賢者の国 (2)
数日後、朝、調査隊が動いていた。
エルナト北東部。禁書森林を抜けた先。エルナト第二の門のある遺跡。
前回来た時と、空気が違った。
森の入り口から既に違った。木が静かすぎた。鳥の声がなかった。虫の音もなかった。葉が風で揺れていなかった。風がないわけではなかった。でも葉が動かなかった。
「嫌な感じがするな」シュウが小声で言った。
「残響が溢れている」エルクが言った。「遺跡から漏れてきている」
「今から入るのか」
「入る」
森を歩いた。
足元に、うっすらと光が見えた。地面に染み込んでいた。遺跡の方向から流れてきていた。青白い光だった。
エルクの頭の中で、声が来ていた。
一つではなかった。
重なっていた。
世界の声だった。
この世界の声だけでなかった。別の世界の声が混ざっていた。遠い世界の声が混ざっていた。言語が違う声が混ざっていた。
「開け」
「開け」
「開け」
それだけが、共通していた。
どの世界の声も、同じことを言っていた。
エルクは流した。
受け取らなかった。選んだ。
流しながら、歩き続けた。
遺跡に入った。
中央部へ向かった。
前回来た通路を歩いた。壁の文字が光っていた。前回は光っていなかった。今は光っていた。文字が呼吸するように明滅していた。
中央広間に出た。
第二の門があった。
前回より明らかに大きく光っていた。輪の回転が速くなっていた。裂け目が、前回より広くなっていた。向こう側が見えた。霧がかかっていたが、前回より少し晴れていた。
「誰かいる」
リアが言った。
暗がりからだった。
中央広間の奥、柱の影から人影が出てきた。
黒い外套だった。
「もう驚かねぇぞ」シュウが言った。
「それは残念だ」ノクトが言った。
軽口だった。ノクトが軽口を言ったことが、エルクには少し意外だった。
だがノクトの顔を見て、意外さが消えた。
焦っていた。
表情には出ていなかった。でも——余裕がなかった。いつもの静けさではなかった。何かが、ノクトを急かしていた。
「何をしに来た」リアが大剣に手をかけながら言った。
「止めに来た」
沈黙があった。
シュウが口を開いた。「止める? お前が?」
「そうだ」
「でも、お前は門を開きたかったんじゃないのか」
ノクトが少し間を置いた。「まだ開く時ではない」
「どういう意味だ」エルクが言った。
ノクトは答えなかった。
その代わり、門を見た。
裂け目を見た。
向こう側を見た。
「向こうにいるのは、魔王軍ではない、魔族てはない」ノクトが静かに言った。
「私にも、制御できない何かだ」
その瞬間、魔導通信が来た。
護衛賢者の一人が持っていた小型の結晶が光った。声が出た。
「緊急連絡。ライディス率いるレグルス軍が国境を突破。エルナト本国へ向けて進軍中。賢者都市への侵攻の可能性」
アルテフェインの顔が変わった。
エルクは初めて見た。
アルテフェインが怒っていた。
静かな怒りではなかった。
珍しく、表面まで出ていた。
「あの男……」
アルテフェインが言った。それ以上言わなかった。言葉を押さえた。
「先生」ミレナンが言った。
「問題ない」アルテフェインが言った。声を戻した。
「賢者議会に連絡する。防衛体制を取らせる」
護衛賢者が動いた。
エルクはアルテフェインを見た。
問題ない、と言ったが——その目は問題ないとは言っていなかった。
「ノクト」エルクが言った。「ライディスが来る。それでも止めるのか」
ノクトが振り返った。「止めなければならない理由が増えた、ということだ」
「わかった」
「わかったのか」
「詳細はわからない。でも——今お前が敵ではないことはわかった、それだけでいい」エルクが言った。
リアが大剣から手を離した。完全にではなかった。でも、構えを解いた。
門が、鳴いた。
音ではなかった。
光だった。
突然、光が三倍になった。
地面が揺れた。
遺跡の天井から石が落ちた。
「散れ」リアが叫んだ。
全員が動いた。
エルクの《残響》が爆発した。
制御していたものが、崩れた。
流しきれなかった。
声が来た。全部来た。歴代勇者の声が来た。並行世界の声が来た。この世界の死者の声が来た。門そのものの声が来た。
「開け」
「開け」
「開け」
頭が割れそうだった。
「向こう側から押している」アルテフェインが叫んだ。
「誰かが——向こう側から開こうとしている」
全員が凍った。
向こう側から。
今まで考えていなかった方向だった。
エルクはその言葉を受け取りながら、《残響》を押さえた。流した。選んだ。
押さえた。
収まった。
息をついた。
門の光が強いままだった。
向こう側の霧が、さらに晴れていた。
影があった。
巨大な影だった。
形がなかった。いや——形があるのかもしれなかったが、大きすぎてわからなかった。
確かにいた。
向こう側に、何かがいた。
そしてそれは——こちらを見ていた。
轟音が来た。
遺跡の外からだった。
護衛賢者が走り込んできた。
「レグルス軍です。遺跡の南方に展開しています。距離——」
「見える」リアが言った。
遺跡の崩れた壁の隙間から、外が見えた。
山の斜面に、軍勢がいた。
数が多かった。
白銀の旗が風に揺れていた。
魔導砲が並んでいた。
騎馬が並んでいた。
精鋭だった。
これまでのレグルス軍とは規模が違った。本気で来ていた。
その中央に、一騎だった。
白銀の法衣が、夕暮れの光を受けて光っていた。
赤い法冠が見えた。
馬の上に、ライディスがいた。
動いていなかった。
こちらを見ていた。
リアが壁の隙間から出た。
遺跡の外へ出た。
ライディスと向き合った。
距離があった。でも——二人の視線が繋がった。
短い沈黙があった。
ライディスが口を開いた。
「帰って来い」
命令ではなかった。
今までのライディスの声ではなかった。
個人的な声だった。
リアが少し動いた。
一瞬だけ、何かが揺れた。
でも止まった。
「断る」
静かに言った。
ライディスが目を細めた。何かが動いた顔だった。感情と呼べるものが、かすかにあった。
「そうか」
それだけだった。
手を上げた。
軍勢が動き始めた。
三つの勢力が、遺跡を中心に集まっていた。
レグルス軍が南から。
ノクトが遺跡の中に。
そしてエルクたちが、その中心に。
門が光り続けていた。
エルクは門を見た。
《残響》が鳴っていた。
門が呼んでいた。
向こう側の影が、近づいていた。
霧が晴れていた。
形が見えてきた。
まだはっきりしなかった。
でも——確実に、近づいていた。
リアが戻ってきた。
エルクの隣に立った。
「来た」
「ああ」
「どうする」
エルクは門を見た。リアを見た。
「俺にはわからない」
正直に言った。
リアが門を見た。
その瞳が、少し光った。
銀色の光だった。
王家の血が、反応していた。
「わからなくていい」リアが言った。「今は動くだけだ」
その瞬間。
《残響》が、エルクの意志と関係なく、大きく広がった。
リアの王家の力と、共鳴した。
二つの力が、同時に動いた。
門の光が、天へ向かって伸びた。
柱のように、天へ向かった。
夕暮れの空に、青白い光の柱が立った。
アルテフェインが呟いた。
「最悪だ」
全員がアルテフェインを見た。
「開く者と閉じる者が揃い——門自身の意志が重なった」
「それが、なぜ最悪なんだ」エルクが言った。
アルテフェインが門を見た。
光の柱が、夕暮れの空を貫いていた。
「二人が揃っているだけなら、制御できたかもしれない」アルテフェインが仮説を続けた。
「閉じる力が開く力を抑え、二つの力が平衡状態となる。だが——門が自ら開こうとしている。その意志が加わった今、三つの力が同じ方向へ向く」
「三つ?」
「残響が門を開こうとする。王家の血が門を閉じようとする。だが門自身が開きたがっている以上——閉じる力は門の意志に引っ張られる。抑えるはずの力が、逆に加速させる側に回りかねない」
リアが自分の手を見た。
銀色の光がまだ揺れていた。
「私の力が、逆に働くということか」
「仮説だ。可能性はある」アルテフェインが言った。「門が意志を持ち、開くことを望んでいる状態で、接触すれば——どちらに転ぶかわからない」
誰も口を開かなかった。
門が鳴いた。
「開け」
「開け」
「開け」
リアが言った。
「私たちにも意思はある、私たちの意思が四つめの力だ」
「開け」
「開け」
「開け」
空が割れた。




