門と魔王 (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第四章
門が完全に開いていた。
裂け目が、もう裂け目という大きさではなかった。
空間そのものが裂けていた。空が、その裂け目を中心に黒く染まっていった。
雲ではなかった。空そのものの色が変わっていた。
魔力の嵐が吹いていた。
風ではなかった。魔力が可視化された嵐だった。
紫と黒が混ざった粒子が、渦を巻いて門の周囲を回っていた。
異界獣が出てきていた。
形の不安定な存在ではなかった。もっと大きかった。もっと安定していた。輪郭がはっきりしていた。でも、この世界の生物のどれにも似ていなかった。
誰も止められなかった。
ヴァルガンの護衛兵が一体に向かった。剣が当たった。でも刃が通らなかった。存在そのものの密度が違っていた。
門の裂け目から向こう側が見えていた。
でも見えている向こう側が、この世界とは違った。色が違った。光の質が違った。
エルクは門の前に立っていた。
《残響》が動いていた。
制御していなかった。
溢れていた。
無数の声が来ていた。勇者の声が来ていた。古い記憶が来ていた。
この門と繋がった全ての記録が流れ込んでいた。
「エルク」リアが言った。
「大丈夫。でも多い」エルクが言った。
「抑えられるか」
「やる」
門の向こうに、霧があった。
霧が動いていた。
バルゼディスが立ち尽くしていた。
杖を構えていたが、動かなかった。
「これは門ではない」
バルゼディスが言った。
声が震えていた。
「世界の傷そのものだ」
エルクはバルゼディスを見た。老賢者が、明らかに動揺していた。
レイオンが言った。「どういうことだ」
「門という言葉が適切ではなかった」バルゼディスが言った。
「これは——世界と世界の間にある、傷だ。門は、その傷に付けられた名前にすぎない」
「今さらそれを言うのか」
「今わかったことだ」バルゼディスが言った。
「観測していた数値が、限界を超えた。これ以上は、私の知識でも説明がつかない」
ノクトが動いた。
剣を抜いた。
今までと違う動きだった。
ノクトは魔法で戦っていた。剣を抜く必要がなかった。でも今は、剣を抜いていた。手が震えていた。
「お前が恐れているのか」リアが言った。驚いていた。
「黙れ」ノクトが言った。「お前たちは知らない」
震えていた。手が震えていた。
「何を知らない」エルクが言った。
ノクトは答えなかった。
門を見ていた。
その時、異界獣たちが動きを止めた。
戦っていた形の不安定な存在たちが、全部止まった。
ノクトが止まった。
バルゼディスが止まった。
ライディスが止まった。
ルシラが口を閉じた。
全員が同じ方向を見ていた。
裂け目から、光が来た。
今までの光と違った。
形を持っていた。
一人の輪郭があった。
歩いてきた。
「まさか…あれは……魔王…か…?」
レイオンが言った。
小さい声だった。
黒い外套だった。
傷だらけだった。
鎧が古かった。あちこちが割れていた。修繕した跡があった。でも修繕しきれていなかった。
傷だらけの剣を腰に差していた。
白い髪だった。
長くはなかった。短く切られていた。
顔に傷があった。
目が静かだった。
怒っていなかった。笑っていなかった。ただ、静かだった。
人の形をしていた。
でも——肉体ではなかった。
輪郭が安定していなかった。半透明だった。光が向こう側まで透けていた。歩く動作のたびに、輪郭が少しぶれた。
記憶だった。
思念だった。
魂と呼んでいいものだった。
肉体を持つ存在ではなかった。
ルシラも止まった。
浮遊円盤の上から、その肉体のない思念を見ていた。研究者の顔をしていたルシラの顔が変わっていた。
空気が変わった。
重くなった。
圧迫感があった。
威圧ではなかった。
別の何かだった。
存在の重さだった。
時間の重さだった。
ノクトが震えていた。
「来るな」
小さい声だった。
「それだけは来るな」
「誰がだ」エルクが言った。
ノクトがエルクを見た。
一瞬だけ見た。
「あれは魔王ではない」ノクトが言った。
「魔王ではない、とは」
「あの方の——」
ノクトが言葉を止めた。
続きが出なかった。
「あの方の真実だ」
それだけだった。
意味がわからなかった。
エルクもリアもレイオンも、誰も理解できなかった。
でも、ノクトの表情が全部を物語っていた。
理解できないことが、すでに恐ろしかった。
その思念が、こちら側に立った。
威圧していなかった。
敵意がなかった。
それなのに——誰も動けなかった。
ライディスが膝をついた。
レグルスの軍務卿が、戦場で一度も膝をつかなかった男が、片膝を地面についた。
「ライディス」エルクが言った。
ライディスが答えなかった。
立てなかった。
レイオンが震えていた。
剣を握ったまま、震えていた。動かなかった。動けなかった。
リアが息を詰めていた。
大剣を構えようとした。でも構えられなかった。腕が動かなかった。
ノクトが跪いていた。
剣を持ったまま、地面に膝をついていた。
忠誠ではなかった。
恐怖だった。
エルクだけが、かろうじて立っていた。
《残響》が痛かった。頭の中で何かが警告していた。逃げろ、と言っていた。
でも立っていた。
立たなければならない、という感覚があった。




