賢者の弟子
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
門騒動から数日が経った。
エルナトは、少しずつ元に戻っていた。
崩れた壁が修復されていた。消えていた魔導灯が新しくなっていた。
広場の光の噴水が、今日も青白い粒を上へ向かって吐き出していた。
子供たちが笑いながらその周りを走っていた。
街は生きていた。
騒動があっても、街は生きていた。
エルクはそれを見ながら、宿の前で荷物の最終確認をしていた。
剣を鞘から抜いた。刃を確認した。傷はなかった。油を薄く引いた。鞘に戻した。
シュウが荷物袋を担いで宿から出てきた。
「重い」と言いながら、特に困った様子がなかった。
リアがすでに外に出ていた。地図を広げていた。
エルナトから北への道筋を指でなぞっていた。
「北道は二本ある」リアが言った。
「山越えと、迂回路だ。山越えは速いが、この季節は雪が残っている」
「どっちにする」シュウが聞いた。
「山越えだ。急がなければならない」
「雪か」シュウが空を見た。
エルクは剣を腰に戻した。
その時、足音が来た。
石畳を歩く、軽い足音だった。
聞き覚えのある足音だった。
ミレナンだった。
いつものローブだった。眼鏡をかけていた。荷物を持っていなかった。
大きな本も抱えていなかった。手ぶらで来ていた。
顔が、少し違った。
普段の天然な顔ではなかった。かといって暗い顔でもなかった。何かを決めてきた顔だった。
「忘れ物か」シュウが笑いながら言った。
ミレナンが首を振った。
「違います」
少し間があった。
石畳に目を落として、すぐに顔を上げた。
「私は行きません」
空気が止まった。
シュウが荷物を担いだまま固まった。リアが地図から目を上げた。エルクは剣から手を離した。
誰も何も言わなかった。
ミレナンが続けた。
「今の私じゃ足手まといです。皆さんはこれからヴァルガンへ行く。戦士の国です。魔王軍と直接ぶつかる可能性がある。私が一緒にいたら——守る側の人間が増えるだけです」
リアが口を開きかけた。
ミレナンが首を振った。
「大丈夫です。本当のことですから」
少し笑った。
寂しそうな笑顔だった。でも泣いていなかった。泣くつもりがない顔だった。
「たくさん助けてもらいました。守ってもらいました。エルクさんの指示がなければ魔法も当たらなかったし、シュウさんがいなければ何度か転んだまま起きられなかったし、リアさんが盾になってくれた場面は数えきれないくらいあります」
ミレナンが眼鏡を直した。
「それは全部、本当に嬉しかったです。でも——それだけじゃ、だめなんです」
エルクはミレナンを見た。
何も言わなかった。
「だから勉強します。もっと強くなります。先生のお手伝いをしながら、ちゃんと賢者になります。古代語を全部読めるようになります。遺跡の解析ができるようになります。戦えるようになります。そうしてから——また皆さんに会いに行きます」
言い切った。
声が震えていなかった。
「ほう」
声がした。
アルテフェインが歩いてきていた。白いローブだった。杖を持っていた。
朝の光の中を、ゆっくりと歩いてきた。
「勝手に弟子を辞めるつもりかと思ったぞ」
「辞めません」
ミレナンが即答した。
「残ります。勉強します。絶対に辞めません」
アルテフェインが少し目を細めた。感情が出ない顔だった。でも——何かがあった。
「そうか」
それだけだった。
シュウが笑い始めた。
「急に来て急に決意表明して、先生にも即答して」
「笑いごとじゃないです」ミレナンが言った。
「笑っていい場面だ」
ミレナンが少し口をへの字にした。でも、笑っていた。
出発の時間になった。
四人が城門の前に立った。
ミレナンだけが、こちら側に立っていた。
見送る側だった。
少し沈黙があった。
誰も最初の言葉を出さなかった。
シュウが荷物を背負い直した。「また会おう」
「はい」
「その頃には俺より強くなってるか」
ミレナンが少し考えた。
「それは無理です」
「また即答かよ」
「今は、という意味です」ミレナンが言った。「いつかは——わかりません」
「じゃあ期待しておく」
シュウが歩き出した。
リアがミレナンの前に来た。
何も言わなかった。
少しの間、ミレナンを見た。
それから、ミレナンの頭を一度だけ軽く叩いた。
ミレナンが目を丸くした。
リアはそのまま歩き出した。振り返らなかった。
ミレナンが頭を叩かれた場所を手で触れた。
少し赤くなっていた。
照れているのか、泣きそうなのか、自分でもわからない顔をしていた。
エルクが最後に残った。
ミレナンがエルクを見た。
「エルクさん」
「うん」
「帰る場所を見つけてください」
静かな言葉だった。
押しつけではなかった。
ただ——願っていた。
エルクは少し考えた。
「そっちもな」
ミレナンが首を傾けた。「私は帰る場所があります。エルナトが帰る場所です」
「そうじゃない」エルクが言った。「賢者になるんだろ。なら自分の場所を見つけろ。誰かの弟子じゃなくて、お前自身の場所を」
ミレナンが少し目を見開いた。
眼鏡の奥の目が、動いた。
何かを考えていた。
それから——笑った。
今までで一番自然な笑顔だった。
慌てていなかった。照れていなかった。
ただ、笑っていた。
「はい」
エルクが歩き出した。
城門を抜けた。
三人が並んで歩いていた。
北への道が続いていた。
ミレナンは見送った。
三人の背中が小さくなっていった。
シュウが一度だけ振り返った。手を上げた。
ミレナンも手を上げた。
また前を向いた。
歩き続けた。
小さくなった。
もっと小さくなった。
道が曲がった。
消えた。
ミレナンはしばらく、三人が消えた方向を見ていた。
風が来た。
エルナトの朝の風だった。魔導灯の光と石畳の匂いがした。知っている匂いだった。
振り返った。
がいた。
「寂しいか」
アルテフェインが言った。
ミレナンは少し考えた。
正直に答えた。
「少しだけ」
アルテフェインが杖をついた。
「なら勉強だ」
「それで紛れますか」
「紛れない」アルテフェインが言った。
「寂しさは知識では埋まらん。だが——暇は埋まる」
ミレナンが少し笑った。
「先生、それ絶対適当ですよね」
「適当ではない。経験から言っている」
「先生にも寂しかったことがあるんですか」
アルテフェインが少し間を置いた。
「ある」
それだけだった。
それ以上言わなかった。
ミレナンは聞かなかった。
いつか話してくれる気がした。
二人で塔の方へ歩いた。
石畳を歩いた。
魔導灯が並んでいた。広場の噴水が光を上げていた。商店が開き始めていた。エルナトの朝が、普通に動いていた。
ミレナンは空を見た。
エルナトの空は晴れていた。
青かった。
でも北の方だけ、少し雲がかかっていた。
ヴァルガンの方向だった。
あの雲の向こうに、三人がいる。
これから進んでいく。
門が眠っている。
魔王が動いている。
ライディスが動いている。
ノクトも動いている。
全部が、あの雲の向こうで動いている。
ミレナンは視線を前に戻した。
塔が見えた。
白い塔だった。頂上の文様が朝の光を受けて薄く光っていた。
あそこで勉強する。
古代語を読む。
遺跡の記録を解析する。
門の研究を続ける。
強くなる。
本当に役に立てるようになってから、また会いに行く。
「先生」ミレナンが言った。
「何だ」
「ありがとうございます」
アルテフェインが少し止まった。
「何に対しての礼だ」
「弟子にしてくれたことに対してです」ミレナンが言った。「今更ですけど」
アルテフェインはしばらく黙っていた。
それから、また歩き始めた。
「礼は一人前になってから言え」
「その時もまた言います」
「くどい」
「二回分ありますから」
アルテフェインが何も言わなかった。
でも——歩くペースが、少しだけ緩やかになった。
ミレナンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
並んで歩いた。
師と弟子で、並んで歩いた。
・
・
・
北へ向かう道は、エルナトを出てすぐに森に入った。
三人は無言で歩いていた。
山が見えた。
雪が残っていた。
風が少し冷たかった。
シュウが言った。「ミレナンがいないと静かだな」
「静かだな」リアが言った。
エルクは前を向いたまま言った。「また会える」
シュウが少し笑った。
三人が歩き続けた。
森が深くなった。
鳥の声がした。
木々の間から、北の空が見えた。
雲がかかっていた。
その向こうに、ヴァルガンがあった。
門が眠っていた。
何かが待っていた。
エルクは歩きながら、「帰る場所を見つけてください」というミレナンの言葉を思い出した。
帰る場所。
まだわからなかった。
でも——探すためには、進むしかなかった。
知らないまま選べない。
知るために、進む。
足が前に出た。
また前に出た。
三人の足音が、森の中に続いていった。
第三章「賢者の国」 完結
第四章へ物語は続く。




