忘れられた勇者(2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
「彼は、理想家だった」
グローワが続けた。
「世界を救おうとしていた。心から、そう望んでいた。仲間たちにも、よく言っていたそうだ。誰も切り捨てない世界を作る、と」
「仲間って、どんな人たちだったんですか」
ミレナンが、興味深そうに身を乗り出した。
「四人いた。剣士の彼。盾を持つ重戦士。弓を引く射手。そして、治癒を担う者」
「グローワ様は、その中に?」
「私は研究者だ。彼らを支援する立場だった。前線には立っていない。召喚術の管理と、後方支援。それが私の役目だった」
グローワの声に、わずかな何かが滲んだ。
誇りなのか、後悔なのか、エルクには判断できなかった。
「五人は、世界中の戦場を駆け回った。魔族の大軍を退けたこともある。崩壊しかけた砦を守り抜いたこともある。彼らの活躍は、当時、誰もが知っていた」
「英雄譚みたいですね」
「英雄譚そのものだった」
グローワが、静かに言った。
「だからこそ、誰もが彼を信じた。彼が魔王を討伐すると言えば、誰もそれを疑わなかった」
「本当に、魔王なんですか」
シュウが、誰にともなく呟いた。
「俺たちが見たのと、話がまったく違う」
「別人だ」
リアが、静かに言った。
「少なくとも、記録上は英雄です」
ミレナンが、手元の文献を見ながら言った。
「これが本当なら、世界を救った人ということになります」
グローワが、四人の発言を黙って聞いていた。
そして、静かに、短く答えた。
「少なくとも、当時は」
その一言に、含みがあった。
当時はそうだった。
だが今は、何かが違う。
その差を、グローワ自身も、まだ言葉にできていないようだった。
「魔王を討伐した後、何があったんですか」
エルクが聞いた。
グローワは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、答えを探しているというよりも、答えがないことを、確認しているような時間だった。
「分からぬ」
「分からない?」
「討伐の直後、彼らは凱旋した。世界中が祝った。だが、その後——彼は変わっていった。少しずつ、誰とも話さなくなった。仲間たちとも、距離を置くようになった」
「何があったんですか」
「分からぬ、と言っただろう」
グローワの声に、初めて、わずかな苛立ちのようなものが滲んだ。
それは、エルクたちに対するものではなく、自分自身に対するもののように聞こえた。
「私は、それを見ていた。だが、理由を、誰も彼に聞けなかった。聞く前に、彼は、いなくなった」
「いなくなった?」
「ある日、姿を消した。それ以来、誰も彼を見ていない。少なくとも、五十年間は」
図書館の高い天井から、微かな音が響いた。
誰も、それに気を取られる余裕はなかった。
グローワは、立ち上がり、四人を地下へ案内した。
石の階段を、何重にも降りていく。
階段は、降りるごとに、空気が冷たく、重くなっていった。
最奥に、さらに重い扉があった。
扉には、複雑な紋様が刻まれており、グローワが何かの言葉を唱えると、紋様が淡く光り、扉が静かに開いた。
「禁書庫だ」
中は、これまで見た図書館の本棚とは、明らかに違う空気を持っていた。
封印の札が貼られた箱。
古代文字で書かれた巻物。
召喚陣の図面と思われる、複雑な幾何学模様の板。
空気そのものが、ひどく静かで、誰かの気配が常にそこにあるような感覚があった。
「ここ、ちょっと怖いな」
シュウが、声を落として言った。
「同感です」
ミレナンも、珍しく声を小さくしていた。
「気のせいではない」
グローワが、平然と言った。
「ここには、古い力の名残が、まだ残っている」
「それ、もっと怖いんですけど」
シュウが、肩をすくめた。
グローワが、その中の一つの箱を開けた。
中には、ひどく劣化した紙の束が入っていた。
「勇者A本人が残した記録だ。彼自身の手で書かれたものは、これだけしか残っていない」
ミレナンが、震える手で紙を受け取った。
慎重に、ページを開く。
文字は、古代語と現代語が混在していた。
インクが薄れ、紙の端が崩れ、判読できない部分が多かった。
ミレナンが、読める部分を声に出していった。
「世界は、歪んでいる……門……分断……」
途切れた文章だった。
単語だけが、断片的に並んでいる。
「終わり……理解……」
ミレナンは、何度も同じ部分を読み直した。
「これだけじゃ、意味がわかりません。文脈が……繋がってない」
「私も、完全には読み解けていない」
グローワが言った。
「五十年前、彼が何を見たのか。それだけが、私にもわからない」
「グローワ様でも、わからないんですか」
ミレナンが、驚いたように聞いた。
「私は、研究者だ。だが、研究者にも、わからないことはある」
グローワが、紙の束を見つめながら言った。
「これを読み解くために、何十年も時間を使った。だが、得られたのは、断片だけだ」
エルクは、その紙の断片を見つめた。
「世界は、歪んでいる」という言葉。
それは、北部の門で聞いた思念体の言葉と、確かに重なっていた。
だが、それ以上のことは、まだ何もわからなかった。
リアが、その紙を覗き込んだ。
じっと、文字を見つめていた。
「この字、震えてる」
「何?」
エルクが聞いた。
「字が。最初の方は綺麗だ。でも、後半になるほど、震えてる」
ミレナンが、慌てて紙を見直した。
「……本当だ。気づきませんでした」
グローワも、その紙を見つめた。
長い沈黙だった。
「お前の方が、よく見ている」
グローワが、リアに向かって言った。
それ以上、何も言わなかった。
だが、その一言には、わずかな評価の色があった。
グローワの視線が、リアへ向いた。
「お前は、閉じる者だな」
リアが、わずかに目を伏せた。
「レグルス王家の血。門に関わる存在。そして、北部の門が動き始めたこの時に、ここへ来た」
「偶然ではない、ということですか」
「偶然とは思えぬ」
グローワが言った。
「門が動き始めた今、お前たちがここへ来たことにも、意味があるはずだ」
リアは、しばらく黙っていた。
それから、静かに、確かな声で言った。
「私は、門を閉じます」
グローワの目が、わずかに動いた。
「五十年前にも、同じことを言った者がいた」
その一言に、図書館の空気が、一瞬重くなったように感じられた。
「誰のことですか」
エルクが聞いた。
グローワは、すぐには答えなかった。
ただ、リアをもう一度見つめ、それから、ゆっくりと身を翻した。
「見せたいものがある」
・
・
・
案内されたのは、図書館の最奥にある、小さな部屋だった。
部屋は、これまで通ってきた場所のどこよりも静かだった。
窓が一つだけあり、そこから差し込む光が、埃の粒を、白く照らし出していた。
そこには、布で覆われた、一枚の大きな肖像画が立てられていた。
長い間、誰の目にも触れさせていなかったのだろう。布には、わずかに埃が積もっていた。
「この部屋には、滅多に人を入れない」
グローワが、静かに言った。
「お前たちが、初めてかもしれぬ」
シュウが、思わず息を呑んだ。
ミレナンも、緊張した様子で、肖像画を見つめていた。
グローワが、その布に手をかけた。
そして、長い沈黙のあと、ゆっくりと布を引き下ろした。
エルクは、息を呑んだ。
描かれていたのは、一人の青年だった。
剣を腰に差し、まっすぐに前を見据えている。
背景には、見覚えのない山々と、青い空が描かれていた。
今よりも、もっと緑の多い時代の、どこかの戦場だったのかもしれない。
顔立ちは、エルクの知るどの人物とも違っていた。当然だった。これは、五十年前の絵だ。
しかし——
その目だった。
何かを見据える、まっすぐな目。
覚悟を抱いた者の目。
そしてその奥に、わずかに見える、孤独の色。
それが、北部の門で見た、半透明の思念体の輪郭と、確かに重なった。
「これが……」
ミレナンが、震える声で言った。
「五十年前の、勇者……」
シュウは、何も言わなかった。
ただ、肖像画を見つめたまま、わずかに眉根を寄せていた。
「なんか、目が——」
シュウが、ようやく言葉を出した。
「見たことある…気がする」
リアも、何も言わずに、その肖像画を見つめていた。
その表情には、明確な驚きがあった。
エルクの中で、説明のできない感覚が広がっていった。
知らない顔だ。
だが、初めて見る顔だとは、どうしても思えなかった。
まるで、以前から、ずっと知っていた人物のような感覚だった。
「彼が、勇者Aだ」
グローワが、静かに言った。
「世界を救った英雄。そして——歴史から消された男」
「……どうして、消えたんですか」
エルクが、ようやく声を出した。
グローワは、わずかに目を伏せた。
「その答えを、私はまだ知らない」
そして、エルクの方を、もう一度見据えた。
「だが、お前が持つ残響は、彼のものだ」
「だから、お前はここへ来た」
窓の外で、巨大な白樹の枝葉が、わずかに揺れていた。
風はなかった。
それでも、葉は揺れ続けていた。
その揺れ方が、まるで、何かに応えているようにも見えた。
ミレナンが、エルクの方を見た。
何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。
シュウも、リアも、同じだった。
誰も、軽口を叩く気にはなれなかった。
グローワは、最後に、静かに言った。
「勇者Aが、何を見たのか。それを知れば、お前は、二度と同じ世界を見られなくなる」
その言葉が、図書館の静寂の中に、長く残り続けた。
部屋の外では、巨樹の葉擦れの音が、いつまでも続いていた。




