王都でも有名なパン屋
日は傾き始め、夏の長い昼間が終わりを告げつつあった。目の前のパン屋も人がまばらだ。
「占いの結果では、ここのようなのですが」
私は説明しながら、馬車を降りる。眼の前にあるパン屋は、レンガ造りの見るからに朴訥とした外観で、およそオルロフ侯爵の想い人がいるような建物には見えなかった。
「なにかお心当たりは……」
「いや……でも、確かにパンやケーキをよく作ってもらったが……」
侯爵は、建物を見ながら思い起こすようにつぶやく。
客が木製の扉を開けると、カランコロンとベルの音がする。お客さんもごく普通で、みるからに町の人に愛されているパン屋に見える。
「入ってみましょう。私はこの店には何度か来たことがあります」
「わかった。その前に馬車を返しておこう。ここからなら歩いて帰れるだろう」
侯爵の指示で馬車は狭い道を進んでいった。
馬車を見送ると、私はオルロフ侯爵とともに、古びた木製のドアに近づいた。
意を決して、ドアを開ける。カランコロンと再びベルがなる。
「すいません……」
おずおずと店内を覗く。見覚えのある風景。
既にパンの殆どは売り切れ、年季の入った棚の肌をさらしていた。
「いらっしゃい!」
奥の作業場から張りのある声が響き渡り、長身の女性が姿を表す。
「あいにくもう看板なので、残り物しかありませんけど、お好きなものがあれば買っていってください!」
以前、この店に来たときにも見かけた、この店のおかみさんだ。おかみさんと言っても、三十代半ばほどの凛々しい女性。すっと伸びた鼻筋と釣り上がり気味の眉毛がどこか鷹を思わせる。後ろでまとめた黒髪。そして――宝石のような緑の瞳。
(侯爵と同じ色の眼と髪?!)
眼の前の女性の眼は他ならぬオルロフ侯爵の切れ長の目とそっくりだった。
艷やかな長い髪も。
その見覚えのある、目がみるみる見開かれる。
「アレク……!?」
緑の瞳の女性は小麦粉のついた両手で咄嗟に口元を覆い、オルロフ侯爵の愛称であろう名前をつぶやく。私のすぐ後ろに立つオルロフ侯爵が、彼女と同じ深緑の瞳を大きく見開き、信じられないものを見るように喉を鳴らした。
「……オルガ、姉さん……」
初めて聞く、彼の震える声。
かすかに幼さすら感じさせる声の響きに、胸の奥が締め付けられる。
「アレク!! 本当にアレクなの!? どうしてここに……っ!?」
「姉さん……ずっと探していました……お元気そうで、なによりです……」
オルガ姉さんと呼ばれた女性はカウンターから回り込んで、大股で駆け寄り、背の高いオルロフ侯爵を力強く抱きしめた。彼もまた、その背中に回した大きな腕を愛おしそうに回し、深く頭を埋める。
(まさか、侯爵の探していたのが実の姉だったなんて……)
意外な展開に肩の力が抜ける。
「あぁ……どうやってここがわかったの?」
両手でアレクセイの頬を挟んで愛おしそうに問う。双方の緑の瞳が潤む。
「彼女が姉さんに引き合わせてくれたんだ。ミリヤ・ミリヤッド嬢。王都一の占い師だ」
彼が私を紹介する。
「はじめまして……ではないですね。何度かこの店でお見かけした覚えがあります」
「はい。ですが、まさかパン屋のおかみさんが侯爵のお姉さんだったなんて……」
オルガはふっと笑って、小麦粉にまみれたエプロンをつまんで礼法通りのお辞儀をした。
「ご機嫌よう、愛しき導き手、ミリヤ・ミリヤッド様。オルロフ侯爵家が長女、オルガ・フォン・オルロフにございます。長らく生き別れておりました愛しき弟、アレクセイと巡り合わせてくださったこと、心より感謝いたします」
その言葉には、小麦まみれのエプロンすら一流のドレスに見せてしまう圧倒的な気品が宿っていた。
「そうは言っても、今はパン屋ですので、今まで通りでお気になさらず」と笑って、礼を崩し、親指で自分のことを指してみせた。
「あの……どうしてオルロフ侯爵家の方が、ここでパン屋を?」
「姉さんは、自分が随分前に、愛する人と駆け落ちして、行方知れずだったんだ」
「えぇっ?!」
「隠れていたわけではないんだけど……心配かけてごめんなさい……特にアレクにはなんと言っていいか……」
オルガは照れたように頭をかいた。
「姉さんが元気そうで嬉しいよ」
その笑顔は心から安らいだように輝いていた。




