最後の申し出
ターニャがレラ嬢をご自宅まで送り届けたので、占いの部屋には私とオルロフ侯爵のふたりだけが残された。彼は椅子で足を組み、視線を落として物思いにふけっている。肩は小さく落ち、緑の瞳は光が失われたままだった。
「……閣下。お騒がせしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「いや……君に落ち度はないよ。もちろん、あのレラ嬢にも……これは私自身の問題だ」
いつもよりやや弱々しい彼の声音に、私はゆっくりと首を振る。
「いえ……私は気づくべきでした。いいえ、心のどこかで……気付いていたのかもしれません」
重く気まずい沈黙が流れる。私は自分の椅子を引き、オルロフ侯爵の真正面へと腰を下ろした。
「閣下……私の過去のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
彼は少しだけ意外そうに目を見開くと「ええ、もちろん」と静かに頷いた。私はローブをゆっくりはずし、目の前に置かれた占い盤の木肌に触れ、その刻まれた凹凸を確かめながら、どこから話すべきかを思案する。深く息を吸い込んでから切り出した。
「閣下は数年前に没落したミリヤッド伯爵家をご存知ですか?ペトログラドの南方の領になります」
「あぁやはり、あなたはミリヤッド家のご令嬢でしたか……」
そう言って興味深そうな視線をみせた。彼は私の出自に心当たりがありながらも、私自身が口を開くまでただの一度も指摘しなかったのだ。その心遣いに胸が熱くなる。
「ミリヤッド伯爵家は五年前にお取り潰しとなりました。罪状は詐欺――ですが、父は絶対にそんなことをする人ではありません。ただ……嫌疑をかけられた時点で、父には身に覚えのない証拠が揃えられていました。今思えば誰かの罠だったのでしょうけれど、当時の父には抗弁する術さえ残されていなかったのです」
「そういうことでしたか……」
彼の低い声が、部屋の静寂に溶けていく。私は占い盤の縁をそっと指先でなぞりながら、言葉をつなぐ。
「当時、私には婚約者がいましたが、すぐさま婚約の破棄を切り出されました」
未だに悪夢で見るあの光景を思い出して、手を握り込む。
「私の元婚約者も伝統ある家柄と家業だけが欲しかったのです。元婚約者だけではなく、今まで良くしてくれた人もすぐさま距離を取るようになりました……世の中の誰もが私を伯爵家の娘だということだけで全てを見ていたのです。そこには私自身の思いは何の関係もなかった……」
スッと胸を張り、彼の緑の瞳をみつめる。
「それで……私は自分の未来を自分で選ぶため、占い師としての道を選びました」
彼は組んだ両手に顎をのせ、まっすぐな視線で私の言葉を受け止めている。その真摯な眼差しに背中を押され、私は唾を飲み込んでから言葉を続けた。
「差し出がましいですが、閣下と私は似た想いを持たれているのではないでしょうか……閣下もそのお立場と外見だけで判断され、心のうちに孤独を抱えてらっしゃるのではと……」
彼の暗い緑の瞳が微かに揺れ、先ほどまで失われていた光が瞳に宿っていく。彼は深く息を吐き出すと、慈しむように答えた。
「ありがとう。ミリヤ。つらい思いを語らせてしまってすまない」
「いえ、私はこのことをつらいとも思ってませんし、恥じてもいません」
「君は――強いな。私も君のように生きられたら良かった……」
ふと投げられたまっすぐな賛辞に胸が小さく跳ねる。
「君の言う通り、私は今まで家のために生きてきた。それだけが生きる道だと思っていたから」
彼は視線を緩やかに落とし、心の奥底に溜め込んでいた澱を吐き出すように語り始めた。
「私は常に外見や地位だけで人から見られる立場だ……それは避けられないことだが……誰も自分を見てないと感じた時、知らず知らず心が沈んでしまう……人前でそんな感情を出すのは当主としてあってはいけないことなのだが……」
自嘲気味に口元を歪めながら、彼は大窓の向こうに広がる澄み渡った青空を見つめ、ぽつりと呟いた。
「ひどく寂しい気持ちになってしまうのは止められないな……」
「そうでしたか……」
胸の奥がキュッと痛む。レラ嬢との占いで出た占いの煙水晶が示す「秘められた思い」と「孤独」。占いは当たっていた。私が読みきれなかっただけで。
(……ううん、本当は分かっていたのかもしれない)
思えば、私の心の中に、カタリナ様のときに感じたようなざらついた焦燥がまるでなかった。私は、このお見合いが根本から成り立たないことがわかっていたのかもしれない。
「すまないね……でも、君に正直に話せてよかったよ」
彼の表情のこわばりが取れ、笑顔が戻ってきた。大きな体を椅子の背に預け、足を組んで軽い調子で話し出した。
「実は私は幼い頃、一日中本ばかり読んでいる子供で、背も低く、ずいぶん太っていたんだよ」
「えっ……? 閣下が?」
「ああ。それが、ある出来事をきっかけに剣を取って体を鍛えざるを得なくなってね……それで、ずいぶん背も伸びた。だから未だに、周囲から外見のことばかり褒められると、どこか違和感があってね。褒めていただけるのはありがたいのだが……どうしても気恥ずかしくなってしまうんだ」
「なるほど……ふふっ、それは意外ですね。それは私の占いでもわかりませんでした」
「ミリヤの占いでわからないなら、これは大変な秘密だったな」
そうして、彼は「人には内緒ですよ」と言うように、すっと人差し指を唇に当てて片目をつぶって見せた。その仕草で、お互いの緊張がふっと解け、笑いが漏れる。ふと大窓を見ると、そこに澄み渡る夏の青空が広がっていた。空はどこまでも高く、白い雲が細い線となって伸びている。 短い秋がそこまで迫っているかのようだった。
「もう、夏の社交の時期も終わりますね……」
私は彼に頭を下げる。
「閣下にお似合いのお相手を見つけられずにすいませんでした」
「いや、ミリヤ。無理を言ってすまなかった。今、こうやってあなたと話せているだけでも良かったよ」
彼の気遣う言葉が、胸にしみる。思えばここ一か月空回りばかりしてしまったような気がする。彼の真摯な悩みに答えられなかったことに、胸が痛む。彼と会うのも、これが最後かもしれない。思い残すことが無いように一歩踏み込む。
「アレクセイ様」
私が初めて彼の名前を口にすると、彼は私に視線を合わす。
「何でしょう?」
「最後に一つだけ、あなたのために、占わせていただけませんでしょうか」
「……私のために?」
「はい。閣下の抱える苦しみの一端は分かりました。ですが……そこまで深く心を痛められるのには、何か理由があるはずです」
「理由……?」
「宝石詠みには『石を知らぬ者は欲さず』という古い教えがございます。人は、一度も触れたことのない温もりや輝きを、切実に渇望することはできません。閣下がこれほどまでに『心を寄せ合える伴侶』をお求めになるということは……かつてあなたの心に寄り添い、本当のあなたを愛してくれた方が、いらしたのではないでしょうか?」
彼は息を呑んで、私の前で、初めて驚いた表情を浮かべた。
「オルロフ侯爵閣下としてではなく――アレクセイ・フォン・オルロフという一人の人、あなたの魂のために、占わせてください」
私の胸の中で、師から授かった宝石詠みの秘奥の名が浮かぶ――宝石詠みが秘奥『深心詠み』




