五十年前(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
地下書庫の空気は、冷たく、静かだった。
グローワ、エルク、リア、シュウ、ミレナンの五人は、古い封印箱を囲んで座っていた。
燭台の灯りが、箱の表面に刻まれた紋様を、淡く照らし出していた。
「話す前に、一つ、はっきりさせておく」
グローワが、静かに言った。
「私は、彼の仲間ではない」
その言葉に、エルクは少し驚いた。
「私は、観測者だった。召喚術の完成を確認する、研究者という立場だ」
グローワが続けた。
「そして——失敗した」
その一言の重さに、誰も、すぐには言葉を返せなかった。
グローワが、封印箱に手を触れる。
紋様が、淡く光り、ゆっくりと、箱の蓋が開いた。
中から漏れ出た光が、部屋の空気に溶けていく。
その光に包まれた瞬間、視界が、ゆっくりと、別の景色へ変わっていった。
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五十年前。
召喚陣の周囲には、何人ものエルフの研究者が立っていた。
若いグローワも、その中にいた。
陣の中央には、複雑な紋様が、青白い光を放っていた。
研究者たちの声が、緊張に張りつめていた。
「接続率、安定しています」
「魔力供給、問題なし」
「召喚、開始します」
光が、一際強く弾けた。
陣の中央に、人影が現れた。
黒髪の青年だった。
年齢は、二十代前半。
着ていた服は、見たこともない布地で作られた、見慣れない形をしていた。
青年は、目を開け、周囲を見渡した。
その目に、混乱はなかった。
あるいは、混乱を見せないだけの強さがあった。
「——ここはどこだ」
それが、最初の言葉だった。
驚きでも、悲鳴でもなかった。
冷静に、状況を確認する声だった。
研究者たちが、慌てて説明を始める前に、青年は、もう次の問いを発していた。
「なぜ、俺がここに呼ばれた」
「何を、すればいい」
その早さに、グローワは、思わず手元の記録板を見つめた。
適応能力。
記録できる項目すべてにおいて、これまで観測してきたどの召喚者よりも、数値が高い。
魔力反応も、精神安定度も、歴代最高の値を示していた。
「——最高傑作」
グローワは、その時、初めて、その言葉を口にした。
それが、研究者としての、純粋な第一印象だった。
だが、その印象は、すぐに、別の形を持つようになった。
召喚された直後、青年は、研究者たちの説明を、黙って聞いていた。
この世界のこと。
召喚された理由。
魔王軍という存在。
すべてを聞き終えた後、青年は、ふと、グローワの方を見た。
「お前たちも、必死なんだな」
その一言に、グローワは、戸惑った。
召喚した側を気遣う言葉を、これまでの召喚者から、聞いたことはなかった。
「お前は……怒っていないのか。突然、世界を移されて」
グローワが、思わず聞いた。
「怒る時間が、もったいない気がする」
青年は、そう答えた。
「それより、まず名前を聞いてもいいか。俺の名前は——」
そこで、青年は、ふと、言葉を止めた。
口を開いたが、何も、音にならなかった。
「どうした」
「いや……」
青年は、少し困ったように、額に手を当てた。
「自分の名前が、上手く出てこない。妙だな」
研究者たちが、慌てて記録を確認した。
召喚に伴う、一時的な記憶の混乱だろうという見立てが、その場で出された。
珍しい現象ではあったが、前例がないわけではなかった。
「では、しばらくは、Aと呼ぼう」
グローワが、そう提案した。
「召喚順位、第一位という意味だ。気に入らないなら——」
「いや、それでいい」
青年は、小さく笑った。
「悪くない。Aか」
それが、彼が、勇者Aと呼ばれるようになった、最初の経緯だった。
その名乗りの軽さに、グローワは、奇妙な印象を持った。
名前を失ったことに、ほとんど動揺していない。
あるいは、動揺を見せないだけの、強さを持っているのか。
どちらなのか、当時のグローワには、判断がつかなかった。
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勇者Aの他にも、何人かの異世界人が、同時期に召喚されていた。
剣を扱う者。
魔法を操る者。
槍を得意とする者。
癒しの力を持つ者。
人間もいれば、見慣れない種族の者もいた。
誰もが、この世界では異邦人だった。
最初、彼らは、互いを警戒していた。
言葉も、文化も、わからないことが多かった。
誰が信用できるのか、誰がそうでないのか、簡単には判断できなかった。
その中で、勇者Aだけが、誰よりも早く、周囲との距離を縮めていった。
特別な力で、皆を従わせたわけではなかった。
ただ、誰よりも先に、相手のことを知ろうとした。
剣士の若者が、過去の戦いの傷を恐れて、夜、一人で震えていた時。
勇者Aは、隣に座り、何も聞かずに、ただ並んで朝まで過ごした。
魔術師の女性が、帰れない現実に絶望して、何も食べようとしなかった時。
勇者Aは、無理に励ますことはせず、ただ、毎日、同じ時間に、隣に座り続けた。
「帰る方法は、後で考えよう」
それが、彼の口癖だった。
「まず、助けよう」
その言葉に、仲間たちは、少しずつ、心を開いていった。
その姿は、どこか、エルクに似ていた。
だが、もっと完成された、揺るがない強さがあった。
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戦争は、激しかった。
魔王軍の侵攻は、当時、今よりもさらに苛烈だった。
多くの国が、次々に飲み込まれていった。
勇者パーティは、各地の戦場を、駆け回った。
砦の防衛戦。
村を襲う魔獣の討伐。
魔族軍との激突。
ある戦いで、勇者Aたちは、陥落寸前の砦に到着した。
城壁の一角が崩れ、魔物の群れが、なだれ込もうとしていた。
逃げ場を失った兵士たちが、武器を取り落とし、後退を始めていた。
「退くな!」
勇者Aの声が、戦場に響いた。
崩れた城壁の隙間に、自ら立ち、最初の一頭を斬り倒す。
返す刃で、二頭目を仕留める。
血と土煙の中、彼の動きだけが、奇妙に静かだった。
「俺がここを塞ぐ。お前たちは、左右から叩け!」
剣士の若者が、すぐに動いた。
槍使いが、隙間を縫って横から突き込む。
魔術師の女性が、火球を放ち、群れの後方を散らす。
癒しの力を持つ者が、傷ついた兵士たちの間を駆け回り、絶え間なく光を灯す。
戦いは、半日近く続いた。
最後の一頭が倒れた時、勇者Aは、膝に手をついて、肩で息をしていた。
鎧の隙間から、血が滲んでいた。
それでも、彼は、すぐに兵士たちの方を見た。
「怪我人は」
「全員、無事です」
その報告を聞いた瞬間、勇者Aの顔から、緊張が抜けた。
代わりに浮かんだのは、心からの安堵だった。
「——よかった」
それだけ言って、彼は、その場に座り込んだ。
剣士の若者が、隣に膝をつき、笑った。
「お前、自分の傷はどうでもいいのか」
「俺の傷は、後で治る」
勇者Aが、軽く言った。
「治らない傷もあるからな」
剣士の若者は、その言葉に、何も返せなかった。
ただ、肩を叩いて、笑い返した。
戦いの後、村人たちが、彼らに食事を振る舞った。
質素な汁物と、固いパンだったが、勇者Aは、誰よりも嬉しそうに、それを食べた。
「うまいな、これ」
「勇者様、お口に合いますか」
村の老婆が、不安そうに聞いた。
「合う。最高だ」
勇者Aが、笑って答えた。
その笑顔に、老婆は、深く頭を下げた。
彼は、それを慌てて止めた。
「やめてくれ。俺たちは、ただ、助けに来ただけだ」
そういう場面が、戦いのたびに、積み重なっていった。
剣士の若者が、勇者Aの隣で剣を振るう。
魔術師の女性が、後方から、的確に支援を放つ。
槍使いが、敵陣の中央を切り開く。
癒しの力を持つ者が、誰よりも多くの命を救う。
勇者Aは、強かった。
だが、決して、無敵ではなかった。
何度も傷を負い、何度も追い詰められた。
ある戦いでは、毒を浴びて、三日間、高熱で寝込んだこともあった。
別の戦いでは、罠にかかり、片足を折って、戦線を離れたこともあった。
それでも、仲間と連携することで、状況を切り開いていった。
剣だけでは、勝てない戦いがあった。
魔法だけでも、勝てない戦いがあった。
皆で、初めて、勝てる戦いだった。
「俺たちが、帰る場所を守ろう」
それが、勇者Aの言葉だった。
帰る場所。
それが、元の世界を指すのか、それとも、今、共に過ごしているこの世界を指すのか。
仲間たちは、深くは問わなかった。
ただ、その言葉に、誇りを感じていた。
戦いを重ねるうちに、召喚者たちは、次第に、この世界を、好きになっていった。
夜営の焚き火を囲み、互いの故郷の話をすることもあった。
勇者Aは、自分の世界のことを、あまり多くは語らなかった。
ただ、時折、夜空を見上げ、何かを思い出すような顔をすることがあった。
「何を見てるんだ」
剣士の若者が、ある夜、聞いた。
「星だ」
「星なんて、どこの世界でも同じだろう」
「いや」
勇者Aが、静かに答えた。
「同じ星でも、見る場所が違えば、見え方も違う。それが、不思議だなと思って」
その言葉の意味を、剣士の若者は、深くは理解できなかった。
だが、勇者Aの横顔に、何か、寂しさのようなものが滲んでいるのを、確かに見た気がした。
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