暗く青い瞳の悪い夢
影の差す長い廊下、私の前に暗く青い瞳の男が立っている。男は金の煙管をくゆらせながら、軽い調子で私に告げる。晴れた日に「どこにでかけようか」というような口調で。
「そう。だから婚約を解消しよう」
「イヴァン様……?どうしてそんなことを……?」
私はすがるような声を出してしまう。
「だって、没落した家の娘を妻に迎えたら、我が家の名に傷がつくだろう?僕に何の得もない」
そう言いながら、贅を尽くした上着の表面を手で払う。僅かな汚れも許せないと言うかのように。
「……っ」
あっさりと放たれた残酷な一言に何も返せない。
「それに、そんなことになったら君も肩身が狭くて可哀想じゃないか?」
暗く青い瞳の男は綺麗な笑顔で、身勝手な言葉を続ける。
「僕が君と婚約したのは君が伯爵令嬢だからってことはわかっているよね?」
煙管を口から離して口から煙を吐く。無駄にかぐわしい煙が辺りを満たす。
「そんな……」
「そうだ。破棄じゃなくて、婚約はなかったことにしよう!そうすればお互いの経歴に傷もつかないし都合がいい!」
さも良いことを思いついたかのように勝手なことを言い出す。
「でも、婚約宣誓書にサインが!」
「あぁ、あの宣誓書は本物じゃないんだ。君には悪いけど」
「どうして?!どうしてそんなことを?!」
私は必死で手を伸ばす……そこで目が覚めた。
ベッドの上。
(久しぶりにあの男の夢を見たわね……)
起き上がりながら頭を左右に大きく振って、夢の記憶を追い出す。今の私に完全に不要な記憶だから。
(ストレスが溜まってるのかしらね……)
ぼうっと窓から入り込む朝日を見ていると、寝室のドアを軽やかに叩く音がした。
「ミリミリ〜〜朝ごはんできたよ〜〜」
ターニャの呑気な声に、嫌な夢の余韻がすっと引き払われる。私は機嫌を取り直して「今行く」と返事をした。
寝間着から着替え、顔を洗って、スープの香りがするリビングのテーブルにつく。
「おはよう、ターニャ」
「おはよう〜〜昨日、買ってきたパンだよ〜〜」
丁寧に切り分けられたパンがスープの横に並ぶ。昨日、仕事が終わってからターニャと評判のパン屋にわざわざ買いに行ったのだ。
「ありがとう」
先程の悪夢の余韻のせいか、お礼の言葉が、すこしぶっきらぼうになってしまう。
「大丈夫? なんか寝起き悪そうだけど」
テーブル越しに覗き込んでくる同居人に、苦笑いを返す。
「うん、まぁね。ちょっと嫌な夢を見ただけ」
「でも、カタリナ様と侯爵のお見合いはうまく行ったんでしょう?」
ターニャがスープの皿を置きながら、興味津々に尋ねてくる。
「家同士のお見合いとしてはね……結婚としてはちょっと……」
貴族の婚姻は家同士のつながりを実現する方法の一つでしかない。だから婚姻無しでつながりが実現できればそれはそれで歓迎すべきことだ。
「残念。カタリナ様とオルロフ侯爵お似合いだと思ったんだけどなぁ」
「そうね……ただ恋愛というのとはちょっと違ったみたい……」
占ったときには自分でもお似合いのカップルだと思ったのだが、顛末を見た今では、もうお二人の結婚のイメージがつかないでいる。つまりそういうことなのだろう。
「夏の社交シーズンってあと2週間くらい?」
「そうね……オルロフ侯爵もそれくらいに王都を発つって言ってたから……そんなに余裕がないのよね……」
カタリナ様を皮切りに、これはと思う相談者に対して、オルロフ侯爵との相性を占ってみたが、芳しい結果は出ていない。振り返ってみればカタリナ様の結果は格別に良かったのだ。
「恋愛要素がなかった」だけで。
「でも相談者は増えてるんでしょう?昨日も五件あったもんね?」
「そうなんだけど……オルロフ侯爵を一方的に慕っているような人ばっかりで、ちょっと紹介できる感じじゃなかったから……」
「そういえば昨日の最後のお客さん、真っ青な顔で支払いもせずに出てったけど、あれは何だったの?」
ターニャが思い出したように言う。
「あぁ、晩餐会のときにオルロフ侯爵へのあいさつの割り込みで揉めてた方でね。その時の出来事を見てきたかのように語ったら、血相変えて出ていっただけ」
「見てきたかのようにって……ミリミリ、現場でバッチリ見てたじゃん! 悪っ!」
「ふふっ。バッチリ見てた」
スープに浸したパンを口に含みながら、イタズラっぽく笑って返す。
「あの人のお代どうしよう?」
「大丈夫。あそこまで占いを怖がった人は、また来るし、良いお得意さんになるはずよ」
「うわ〜っ!悪っ!ミリミリが悪徳占い師に見えてきたよ!」
「人聞きが悪い。マナーも守らずあのお二人に迷惑かけるほうが悪いんです」
そう言いながら次のパンにさくりとかぶりつく。香ばしくて美味しい。わざわざ買いに行った甲斐があった。
「そうかなぁ?とりっぱぐれないなら良いけど」
「そこはよろしくね。二人の目標の10億レザの足しになるように」
ターニャは「了解!」と言って力こぶを作った。
一息ついて紅茶を啜りながら、前々から気になっていた疑問を口にする。
「それにしても、なんで私がオルロフ侯爵の相談を受けているって、噂になっているのかしらね?」
私とターニャはもちろん、閣下も、口外はしないはずだ。
「あのタチアナ・ブレー令嬢が腹いせに言いふらしているんじゃない?」ターニャが推測を口にする。
「そうなのかなぁ……」
タチアナ・ブレー伯爵令嬢はオルロフ侯爵が来訪した日に、その噂を聞きつけて、閣下に引き合わせろと要求してきた女性だ。彼女が聞いた噂は一部は正しいものの、確証はないはずだし、それを言いふらすメリットも思いつかない。
「今日の予約に入ってるレラ・サヴァン嬢に聞いてみたら? オルロフ侯爵の噂話なら詳しいんじゃない?」
「あれ?レラ嬢の予約って今日だったかしら」
「今日の午後に入ってる」
サヴァン家のお屋敷はここから近いのでよく知っている。レラ・サヴァン嬢がオルロフ侯爵に並々ならぬ好意を持っていることも。タチアナ・ブレー令嬢がここに来たのも、サヴァン家のお茶会で噂話を聞いたのではと推測していた。
「他の令嬢たちと似たような感じだと困っちゃうわね……」
「タチアナ嬢のパワーアップ版だったらどうする?」
「やめてよ。あれ以上のが来たら、暴れて部屋を荒らし回る怪物くらいしか思いつかないわ」
「じゃあ、今日は怪物が来るんだ。戸締まりちゃんとしておかなきゃ」
ターニャは両手で鉤爪を作って怪物のような仕草をして私を笑わせた。




