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異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~  作者: 小城乃ひかり
第五章 忘れられた勇者

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揺らぐ影(2)

異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章

翌朝、グローワは、四人を、図書館のさらに奥にある、小さな部屋へ案内した。


これまで通ってきた書庫よりも、さらに気温が低い場所だった。

壁には、古い結界の紋様が、薄れかけた塗料で描かれていた。

そこには、古い研究記録が、棚一面に保管されていた。

紙の劣化を防ぐためか、空気は乾いていて、わずかに薬草のような匂いがした。


「これは、私自身の研究記録だ」

グローワが言った。

「百年以上前のものだ」


棚の中から、一冊の古い帳簿を取り出す。

表紙は、長い年月で硬くなった革張りで、複雑な紋様と、いくつかの名前が記されていた。


「共同研究者たちの名だ」

グローワが、その名前を、一つずつ指でなぞった。

そして、ある一点で、その指が止まった。


「——ミア」

その名に、エルクは反応した。


「それは……?」

エルクが言った。


「ルシラの、元の名だ」

グローワが、静かに言った。


シュウが、目を見開いた。

「魔王軍の幹部が、元エルフ……?」

シュウが、思わず声を上げた。


グローワは、帳簿のページを、ゆっくりと開いた。

そこには、若いエルフの女性の姿が、簡単な線画で描かれていた。

今のルシラの妖艶さとは、少し違う、もっと真面目な表情をした、研究者らしい顔立ちだった。


「百年前、共に召喚研究を行った。優秀な研究者だった。むしろ、私よりも才能があったかもしれぬ」

グローワの声に、わずかな感慨が混じった。


「彼女は、私よりも先に、召喚陣の理論を完成させていた。私が何年もかけて解けなかった式を、一晩で解いたこともある」


「すごい人だったんですね」

ミレナンが、線画を覗き込みながら言った。


「すごかった。だからこそ、皆が彼女を頼った。だが——」

グローワが、わずかに言葉を止めた。


「優秀すぎる者は、時に、立ち止まる場所を見失う」


「どういうことですか」

エルクが聞いた。


「彼女は、召喚術の限界に、誰よりも早く気づいた。異界から力を借りるという技術には、必ず代償がある。それを超えるためには、別の領域に踏み込む必要があった」


「禁術、ってことですか」

シュウが聞いた。


「そうだ」

グローワが言った。


「力を求めた。研究のためという名目で、誰も触れてはならない領域へ、踏み込んでいった。最初は、小さな実験だった。だが、少しずつ、規模が大きくなっていった」


グローワが、帳簿の別のページを開いた。

そこには、几帳面な筆跡で書かれた数式と、その後半に、明らかに筆圧の違う、乱れた書き込みがあった。


「私は止めた。だが、止まらなかった」


「グローワ様の言葉でも、止められなかったんですか」

ミレナンが、慎重に聞いた。


「止められなかった」

グローワが言った。


「私は彼女の友人であり、同時に、競争相手でもあった。だからこそ、私の言葉は、彼女には届かなかったのかもしれぬ」

その声には、初めて、はっきりとした後悔の色があった。


「彼女は、ある日、姿を消した。次に名を聞いた時には、既に、魔王軍の幹部になっていた」

グローワが、帳簿を閉じた。


「知識は、人を救う」


「だが、時に、人を壊す」


その言葉には、重い実感が込められていた。

単なる説明ではなく、グローワ自身が、長く向き合ってきた後悔のようなものが、その声には滲んでいた。


「グローワ様も、ルシラのことを、止められなかったんですか」

ミレナンが、もう一度、同じことを聞いた。


「止めようとした。だが、力及ばずだった」

グローワは、それ以上、多くを語らなかった。


そして、何かを言いかけて、止めた。


エルクは、その一瞬の沈黙に気づいた。

グローワの目が、わずかに、エルクの方を見て、それから、すぐに逸れた。


「何か、他にもあるんですか」

エルクが聞いた。


グローワは、しばらく黙っていた。


「いや」


それだけだった。

その先に、何かがあることを、エルクは確信していた。

おそらく、勇者Aに関わる何か。

ルシラと、勇者Aの間に、何らかの接点があったのではないか。

だが、グローワは、それを語る気がないようだった。

今は、まだ。


棚の奥で、何かが軋むような音がした。

古い建物が、風に揺れる音だったのかもしれない。

だが、その音に、誰も、気を留める余裕はなかった。



その日の午後、図書館に、若い司書が、ひどく動揺した様子で駆け込んできた。


司書は、本棚の間を抜けながら、何度も足をもつれさせていた。

「グローワ様……!」

その声に、エルクたちは振り返った。


司書は、息を切らしていた。

顔は青白く、両手が、わずかに震えていた。


「どうした」

グローワが聞いた。


「昨夜、書庫に……何かが、いました」

司書が、震える声で言った。


「黒い影でした。顔が、ありませんでした。でも、声だけが——」


「何と言った」

グローワが、静かに、しかし強い口調で聞いた。


「忘れろ、と。思い出すな、と」


その場の空気が、一気に凍りついた。


「それで、お前は何をした」

グローワが聞いた。


司書は、しばらく答えなかった。

唇が、何度か震えながら開いては、閉じた。

そして、ようやく、絞り出すように言った。


「私……勇者Aの資料を、燃やそうとしていました」


「何?」

エルクが声を上げた。


「気づいた時には、もう、手に火種を持っていたんです」

司書が言った。


「自分でも、なぜそんなことをしようとしたのか、わかりません。誰かに、そうしろと言われた気がして——でも、誰がそう言ったのか、それも、覚えていないんです」


ミレナンが、すぐに司書の様子を観察した。

目の動き、呼吸、肌の色。

何か、魔法的な異常がないか、慎重に確認していった。


「魔法じゃないです」

ミレナンが、結論を出した。


「少なくとも、私が知っている魔法では、こんな現象は起こりません」


リアも、司書の顔を見て、小さく頷いた。

「目に、違和感がある」


リアが言った。

「普通の混乱とは、違う」


グローワが、司書の目を、じっと見つめた。

そして、静かに言った。

「精神操作」


「精神操作?」

エルクが聞いた。


「直接、思考の一部を書き換える技術だ。記憶を消すのではない。行動を、誘導する」

グローワの顔が、これまでで最も険しくなった。


「第五軍か」


その名が、初めて口にされた。


「第五軍?」

シュウが聞いた。


「魔王軍の中でも、最も情報が少ない軍団だ。暗殺、潜入、情報操作を専門とする。戦場には、滅多に姿を現さない」


グローワが、低く言った。


「軍団長の名は——ユラギ、と聞いている」


その名前を聞いた瞬間、エルクの背筋に、冷たいものが走った。

司書は、その名前を聞いて、わずかに体を震わせた。

それは、誰かに聞いたことがある名なのか、それとも、ただ恐怖が伝染しただけなのか、判別できなかった。



夜になり、エルクは再び、宿の窓辺で魔導双眼鏡を構えた。


今夜は、何かが違っていた。

昼間の出来事の重さが、まだ全身に残っていた。


街の灯りが、いつもより心なしか頼りなく見えた。

巨樹の枝葉が、風もないのに、わずかに揺れていた。


エルクは、双眼鏡を、街の屋根の連なりへ向けた。


最初は、何も見えなかった。

だが、視線をゆっくりと動かしていくうちに——


見えた。


街の屋根の上に、人影があった。


輪郭が曖昧だった。

男にも、女にも見える、定まらない姿だった。

存在感そのものが薄く、もし双眼鏡を構えていなければ、決して気づくことはなかったはずだった。


しかし、確かに、そこにいた。


エルクは、息を止めて、その姿を見つめた。


すると、その人影が、ゆっくりと、こちらを向いた。


双眼鏡越しに、視線が合った。

そんな感覚があった。


「——見えるのか」


声が、聞こえた。

直接、耳に届いたわけではない。

だが、確かに、聞こえた。


エルクは、思わず息を呑んだ。


「その目は、厄介だな」


次の瞬間、その姿が、揺らいだ。

輪郭が崩れ、薄れ、そして、消えた。


双眼鏡の中には、わずかな魔力の痕跡だけが、残っていた。


「シュウ! リア!」

エルクが、大声で呼んだ。


二人が、すぐに駆けてきた。

だが、すでに、何の姿もなかった。


「また見たのか」

シュウが聞いた。


「今度は、はっきり見た」


エルクが言った。


「向こうも、俺を見てた」


リアが、剣の柄に手をかけたまま、周囲を見渡した。

だが、夜の街には、何の異常もないように見えた。

ただ、その静かさが、いつもよりも、ずっと重く感じられた。



聖都の外縁、巨樹の根の一つが、地表に大きく盛り上がった場所があった。


人の往来から離れた、暗い場所だった。

苔に覆われた根の上に、黒い人物が立っていた。


顔は見えなかった。

輪郭は、いまだに定まらない。

夜の闇と、その輪郭の境目が、どこにあるのかもわからなかった。

足元には、何冊もの古文書が、無造作に積まれていた。


書かれているのは、勇者A。

世界融合。

門。


それらに関する記述だった。


「まだ、残っていたか」


声には、性別を感じさせない、平坦な響きがあった。


「だから、消したのに」


その声は、誰に向けられたものでもなかった。

ただ、独り言のように、夜の空気に溶けていった。


「あの方の望みは、変わらない」


「忘れられていれば、よかった」


「だが、残響が、現れた」


人物の輪郭が、わずかに揺らいだ。

それは、笑っているのか、それとも、別の何かなのか、判別できなかった。


「次は——」


そこで、一度、言葉が止まった。


「あなただ」


声は、それだけを残して、夜の闇に溶けていった。


巨樹の根元には、誰の姿もなくなっていた。

ただ、古文書だけが、静かに積み残されていた。

風が、その紙の端を、わずかにめくり、また、そっと閉じた。


ーーー現在わかっている情報ーーー

魔王軍 第五軍

暗殺、潜入、情報操作を専門とする部隊

軍団長 ユラギ

戦場には、滅多に姿を現さない

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