王の秘密(2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
夜更けの王城は、静かだった。
ライディスは、資料を抱えたまま、自室へ戻る回廊を歩いていた。
燭台の灯りが、等間隔に並び、石壁に長い影を作っていた。
足音だけが、やけに大きく響いた。
「——調べすぎですよ」
声は、どこからともなく聞こえた。
ライディスは、即座に足を止めた。
腰の剣に、手をかける。
「誰だ」
答える代わりに、回廊の先、燭台の灯りが届かない暗がりに、何かが浮かび上がった。
姿は、はっきりしなかった。
輪郭が、影と同化しているようで、男なのか女なのかすら、判別できなかった。
ただ、口元だけが、薄く笑っているのが見えた。
「あなたは優秀だ」
声が言った。
「だから、困る」
「お前は何者だ」
ライディスが聞いた。
「王は、何をしている」
「知らない方が、幸せですよ」
その声には、嘲るような響きはなかった。
むしろ、淡々と、事実を告げるような口調だった。
「あなたは、正しい人だ。だから、利用しやすい」
その言葉に、ライディスの中で、何かが沸騰した。
「貴様——!」
剣を抜き、影に向かって踏み込む。
風魔法を纏わせた一撃。
それは、確かに、影の輪郭を切り裂いたはずだった。
しかし、手応えはなかった。
影は、煙のように、その場から消えていた。
「殺しに来ない、ということか」
ライディスは、剣を構えたまま、辺りを見回した。
誰の気配もなかった。
その「殺しに来ない」という事実が、何よりも、ライディスを不安にさせた。
殺意を持って向かってくる敵なら、まだ、対処の仕方がある。
だが、ただ言葉だけを残して消える存在は、もっと別の、得体の知れない何かを企んでいるとしか思えなかった。
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その数日後の深夜、ライディスは、王の私室へ続く回廊で、足を止めた。
偶然だったのか、それとも、何かに導かれたのか。
夜の見回りを兼ねて、いつもとは違う道を選んだだけだった。
だが、その先で、灯りが漏れているのが見えた。
王の私室の扉が、わずかに開いていた。
普段なら、決して近づかない場所だった。
だが、その夜、ライディスの足は、自然と、そちらへ向いていた。
扉の隙間から、声が聞こえた。
「北部の門は」
王の声だった。
「十分に活性化しました」
別の声が答えた。
あの夜、回廊で聞いた声だった。
ライディスは、息を止めた。
「次も、間もなく」
「あの方は」
王が聞いた。
「お待ちです」
その答えに、ライディスの全身から、血の気が引いた。
魔王軍。
王。
そして、第五軍と思われる、あの影。
それらが、繋がっている。
ライディスは、扉の隙間から、室内を覗いた。
燭台の灯りの下、王が、椅子に深く座っていた。
その前に、輪郭の曖昧な、黒い人影が立っていた。
「この世界は、腐っている」
王が、静かに言った。
「国家。争い。人間。魔族。すべてが、壊れている」
「あの方も、同じ考えです」
影が答えた。
「ならば、やり直せばいい」
王の声に、わずかな熱が混じった。
「世界を一つに。新しい世界を作る。その世界の——王になる」
その言葉を聞いた瞬間、ライディスは、完全に理解した。
王は、世界を守っていない。
魔王と、同じ思想を持っている。
いや——魔王に、賛同している。
長年、王に忠誠を誓ってきた自分が、信じてきたものは何だったのか。
その問いが、頭の中で、何度も繰り返された。
「ライディスは、どうだ」
王の声が、再び聞こえた。
ライディスは、思わず、身を硬くした。
「まだ、使えます」
影が答えた。
「正義があります。あれは、便利なものです」
「なら、利用しろ」
王が言った。
「邪魔になったら?」
影が聞いた。
王は、少し考えるように、沈黙した。
そして、淡々と答えた。
「消せ」
その一言が、ライディスの耳に、深く刺さった。
これまで信じてきたものすべてが、たった一言で、崩れ去る音を聞いた気がした。
ライディスは、その場に立ち尽くしていた。
動くことも、声を出すこともできなかった。
ただ、扉の隙間から漏れる灯りを、見つめていた。
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どれくらい、その場に立っていたのか、ライディス自身にも、わからなかった。
気づいた時には、自室に戻っていた。
窓の外には、雪が、静かに降り始めていた。
机の前に座り、両手を見つめる。
その手で、これまで何を守ってきたのか。
何を、正義だと信じてきたのか。
「私は……」
声が、誰もいない部屋に、小さく響いた。
「何を、守っていた」
軍務卿としての立場。
英雄としての評価。
正義という言葉。
王への忠誠。
それらすべてが、今、音を立てて崩れていくのを、ライディスは感じていた。
しかし、その崩壊の中で、一つだけ、はっきりと残るものがあった。
「止めなければならない」
ライディスは、静かに、しかし確かに、そう呟いた。
まだ、王に反逆することはできない。
証拠は、自分の耳で聞いただけのものでしかない。
公にすれば、自分自身が、反逆者として処分される側になる。
それでも、心は、すでに離れ始めていた。
窓の外、雪は、いつまでも降り続いていた。
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同じ夜、聖都エークレイア。
地下書庫に、グローワ、エルク、リア、ミレナン、シュウの五人がいた。
グローワは、封印された一つの箱を、棚の奥から取り出した。
「五十年前の、勇者Aの記録だ」
グローワが言った。
「誰にも、見せたことのないものだ」
箱に手を触れた瞬間、エルクの持つ魔導双眼鏡が、わずかに反応した。
箱の中から、淡い魔力が漏れているのが見えた。
「これ……」
エルクが、双眼鏡を覗き込みながら言った。
「まるで、誰かの——」
「残響だ」
グローワが言った。
「彼の記憶の、欠片のようなものが、ここに眠っている」
その場の全員が、その箱を見つめた。
古びた木の表面に、複雑な紋様が刻まれている。
長い時間、誰の手にも触れられず、ただ静かに保管されてきたことが、その表面の埃から伝わってきた。
「次は、私が話す」
グローワが、静かに言った。
「五十年前のことを」
「勇者が、英雄だった時代を」
エルクは、何も言わず、静かにうなずいた。
その頃、遠くレグルスでは、ライディスが、窓から王城の塔を見上げていた。
同じ空。
同じ夜。
二人は、別々の場所で、それぞれの真実に近づいていた。
まだ、互いがそのことを知る術はなかった。
だが、その夜の空だけが、二つの場所を、確かに繋いでいた。




