揺らぐ影(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
エークレイアに来てから、数日が経った。
四人は、それぞれの時間を過ごすようになっていた。
ミレナンは、毎日のように記録庫へ通った。
朝、宿を出るとまっすぐ図書館へ向かい、日が落ちるまで、本棚の間を歩き回っていた。
リアは、街の外れにある鍛錬場で、剣を振り続けた。
土を踏む音と、刃が空気を切る音だけが、静かな朝の中に響いていた。
シュウは、街の見回りという名目で、結局は屋台を巡り、ドワーフたちとの酒の付き合いを増やしていた。
一度、見回りの報告をさせると、訪れた酒場の名前ばかりを並べた地図が出てきて、エルクは思わず呆れた。
エルクは、グローワのもとで、古文書の解読を手伝っていた。
解読、というよりも、グローワが読み解いた断片を、横で聞いているだけのことが多かった。
それでも、勇者Aという存在の輪郭が、少しずつ形を持ち始めているのを感じていた。
平穏な日々だった。
窓から差し込む光は柔らかく、図書館の高い天井に、埃の粒がゆっくりと舞っているのが見えた。
聖都の鐘が、決まった時刻に、決まった回数だけ鳴る。
その音の規則性が、エルクには、どこか心地よかった。
だが、その平穏の中に、エルクは時折、奇妙な違和感を覚えていた。
何かが、すぐ近くで、息を潜めているような感覚だった。
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「今日は、少し早く切り上げよう」
グローワが、机に並べた巻物を片付けながら言った。
「何かあったんですか」
エルクが聞いた。
グローワは、すぐには答えなかった。
窓の外、巨樹の方を見ていた。
枝葉の隙間から差し込む光が、グローワの横顔に、複雑な陰影を作っていた。
「樹の様子が、気にかかる」
グローワが言った。
「樹の様子?」
「ここ数日、魔力の流れが、微かに乱れている」
グローワが、淡々と続けた。
「世界の歪みとは、また違う種類の乱れだ。誰かが、この都市の内部にいる。そんな感覚がある」
「都市の内部に?」
「確証はない」
グローワが言った。
「だが、長く生きていれば、こういう感覚を無視してはならぬことを、学ぶものだ」
エルクは、その言葉を、それ以上深くは考えなかった。
窓の外、巨樹の枝が、夕風にゆっくりと揺れているだけで、特に変わったところはないように見えた。
だが、後になって、それが正しい予兆だったことを、思い知ることになる。
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翌日、図書館に入ると、いつもとは違う気配があった。
司書たちが、棚の間を慌ただしく行き来していた。
ミレナンが、一角に立ったまま、青ざめた顔をしていた。
「どうした」
エルクが声をかけると、ミレナンは、手元の記録簿を見せた。
「これ……昨日まで、ここにあったはずの資料が、ないんです」
「ないって、どういうことだ」
「勇者Aに関する資料です。私、ちゃんと位置を覚えてました。この棚の、三段目」
ミレナンが言った。
空いた棚の前に立ち、指先で、その場所をなぞった。
他の本は、整然と並んでいる。
その一冊だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、消えていた。
棚板にすら、本があった跡——わずかな埃の薄い帯すら、残っていなかった。
「誰かが、持ち出したんじゃないのか」
シュウが、隣の通路から顔を出して言った。
「閲覧記録には、誰の名前もないです」
ミレナンが、別の帳簿を見せた。
「閲覧する時は、必ずここに名前を書く決まりです。でも、最後にここへ来たのは、私たちだけ」
「鍵は」
リアが、鍛錬の途中だったのか、額に汗を浮かべたまま聞いた。
「壊れてません。司書の人たちも、確認しました」
そこに、グローワが姿を現した。
足音も立てず、いつの間にか、四人のすぐ後ろに立っていた。
すでに、何かを察していたような、硬い表情だった。
「他にも消えているものがある」
グローワが言った。
「確認した」
「他にも?」
エルクが聞いた。
「門に関する資料。世界融合に関する資料。召喚術の根本理論に関する資料」
グローワが、一冊ずつ、消えた資料の名前を挙げていった。
その声には、淡々としながらも、押し殺した緊張があった。
「すべて、無関係には見えぬ」
「偶然じゃ、ないってことですか」
シュウが聞いた。
「偶然とは思えぬ」
グローワの声には、初めて、明確な緊張があった。
「誰かが、計画的に、これらだけを選んで持ち去っている」
「これって——」
ミレナンが、ふと、何かを思い出したように言った。
手帳を取り出し、急いでページをめくる。
「エルナトでも、同じことがありました」
「同じこと?」
エルクが聞いた。
「先生が、調べていた資料です。勇者の伝承。召喚の記録。門の資料。どれも、いつの間にかなくなっていたんです。先生も、おかしいと言ってました」
ミレナンが言った。
エルクは、その言葉に、思い当たることがあった。
エルナトでの調査の中で、確かに、そういう話があった。
あの時は、ただの管理のずれだろうと、誰もが軽く流していた。
「それって、いつの話だ」
エルクが聞いた。
「正確な時期はわかりません。でも、先生がそれに気づいたのは、もう何十年も前のことだと言ってました」
リアも、何かを思い出していた。
剣を持ったまま、視線を一点に固定していた。
「王家の記録にも、似たことがある」
リアが、静かに言った。
「図書室にあった記録の一部が、欠けていた。誰も、それを気にしていなかった。でも、私はそれを、覚えている」
グローワが、リアの方を見た。
「王家ですら知らない歴史、ということか」
「そうかもしれない」
四人の間に、重い沈黙が落ちた。
図書館の高い窓から差し込む光が、いつの間にか、橙色に変わり始めていた。
それぞれが、別々の場所で見てきた、断片的な違和感が、今、一つの線として繋がろうとしていた。
グローワが、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「五十年間、続いている」
「五十年間?」
エルクが聞いた。
「勇者Aが姿を消した時期と、一致する」
グローワが言った。
その一言に、図書館の空気が、一段と重くなった。
「誰が?」
エルクが聞いた。
「知らぬ」
グローワが、即座に答えた。
「だが、今——ここにいる」
その言葉に、四人は揃って、辺りを見回した。
本棚の合間、渡り廊下の影、縄梯子の先。
誰の姿もなかった。
だが、確かに、何かの気配が、この場に染み込んでいるような感覚があった。
息を潜める何かが、この建物のどこかに、確かにいる。
そんな感覚だった。
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その夜、エルクは、宿の窓辺で、魔導双眼鏡を取り出した。
街の灯りが、淡く街路を照らしていた。
巨樹の枝葉が、夜風にゆっくりと揺れている。
昼間の出来事のせいか、その揺れ方が、いつもより不気味に見えた。
何のためにこれを覗いているのか、自分でも明確には説明できなかった。
ただ、グローワの言葉が、頭の中に残り続けていた。
世界の歪みとは、また違う種類の乱れ。
誰かが、この都市の内部にいる。
エルクは、双眼鏡を構え、図書館の方角へ向けた。
景色が、はっきりと近づいて見える。
建物の輪郭の向こうに、淡い魔力の流れが、いつものように見えていた。
それは、いつもなら、ただ美しいだけの光景だった。
そして、一瞬。
図書館の屋根の上に、黒い色をした魔力の塊が、確かに見えた。
他の淡い光とは違う、濁った、重い色だった。
「——あれは」
エルクが、思わず声を出した。
だが、瞬きをした次の瞬間、それは消えていた。
跡形もなく。
「どうした?」
シュウが、隣の部屋から声をかけてきた。
「いや——」
エルクは、もう一度、双眼鏡を構えた。
だが、もう何も見えなかった。
「誰かいる気がする」
エルクが言った。
シュウが、すぐに部屋から出て、外へ駆けていった。
リアも、剣を持って続いた。
しかし、図書館の周辺には、誰の姿もなかった。
夜の静寂だけが、そこにあった。
鐘の音が、一度、遠くで響いた。
「何もいないぞ」
シュウが、戻ってきて言った。
「見間違いか?」
「いや」
エルクは、双眼鏡を見つめた。
「見えた。確かに、何か——黒いものが」
「黒いもの、って」
シュウが聞いた。
「普通の魔力じゃない。あれは——」
エルクは、その先の言葉を、すぐには見つけられなかった。
ただ、確信だけがあった。
あれは、何かが、確かにそこにいた痕跡だった。
そして、それは、自分にしか見えなかったということも、確信していた。
夜風が、エルクの背を、冷たく撫でていった。




