戦士王 (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第四章
夜明け前だった。
霧が出ていた。
北部平原に、霧が低く広がっていた。地面の冷たさと空気の温度差が霧を作っていた。その霧の向こうに、黒い軍勢がいた。旗が見えた。燃える旗が霧を透かして見えた。
エルクは整列した兵士たちの中にいた。
左右を見た。
ヴァルガンの兵士たちがいた。装備は重かった。剣を持つ者、槍を持つ者、弓を持つ者が並んでいた。顔が見えた。若い者がいた。白髪の者がいた。全員が前を向いていた。でも全員の体に、微かな震えがあった。
恐怖だった。
戦争を知っている者の恐怖だった。
霧の向こうに何があるかわかっているから震えていた。
その震えが、列全体に伝わっていた。
「怖いな」
声がした。
振り返った。
ガルゴン王がいた。
いつの間にか前線に来ていた。王座から遠く離れた、最前線に来ていた。傷だらけの鎧を着ていた。豪華な装飾がなかった。金細工も宝石もなかった。ただ分厚い鉄の鎧だった。何度も修繕した跡があった。何十年も使ってきた鎧だった。
右手に戦斧を持っていた。
「怖いか」ガルゴン王が兵士たちに言った。
誰も答えなかった。
答えられなかった。
「余も怖い」
ガルゴン王が言った。
一瞬、戦場全体が静かになった。
兵士たちが顔を上げた。
王が怖い、と言った。
軍のまとめ役が怖いと言った。勝ち続けてきた王が怖いと言った。その言葉が、静かに列を走った。
ガルゴン王が笑った。
「だから余が先に行く」
歓声が来た。
一人が叫んだ。隣が叫んだ。連鎖した。震えていた兵士たちが、一斉に前を向いた。
エルクはその光景を見ていた。
「余が先に行く」
それだけで変わった。
王が先にいる。ならついていける。それだけで、戦場の空気が変わった。
「これが王か」エルクが呟いた。
リアが隣にいた。「そうだ」
「見たことがあるか、こういう王を」
リアが少し間を置いた。「ない。レグルスには、ああいう王はいなかった」
それ以上は言わなかった。
戦鐘が鳴った。
霧の向こうで、魔王軍が動いた。
地面が揺れた。
走る音がした。
霧が晴れた。
来た。
先頭が異形騎士だった。赤黒い甲冑を着た騎士が魔獣に乗って突撃してきた。後ろに魔族の歩兵が続いた。左右に魔狼が走った。上空に飛行型が現れた。
「弓兵、撃て」指揮官が叫んだ。
矢が飛んだ。
異形騎士に当たった。弾かれた。止まらなかった。
「槍を前へ」
槍が構えられた。
異形騎士が来た。槍が刺さった。一体が止まった。でも別の一体が横から来た。槍使いが吹き飛んだ。
戦線が揺れた。
左翼が押された。右翼が持ちこたえた。中央が揉めた。
押されていた。
「陛下」伝令が走った。「左翼が——」
そこへ、戦場を揺らす音がした。
一人が動いていた。
ガルゴン王だった。
止める間もなかった。
戦列を抜けていた。一人で抜けていた。
「陛下」指揮官が叫んだ。「お一人では——」
止まらなかった。
ガルゴン王が戦斧を振った。
異形騎士の一体が吹き飛んだ。
また振った。
もう一体が吹き飛んだ。
止まらなかった。前に進みながら振り続けた。三体目が吹き飛んだ。四体目が迫った。戦斧を縦に振った。四体目が割れた。五体目が横から来た。戦斧の柄で受けた。そのまま押した。五体目が地面に叩きつけられた。
「王に続け」
誰かが叫んだ。
一人が動いた。また一人が動いた。
ヴァルガン軍が王の後ろについた。押されていた戦線が止まった。止まった後、押し返した。
異形騎士が後退した。
「すごい」レイオンが戦場を見ながら言った。
「あれが親父か」レイオンが続けた。驚いていた。知っていたはずなのに、改めて驚いていた。
「行くぞ」リアが言った。「別戦線が動いた」
右翼の戦線に、魔族の歩兵部隊が来ていた。
エルクたちの担当区域だった。
最初に来たのは魔族の歩兵ではなかった。
上空だった。
飛行型の魔族が十体以上、高度を下げながら来ていた。翼が黒かった。爪が長かった。
急降下しながら兵士たちの頭上を狙っていた。
「上だ」エルクが叫んだ。
弓兵が上を向いた。矢を射た。一体が落ちた。でも速かった。残りが散った。
散りながら降下してきた。別々の角度から来た。まとめて対処できなかった。
「散れ」リアが叫んだ。
兵士たちが動いた。
飛行型が地面に降り立った。爪が石畳を引っ掻いた。音がした。近くにいたヴァルガン兵が一人、爪で薙がれた。鎧が裂けた。吹き飛んだ。
リアが飛行型の一体に向かった。大剣を振った。翼の付け根を断った。飛行型が地面に落ちた。また一体が来た。リアが受けた。押した。弾いた。追撃した。
「エルク、後ろ」
《残響》が走った。
後ろから来ていた。一体が低空飛行のまま接近していた。速かった。
エルクが右へ跳んだ。爪が肩口を掠めた。鎧が削れた。
短剣を抜いた。着地した飛行型の目を狙った。当たった。飛行型が鳴いた。リアが横から来て胴を断った。
「数が多い」エルクが言った。
「わかってる」
その時、地面側から魔族歩兵が来た。
上から飛行型。正面から歩兵。二方向同時だった。
兵士たちが対処しきれなかった。
左翼の一角が崩れた。魔族歩兵が突破した。後方へ向かって走り始めた。
「突破された」誰かが叫んだ。
「右翼後方、対処できる部隊は」エルクが叫んだ。
返答がなかった。
全員が手いっぱいだった。
その時、右翼の後方から別の声が来た。
「押さえる」
レグルスの軍服だった。
ライディスの部隊だった。
魔導兵が十人、横列を作っていた。杖を構えていた。
「撃て」
ライディスが言った。
風魔法が走った。
突破した魔族歩兵の列に、横から風の刃が入った。一撃で三体が吹き飛んだ。残りが止まった。魔導兵がさらに撃った。また吹き飛んだ。
突破が止まった。
「今のうちに戻せ」ライディスが兵士たちへ言った。感情がなかった。命令だけだった。
「崩れた部分を埋めろ」
ヴァルガン兵が動いた。崩れた箇所を埋めた。
エルクはその光景を見た。
ライディスが援護していた。
リアとエルクの後方を、ライディスが抑えていた。
リアも見ていた。何も言わなかった。でも前を向いた。
「助かった」エルクが言った。ライディスへ向けた。
「礼はいらない」ライディスが言った。「同じ方向を向いているだけだ」
飛行型がまだいた。
「エルク」ライディスが言った。「上に三体残っている。右、中央、左の順で来る。右から先に対処しろ」
エルクが右を向いた。飛行型が来た。リアが大剣を振り上げた。当たった。落ちた。
「中央」
リアが向き直った。来た。受けた。押した。
「左」
今度はエルクが動いた。短剣を投げた。目に当たった。落ちた。リアが追撃した。
飛行型が消えた。
「連携が取れてきた」ライディスが言った。感情はなかった。でも事実を確認していた。
「お前のおかげだ」エルクが言った。
ライディスは答えなかった。
すでに別の方向を見ていた。




