忘れられた勇者(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
グローワが、図書館の扉の方を見た。
「今日は、もう遅い」
外を見ると、確かに、高い窓から差し込む光が、橙色に変わり始めていた。
図書館に入った時には、まだ昼過ぎだったはずだ。
ミレナンが本棚を一冊一冊見て回っているうちに、いつの間にか、何時間も経っていたらしい。
「もうこんな時間……」
ミレナンが、名残惜しそうに本棚を見た。
「続きは、また明日だ」
グローワが言った。
「資料の準備もある。明日の朝、もう一度ここへ来るがいい」
「わかりました」
エルクが頷いた。
「ありがとうございます」
グローワは、それに答えず、すでに司書たちの方へ向き直っていた。
四人は、なんとなく追い払われたような気分になりながら、図書館を出た。
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外に出ると、空は赤く染まっていた。
巨大な白樹の枝葉が、夕日を受けて、黄金色に輝いていた。
「結局、何も見られなかったな」
シュウが、伸びをしながら言った。
「ミレナンが本棚から離れなかったから」
「だって、あんなにすごい本がたくさんあったら、誰でもそうなります」
ミレナンが、頬を膨らませた。
「お前、明日絶対また同じことするだろ」
「します」
「即答かよ」
リアが、小さく笑った。
四人は、宿を探しながら、街の通りを歩いた。
夕暮れの聖都は、昼間とはまた違う表情を見せていた。
通りに並ぶ街灯に、淡い光が灯り始め、白い石造りの建物が、その光を反射して、ぼんやりと輝いていた。
巨樹の枝の間からは、無数の小さな光——蛍によく似た、しかしもっと穏やかな光が、ゆっくりと舞い降りてきた。
「あれは、何だ」
シュウが、空を見上げて聞いた。
「樹精虫、というらしいです」
ミレナンが、手帳を片手に答えた。
「巨樹が眠りにつく頃に飛び立つ、と。エルナトの本にも書いてありました」
光の粒が、四人の頭上を通り過ぎていく。
それを目で追っていたリアが、ふと、足を止めた。
「綺麗だ」
短い一言だった。
だが、その声には、いつもよりわずかに柔らかい響きがあった。
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宿は、巨樹からそう遠くない場所にあった。
白い石壁に、蔦が這う、小さな宿だった。
受付には、年配のエルフの女性がいて、四人を見ると、にこやかに笑った。
「人間の旅人さんたちですね。お部屋は、二つでいいですか」
「お願いします」
エルクが言った。
部屋に荷物を置くと、四人は食堂に集まった。
丸テーブルに、それぞれが座る。
シュウが、真っ先にメニューを覗き込んだ。
「これ何だ、聞いたことない料理ばっかりだ」
「エルフの料理は、薫草を使うのが特徴らしいです」
ミレナンが言った。
「とりあえず、店の人に聞いてみよう」
リアが言った。
注文を終え、料理が来るまでの間、四人はそれぞれの一日を振り返っていた。
「いやー、それにしても」
シュウが、椅子に深く背をもたれさせた。
「ミレナンの興奮ぶり、すごかったな。あれ、何冊見たんだ」
「数えてません」
「数えてないのかよ」
「数える余裕がなかったんです。古代エルフ語の原典とか、結界理論の体系書とか、見たことのない歴史書とか……」
ミレナンの声が、また少し速くなっていく。
「あれ、もしかして写本じゃなくて、原本だったんじゃないかと思うんです。紙の質が全然違ってて——」
「わかった、わかった」
シュウが、笑いながら手を振った。
「お前がそれを語り始めたら、夜が明けるまで終わらないやつだ」
「終わりません、たぶん」
「自覚あるのか」
エルクとリアは、その様子を見て、揃って小さく笑った。
料理が運ばれてくる。
香草の香りが強い、エルフ風の煮込み料理だった。
シュウが一口食べて、驚いたように目を見開いた。
「うまい。これは、うまいぞ」
「思ったより、いけますね」
ミレナンも頷いた。
リアは黙って食べていたが、二口目で、もう一杯おかわりを頼んでいた。
「お前、無言で結構食べるな」
シュウが言った。
「美味いから」
「それだけかよ」
会話は、自然と賑やかになっていった。
誰も、深刻な話を持ち出そうとはしなかった。
今日一日、それなりに重い話を聞いた。
だからこそ、今この時間だけは、軽くいたいという気持ちが、四人それぞれの中にあったのかもしれない。
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食事を終えた後、エルクとリアは、外の空気を吸いに、宿の前のベンチに座った。
夜空には、いくつもの樹精虫の光が、まだ漂っていた。
鐘の音が、遠くで一度響いた。
「明日、何がわかるんだろうな」
エルクが、ぽつりと言った。
リアは、しばらく黙っていた。
「わからない」
「お前も、不安か」
「不安というか——」
リアが、少し考えるように言葉を選んだ。
「知りたいのに、知ったら戻れない気もする」
エルクは、それに頷いた。
グローワが言った言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
勇者Aが、何を見たのか。
それを知れば、お前は、二度と同じ世界を見られなくなる。
「でも、知らないままじゃ、前に進めない」
エルクが言った。
「それも、わかってる」
リアが、静かに答えた。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
だが、それは気まずい沈黙ではなかった。
ただ、夜の静けさを、一緒に味わっているような時間だった。
宿の窓から、シュウとミレナンの笑い声が、小さく漏れてきた。
何の話をしているのかは、わからなかった。
だが、その明るさが、二人の不安を、わずかに和らげていた。
「戻るか」
エルクが言った。
「そうだな」
二人は、立ち上がり、宿の中へ戻った。
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翌朝、四人は早くから図書館へ向かった。
朝の聖都は、昨夜の幻想的な雰囲気とは違い、澄んだ静けさに包まれていた。
巨樹の枝葉から、朝露が滴り、石畳に小さな水音を立てていた。
「今日こそ、ちゃんと進めような」
シュウが言った。
「私もそう思ってます。今日はちゃんと、目的のために本を見ます」
ミレナンが、決意したように言った。
「目的のために、な」
シュウが、疑わしそうに言った。
「目に入ったら、また興奮するんじゃないのか」
「それは、その時考えます」
「もう答え出てるじゃねえか」
四人は、笑いながら、図書館の扉をくぐった。
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朝の図書館には、昨日とは違う緊張感があった。
グローワは、すでに机の前に座っていた。
机の上には、新たな文献が積まれている。
四人が席につくと、グローワはゆっくりと顔を上げた。
「よく眠れたか」
意外な問いだった。
研究者としての顔の奥に、わずかな配慮が見えた気がした。
「ばっちりです」
シュウが、元気よく答えた。
「飯も美味かったし、宿も良かったし」
「それなら良い」
グローワは、それ以上、何も聞かなかった。
代わりに、昨日の続きを語り始めた。
「我々が呼び出した、最高傑作だった」
その一言から、続きが始まった。
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「最高傑作、というのは」
シュウが、慎重に言葉を選んだ。
「具体的には、どういう人だったんですか」
グローワは、しばらく考えるように目を細めた。
「彼が召喚された日のことを、まだ覚えている」
その声に、わずかに違う響きが混じった。
事実を述べる声とは、少し違う。
記憶を、辿っている声だった。
「召喚陣の中央に、彼は立っていた。最初の言葉は、驚きでも、混乱でもなかった」
「何て言ったんですか」
ミレナンが、思わず聞いた。
「『ここはどこだ』。それだけだった」
「冷静ですね」
「冷静すぎるほどだった。状況を確認し、すぐに次の問いを発した。なぜ呼ばれたのか。何をすべきなのか。誰も、彼にそこまで早く理解してほしいとは思っていなかった」
グローワは、そこで、わずかに目を細めた。
「剣の腕は、歴代のどの勇者よりも優れていた。判断力も、精神力も、同様だった。だが、それだけではない」
「強いだけじゃない、ってことですか」
「強さだけならば、いくらでもいた」
グローワが続けた。
「彼は、責任感が強かった。仲間を、決して見捨てなかった。ある時、戦線が崩れて、撤退すべき状況になった。誰もが、置いていくべきだと判断した負傷者を、彼一人で背負って戻ってきた」
「それって、無茶しすぎじゃないですか」
「無茶だった。だが、彼はそれを、毎回やった」
「すごいな……」
シュウが、感心したように呟いた。
「魔族であろうと、人間であろうと、彼は区別しなかった。捕らえた魔族の兵士に手当てを施し、解放したこともある。当時の人類軍からは、随分、批判されたものだ」
「魔族にも、優しかった?」
リアが、初めて口を開いた。
「優しかった、というよりも——」
グローワが、わずかに言葉を選んだ。
「公平であろうとしていた。彼にとっては、敵も味方も、最終的には同じ世界の住人だった。そういう考え方をする者だった」
その語りを聞きながら、エルクの中で、何かが噛み合わなくなっていった。
北部の門で出会った思念体。
静かな確信。
最小限の言葉。
悲しみを含んだ口調。
「世界を終わらせる。そして始める」と語った、あの存在。
優しさも、責任感も、理想も、そこには見えなかった。
あるいは、見えなかったのではなく、別の何かに変わってしまっていたのかもしれない。




