ミリヤ・ミリヤッドは伴侶を見定める
法廷の扉を開けたのはオルロフ侯爵その人。いつもの流れるような美しい髪は乱れ、深緑のジャケットは雪と泥の染みに塗れている。
(どうしてここに?!)
思いがけない光景に全身が熱くなる。オルロフ侯爵がここにいるわけがない。知らせを聞いてから王都にくるまで、ひと月はかかるはずだった。
イヴァンはありえない光景を、歯ぎしりをしながら見つめている。彼の目論見は全て、オルロフ侯と冬の間は連絡が取れないことを見越した上での言いがかりだったのだから。その目論見は完全に崩壊した。
「裁きの場など不要だ!」
オルロフ侯爵は、怒気をはらんだ大音声で叫ぶ。裁判所の誰もが身をすくめる。
彼は一歩一歩、裁判所の大理石の床を踏みしめ、私のそばに近づいてくる。近くで見る彼の顔は無精髭が伸び、眼の下には疲労が見える。だが、全身から燃え立つような感情を放っていた。
でも、出てきたのはひどく優しい一言。
「つらい目に合わせて済まなかった」
万人が見ていることをまるで気にせず、彼は心底申し訳なさそうに、私に軽く頭を下げた。
彼は怒りの視線を裁判官に向ける。
「ミリヤ・ミリヤッド嬢に不当な嫌疑がかけられていると聞いた。こともあろうに、私への脅迫だと?」
「そ、それは……モロゾフ伯からの訴えでして――」裁判官が顔をゆがめながら言い訳をする。
「――悪意に満ちた嫌疑だ! そのような事実は一切存在しない!」
再び激しい怒気をはらんだ声が、法廷に響いた。
彼は一喝して言い捨てると、私のすぐ隣へと踏み込み、大きな腕を私の肩へ回した。その腕は泥と雪に濡れ、ここに来るまでの過酷な道中を物語っていた。彼の胸に顔が埋まる。森の香りをいつもより濃く感じる。彼の熱がローブ越しに伝わり、私の鼓動を速くする。
「あっ……」
ふと漏れた私の声をつかまえるように、彼はより近くに私を引き寄せる。私と彼のシルエットが重なる。
彼は私の目を見て「待てなくてすまない」と私にしか聞こえない小声でささやいた。
その囁き声に私の時間は止まった。
「返事をもらえないだろうか」
その一言で、頭が瞬時に熱くなるのを感じる。
そして、私は彼の真っ直ぐな視線を受け止めて、軽くうなずいた。
彼はすぐさま目線をあげ法廷を睥睨し、大きな声で宣言した。
「ミリヤ・ミリヤッドは、我が生涯の伴侶となる女性である。
我が将来の妻への侮辱は――
このアレクセイ・フォン・オルロフへの侮辱とみなす!」
獅子の咆哮のような宣言に、法廷全体が息を呑む。
私の耳元で鳴り響いたあまりにも真っ直ぐな言葉。視界が白く眩み、頭がクラりと揺れた。全身の血が耳元で激しく脈打ち、急速に膝から力が抜けていく。足元がふらつく私を、彼がその太い腕で支え、宙に浮くほどの力強さでしっかりと抱き留めてくれた。
イヴァンの端正な顔は既に歪み切っていた。さしものイヴァンもオルロフ侯爵当人に出てこられては弁解のしようが無かった。イヴァンはきびすを返して、法廷から逃げ出そうとする。
「くっ……くそ……脅迫の嫌疑が晴れたならばそれでいい。私は失礼させていただく」
「イヴァン様!」
タチアナ嬢が追いすがる。
私は彼に聞こえるように囁く。
「閣下。ここにあるのは証拠として押収された私の資産ですが……閣下からいただいた200万レザが無いようです」
私の意図をすぐに理解したオルロフ侯爵は大きな声で裁判官に申し立てる。
「裁判官!私がミリヤに支払った紙幣はオルロフ家の紋が入った紙で止められている。それがモロゾフ伯爵家の金庫から出てきたら、さぞ面白かろうな」
「なっ!」
法廷から出ようとしていたイヴァンの足が止まり、絶望に顔を強張らせる。
「裁判官!ミリヤ・ミリヤッドの身柄と資産を即座に解放し、モロゾフ伯の屋敷の捜索を願う!」
侯爵の威に押され、小太りの裁判官はハンカチで汗を拭いながら、ついに木槌を叩いた。
「被告人ミリヤ・ミリヤッド嬢は無罪! 並びに、書類偽造、窃盗および詐欺の疑いにより、モロゾフ伯の即時身柄拘束と無期限の勾留を命じる!また、モロゾフ伯邸宅の捜査を早急に行う!」
いつのまにか熱狂に包まれた聴衆たちの轟くような拍手が鳴り響いた。




