貴分ってうるさいし」
「何にせよ、再会できて良かったな」
「そうですね。この世に一人じゃないっていうのは、嬉しいものです」
サシャはフィラントに満面の笑みを向けた。フィラントが微笑み、静かに「ああ」と答える。
「……」
フィラントの前、触れそうで触れない腕の中で、エトワールは自分の眉間に力が入ったと感じた。フィラントとサシャはやはり親しげだ。
一方、エトワールは笑いかけてもらえない。話も振られない。そう考えたら腹立ちは増した。
自分でも驚くほど理不尽な感情だった。戸惑いが募り、やがて自己嫌悪に沈んでいく。
「サー・フィラントの家族はどんな人ですか?」
「孤児だから家族は誰もいない。けど、気にかけてくれる友人はいる。俺もこの世に一人ではないから、それを嬉しく思う」
その声の柔らかさに、エトワールは自然と振り向いた。フィラントはサシャへの微笑みとは違う、眩しそうな笑みを浮かべていた。
同じ微笑みだけど、種類が違う。エトワールを魅了する万華鏡のような瞳が、もっともっと輝いて見える。
「……」
ドクン、ドクンと激しくなった鼓動が聴力を奪う。街の喧騒もサシャのお喋りも遠ざかっていった。
今のでこれなのに、自分に笑いかけてくれたら、どうなってしまうのだろう。
エトワールは前を向いて、胸に両手を当てて、しばらくときめきに酔いしれた。
どうかフィラントが女性にだらしない男性ではありませんように。そう、強く祈った。




