世界の傷跡 (2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
翻訳が進んだ。
部屋の奥まで読み進めた。壁の文字が増えた。
内容が深くなった。ミレナンの手が速くなった。手帳のページが埋まっていった。
護衛賢者が新しい羊皮紙を出した。ミレナンがそこにも書いた。
「読めました」ミレナンが言った。
声が、少し違った。さっきまでの興奮ではなかった。
全員が集まった。
「読みます」ミレナンが言った。
「長いですが、重要な部分だけ」
「全部読め」アルテフェインが言った。
「……はい」
ミレナンが読み始めた。
「この世界は、一つではない。我々は元来、異なる世界の住人であった。門が開いた。二つの世界が融合した。我々はそれを生き延びた。歴史が混ざった。地形が変わった。言語が混ざった。しかし我々は生きた」
シュウが何も言わなかった。
「続いて——種族の記録です」ミレナンが言った。
「人間は第三世界の出身。魔族は第一世界の出身。エルフは第五世界の出身。ドワーフは第二世界の出身——」
リアが言った。「止めろ」
ミレナンが止まった。
リアが壁を見た。
「つまり」リアが言った。
「今この世界に生きている者たちは——元々別の世界の住人だったということか」
「そうなります」ミレナンが言った。
「この記録が正しければ」
「魔族も」
「第一世界の住人です、と書かれています」
リアが少し黙った。「そんな馬鹿な」
「だが辻褄は合う」アルテフェインが言った。
「魔族の生態が人間と根本的に違う理由。エルフが極端に長寿である理由。ドワーフが持つ特殊な技術体系の理由。すべて——別世界の文明を持ち込んだと考えれば、説明できる」
「では魔王軍との戦いは」リアが言った。「元々別世界の住人同士が、今の世界で争っているということか」
「そうなる」
「おかしい」リアが言った。感情ではなかった。論理的に言っていた。
「同じ世界に融合したなら、同じ世界の住人になるはずだ。なぜ争う」
「融合は完全ではなかったのかもしれない」アルテフェインが言った。
「記録には"共存確立"とある。共存は、融和とは違う。同じ場所にいるが、一つにはなれなかった。だから——今も争っている」
エルクは壁の図を見た。
十三の円が重なっていた。
その円の一つが、今の世界だとすれば。残りの十二の円は、どこへ行ったのか。融合したのか。消えたのか。まだどこかにあるのか。
「俺たちの世界も」
エルクが言った。
「融合候補なのかもしれない」
部屋が静かになった。
重かった。
その言葉が、空気を変えた。
誰も反論しなかった。
できなかった。
奥の部屋に進んだ。
通路が続いていた。奥に扉があった。アルテフェインが開けた。
部屋があった。
ここも壁に文字があった。だが——文字だけではなかった。
棚があった。
石板が収納されていた。
資料だった。まとまった資料だった。
壁の文字より詳しく書かれた資料が、体系的に並べられていた。
アルテフェインが棚を見た。
一枚の石板を取り出した。
見た。
目が止まった。
「ここを見ろ」アルテフェインが言った。
ミレナンが来た。石板を見た。
「……新しい傷です」ミレナンが言った。
「石板が外された跡が、新しいです」
「何枚か持っていかれた。何の記録かはわからない」アルテフェインが言った。
壁に、黒い残滓があった。
魔力の跡だった。手で触れると、かすかに温かかった。最近のものだった。
「ノクトだ」エルクが言った。
「来ていたのか」シュウが言った。
「来ていた。そして何かを持ち去った」
アルテフェインが棚の前に立ったまま動かなかった。
「どの記録を持っていったかによって——意味が変わる。読まれたくない記録を持っていったのか。使いたい記録を持っていったのか。わからない」
「どちらだと思う」
アルテフェインが少し間を置いた。
「ノクトは目的のためにしか動かない。必要だから持っていった。つまり——ここに、ノクトが必要とする情報があった」
「それが何かは」
「わからない」アルテフェインが言った。
「だが——急がねばならない理由が、また一つ増えた」
夜になった。
遺跡の中で休んだ。
焚き火を起こした。
護衛賢者たちは離れた場所で休んでいた。アルテフェインは石板を読み続けていた。眠らないつもりらしかった。
ミレナンがアルテフェインの横で手伝っていた。しばらくしてミレナンが瞼を閉じた。座ったまま眠っていた。アルテフェインが何も言わずに上着を一枚、ミレナンの肩にかけた。
エルクはそれを見ていた。
「帰れると思うか」
シュウが言った。
突然だった。
焚き火を見たまま言った。
エルクは答えなかった。
答えが出なかった。
星門神殿で見た。東京を見た。オフィスを見た。仕事をしている自分を見た。あの自分は生きていた。死んでいなかった。
帰りたい、という気持ちがある。
でも。
エルクは焚き火を見た。
リアがいた。シュウがいた。ミレナンが眠っていた。アルテフェインが石板を読んでいた。
「わからない」エルクが言った。
「帰りたい気持ちはある。でも——」
「でも?」
言葉が出なかった。
シュウが「そうだな。俺もわからない。帰りたい。でも——ここにいる感じもある」と言った。
「教師だったんだろ」
「そうだ。子供たちが懐かしい。でも——」シュウが焚き火を見た。
「向こうでの俺は、何も知らない。ここで見たものを何も知らないまま、教室で笑ってる。それが、なんか」
「割り切れないか」
「割り切れない」
リアが何も言わなかった。
焚き火を見ていた。
炎が揺れた。
エルクはリアを見た。
リアは炎だけを見ていた。
深夜になった。
シュウが眠った。
エルクは眠れなかった。
一人で遺跡を歩いた。魔導灯を持って歩いた。通路を進んだ。壁の文字が続いていた。
ある壁の前で止まった。
まだ翻訳されていない部分だった。
手を触れた。
《残響》が動いた。
一瞬だった。
でも——来た。
映像だった。
空が割れていた。
音のない映像だった。でも——空が割れていた。地平線から地平線まで、空が裂けていた。裂け目から光が溢れていた。
地面が揺れていた。
人が走っていた。
倒れていた。
叫んでいた。
音がないのに、叫びが伝わってきた。
空から何かが降りてきた。
光の塊だった。
光が地面に触れた瞬間、何かが変わった。
地形が変わった。
木が消えた。別の木が現れた。
建物が消えた。別の建物が現れた。
人が消えた。別の人が現れた。
違う世界が、混ざっていた。
二つの世界が、一つになっていた。
境目はなかった。
なかったはずだった。
でも——傷跡があった。
見えない傷跡が、世界の至る所にあった。
かつて別の世界だった場所と場所の、継ぎ目が。
エルクは膝をついた。
壁から手を離した。
映像が消えた。
通路の静けさが戻った。
「これが」
エルクは呟いた。
「融合」
世界は最初からこの世界ではなかった。
今この世界に生きている者たちは、別々の世界から来た者たちの子孫だった。
だとすれば。
今また門が開けば——また同じことが起きる。
また誰かが、自分の世界を失う。
エルクは立ち上がった。
通路を戻った。
焚き火のそばに戻った。
座った。
炎を見た。
答えが出たわけではなかった。
でも——何かが、少し変わった気がした。
・
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翌朝、調査を再開した。
アルテフェインは眠っていなかった。石板を読み続けていた。
ミレナンが「先生、眠ってください」と言った。
アルテフェインが「後で眠る」と言った。
ミレナンが「後でが来たことがないです」と言った。
アルテフェインが「今回は来る」と言った。
護衛賢者が戻ってきた。
一人が顔色を変えていた。
「報告があります」
全員が見た。
「北方より、軍勢が接近しています」
誰も動かなかった。
「何の軍だ」アルテフェインが言った。
護衛賢者が魔導望遠鏡を取り出した。
小型だった。水晶の筒だった。アルテフェインに渡した。
アルテフェインが覗いた。
渡した。エルクが覗いた。
山を越えていた。
軍勢だった。
整列していた。白銀の旗が見えた。
先頭に、一人がいた。
白銀の法衣だった。
赤い法冠だった。
「ライディスだ」エルクが言った。
リアが立ち上がった。
表情が変わった。無表情ではなかった。険しかった。
「来たか」リアが言った。
白銀の法衣が、朝の光を反射していた。
ライディスは馬の上にいた。
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前を見ていた。
森の方向を見ていた。
その先に、門があることを知っていた。
側近が言った。「到着まで、あと半日ほどかかります。回収対象はどれを最優先にしますか」
ライディスは少し間を置いた。
「エルクを最優先にしろ」
側近が少し首を傾けた。「門よりもですか」
ライディスが前を向いたまま言った。「残響は門を超える」
「は」
「門を手に入れても使えなければ意味がない」ライディスが言った。
「残響があれば門は開ける。残響なしでは門は動かない。順番を間違えるな」
側近が頷いた。
「了解しました」
ライディスは前を見た。
森の向こうに、青白い光がかすかに見えた。
門だった。
第二の門が光っていた。
「ようやく見つけた」
ライディスは静かに言った。
何に向けた言葉なのか、側近にはわからなかった。
馬が進んだ。
軍勢が続いた。
白銀の旗が、朝の風に揺れた。




