世界の向こう側 (2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
走りながら、エルクの頭の中に光景が来た。
《残響》だった。
制御できなかった。
東京だった。
オフィスだった。
モニターが並んでいた。キーボードの音がした。誰かが話していた。笑い声がした。仕事の話だった。締め切りの話だった。誰かがコーヒーを持ってきた。
自分がいた。
デスクに座っていた。モニターを見ていた。何かを作っていた。ゲームだった。開発中のゲームだった。画面の中のキャラクターが動いていた。
その光景が、リアルだった。
夢ではなかった。
記憶だった。
自分の記憶だった。
「エルク」
リアの声だった。
気づいたとき、足が止まっていた。
走っていなかった。
広間の中央に立っていた。
機兵の崩壊で生じた煙の中に、立っていた。
天井が落ちてくる音がした。
動けなかった。
体が重かった。《残響》が引っ張っていた。東京の光景が引っ張っていた。
腕を掴まれた。
リアだった。
「動け」
リアが引っ張った。
動けなかった。
リアが引っ張り続けた。力が強かった。エルクの体が、引かれた方向に動いた。
一歩踏み出した。
《残響》が薄くなった。
二歩踏み出した。
もう一歩踏み出した。
走れた。
リアが手を離さなかった。引きながら走った。出口が見えた。
光が見えた。
外の光だった。
外に出た。
谷の入り口だった。
朝だった。空が白くなり始めていた。冷たい空気が来た。
全員が足を止めた。
振り返った。
谷の中に、神殿があった。いや——あった、だった。崩れていた。音がした。轟音が来た。谷全体が揺れた。
神殿が、山に飲み込まれていった。
粉塵が上がった。
夜明けの空に、白い煙が広がった。
静かになった。
谷に、残骸だけが残った。
門は、再び眠った。
ノクトが谷の縁に立っていた。
崩壊を見ていた。
エルクたちが近づいた。ノクトが振り返らなかった。
「礼を言うべきか」エルクが言った。
「いらない」ノクトが言った。
「私の目的のために動いただけだ」
「死なれると困る、と言っていたな」
「そうだ」
「なぜだ」
ノクトが少し間を置いた。振り返らなかった。
「お前がいなければ、門は開かない。私の目的のためには、お前が必要だ」
「正直だな」
「嘘をつく理由がない」
シュウが腕を組んだ。
「敵なのに嘘をつかないのか」
「嘘は効率が悪い」
「効率か」
「そうだ」
リアが前に出た。大剣に手をかけた。
「一つだけ聞く。お前の目的で、世界が融合する。それでいいのか」リアが言った。
ノクトが振り返った。
金色の目がリアを見た。
「それがどういう意味かは、まだお前には説明できない」
「なぜだ」
「お前が知れば、邪魔をする」
「最初から邪魔をしている」
「そうだな」ノクトが言った。少し何かが動いた顔だった。
感情とは言えなかった。でも、何かがあった。
「邪魔をしてくれて構わない。お前たちが邪魔をした結果が、私の望む結果と一致するかもしれない」
「どういう意味だ」
「いずれわかる」
ノクトが谷の向こうを向いた。
去る気配だった。
リアが言った。
「次に会う時は敵だ」
ノクトが少し笑った。
「最初から敵だ」リアが言った。
「そうだな」ノクトが言った。
「だが——お前たちとは、また会う。その時に話せるかもしれない」
去り際に、一度だけリアを見た。
何かを言いかけた。
言わなかった。
消えた。
・
・
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その夜、山中で焚き火を囲んだ。
全員疲れていた。誰も話さなかった。しばらく炎を見ていた。
ミレナンが先に口を開いた。「生きてます」
「生きてる」シュウが言った。
「よかったです」
「本当によかった」
シュウが焚き火に枝を入れた。炎が少し大きくなった。
「帰れるなら帰りたい」
シュウが言った。
静かだった。
重い言葉ではなかった。力んでいなかった。ただ、思っていることを言った、という声だった。
ミレナンが少し黙った。焚き火を見た。その横顔に、何かがあった。
寂しさに近い何かだった。でも何も言わなかった。
リアも黙っていた。
エルクも黙っていた。
しばらく、炎だけが音を立てた。
リアが焚き火に手をかざした。
「元の世界は…そんなに良い場所なのか」
問いかけではなかった。本当に知りたい、という声だった。
シュウが少し考えた。
「良いかどうかはわからない。でも——知ってる場所だ。俺の場所だ」
「俺の場所か」リアが繰り返した。
「そうだ」
リアが焚き火を見た。
「私には」リアが言った。
静かな声だった。
「帰る場所なんてない」
全員が黙った。
リアが続けた。
「王都はもう私の場所じゃない。故郷もない。レグルスを止めようとすれば、どこへ行っても追われる。エルナトにいられる保証もない」
炎が揺れた。
「この世界で戦い続けることだけが、私にできることだ。だから——」
リアが口を閉じた。
それ以上言わなかった。
エルクは焚き火を見ていた。
リアの横顔を、ちらりと見た。
門に触れた光景が頭の中に残っていた。
幼いリアが、通りの中に立っていた。
魔物の前に立った背中があった。
笑っていた背中があった。
大丈夫だ、という声があった。
その人が、リアの「場所」だったのかもしれないと思った。
名前も顔も知らない人が。
でも何も言わなかった。
言える立場ではなかった。
ミレナンが膝を抱えて焚き火を見ていた。
シュウが空を見上げていた。
星が出ていた。
エルナトの星より少なかった。山の上だったが、雲が少しかかっていた。
誰も何も言わなかった。
炎だけが、静かに燃えていた。
・
・
・
翌朝、エルナトに戻った。
アルテフェインは塔にいた。
観測儀の前だった。いつもの場所だった。
四人が入ると、振り返った。金色の目がエルクを見た。
「生きていたか」
「生きていますが、先生のおかげで色々と——」ミレナンが言った。
「報告しろ」アルテフェインが言った。
ミレナンが口を閉じた。
エルクが話した。
門番機兵のこと。ノクトが現れたこと。扉が開いたこと。
無数の世界を見たこと。声が聞こえたこと。
「世界を選べ」という言葉のこと。神殿が崩壊したこと。
全部話した。
アルテフェインは黙って聞いた。
途中で止めなかった。質問しなかった。
エルクが話し終えた。
沈黙があった。
長かった。
アルテフェインが観測儀を見た。
エルナトの点を見た。
星門神殿の崩壊で、活性化が収まっていた。点の光が弱くなっていた。眠りに戻りつつあった。
だが。
アルテフェインの目が、別の点へ移った。
星門神殿の点ではなかった。
もう一つの点だった。
エルナトの中に、もう一つの点があった。
その点が——脈を打っていた。
「先生」ミレナンが言った。
「何か知っているんですか」
「知っていることと、知らないことがある」アルテフェインが言った。
「声の正体は——私にもわからない。だが」
老人が観測儀から離れた。
地図の前に立った。
「急がねばならん」
アルテフェインが言った。
全員がアルテフェインを見た。
「エルナト第二の門が目覚め始めている」
部屋が静かになった。
「第二の、門」エルクが言った。
「そうだ」アルテフェインが地図を指した。
「星門神殿の門は崩壊で再び眠った。だが——エルナト国内の別の場所に、もう一つの門がある」
「エルナトに、まだあったのか」
「確認されているだけで、エルナト内に二つ存在する」アルテフェインが言った。
「一つが動けば、もう一つも連動して動く。星門神殿が起動したことで——第二の門が目を覚ました」
「場所は」
アルテフェインが地図の上に指を置いた。
星門神殿より、さらに奥だった。
エルナト北東部の、深い山岳地帯だった。
「ここだ」アルテフェインが言った。
「既に反応が始まっている。そして——」
老人が少し間を置いた。
「ノクトもそこへ向かっている可能性が高い」
リアが地図を見た。
シュウが地図を見た。
ミレナンが地図を見た。
エルクは地図を見てから、アルテフェインを見た。
「行くのか」シュウが言った。
「お前たちが決めることだ」アルテフェインが言った。
エルクは地図を見た。
エルナト北東部。
星門神殿よりさらに奥。
エルナト第二の門が眠っている。
目覚め始めている。
そしてノクトがそこへ向かっている。
「わかった」
エルクが言った。
「行く」
エルナトにもう一つ門があることがわかった。
そして、第三章終盤へ物語は進む。




