世界を選べ (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
誰も動かなかった。
ノクトが暗がりの中に立っていた。リアが大剣に手をかけていた。シュウが少し前に出ていた。ミレナンがエルクの後ろで息を殺していた。
扉が後ろにあった。
世界を選べ、という文字が、扉の上で光っていた。
「魔王軍の幹部が、なんでこんな場所にいる」
シュウが言った。
ノクトが少し笑った。
「その質問には答えられる」
ノクトが言った。「だが先に聞こう」
金色の瞳が、エルクを見た。
「お前たちは何故帰りたい」
部屋が静かになった。
帰りたい。その言葉が、この神殿の空気に溶けた。
さっき聞いた歴代勇者の声と重なった。帰りたい、という声と。開けるな、という声と。
「元いた世界だからだ」
エルクが答えた。
ノクトが首を振った。
「違う」
「何が違う」
「お前はまだ思い出していないだけだ」
ノクトが言った。それ以上説明しなかった。
エルクはノクトを見た。意味がわからなかった。
思い出していない、とはどういう意味か。自分が何を思い出していないのか。
「説明しろ」
「今はできない」ノクトが言った。
「だが——お前はいずれわかる。残響がそこまで届けば」
リアが大剣を少し引いた。引いたが、手は離さなかった。
「戦いに来たのではないと言ったな。目的は何だ」リアが言った。
「見物だと言った」
「本当のことを言え」
ノクトが少し間を置いた。
「扉の向こうを見たかった」ノクトが言った。
「何度もここへ来た。だが開かなかった。残響の器がなければ、この扉は開かない」
「だから俺たちを待っていたのか」
「待っていた」ノクトが言った。「ここへ来ると思っていた。アルテフェインが動けば、必ずここへ向かう」
「それで、見物か」
「見物だ」
シュウが腕を組んだ。
「随分余裕だな」
ノクトが静かに言った。
「余裕ではない。長い時間をかけてきた。それだけだ」
ノクトが一歩前に出た。
リアが大剣を構えた。
「待て。話がある」ノクトが言った
「聞く理由があるか」
「ある。エルクに関係する話だ」
リアがエルクを見た。エルクが頷いた。リアが構えを解かないまま、少し下がった。
ノクトがエルクを見た。
「残響の器は、これまでに何人いたか知っているか」
「記録では数人だ」エルクが答えた。
「アルテフェインの資料にあった」
「記録に残っているのはそれだけだ」ノクトが言った。
「だが実際はもっと多い。記録に残らなかった者がいる。早々に壊れた者たちだ」
「壊れた」
「残響は無限の世界から情報を受け取る力だ」ノクトが言った。
「一つの世界の記憶しか持てない人間の脳に、無限の世界の情報が流れ込む。耐えられるはずがない」
「だから発狂した」
「発狂した。暴走した。自我を失った。レグルスが残響を恐れる理由はそこだ。ライディスが残響を欲しながら恐れる理由もそこだ。使えば壊れる。だから慎重になる」
エルクは少し考えた。
「俺は壊れていない」
「そうだ」
「なぜかはわからないと言いたいのか」
「わからない。だから価値がある」
その言葉が、少し刺さった。
価値がある。
兵器として価値がある、ということではなかった。
ノクトの言い方は違った。
でも——壊れていないから価値がある、という構造は、レグルスの論理と変わらなかった。
「俺は価値のために存在しているわけじゃない」
エルクが言った。
ノクトが少し間を置いた。
「そうだな」あっさりと言った。「そこは同意する」
シュウが「同意するのか」と小声でエルクに言った。エルクも少し意外だった。
「お前の存在の意味を、私が決める権限はない」ノクトが言った。
「ただ——壊れていない器が現れたことは、事実として重要だ。私にとっても、この世界にとっても」
「お前の目的のためにも、ということか」
「そうだ」
「門を開きたいという目的か」
ノクトが少し目を細めた。
「それは半分だ」
「半分?」
ノクトは答えなかった。
「今は話せない」それだけ言った。
その時、神殿全体が微かに揺れた。
床の魔法陣が光った。壁の文字が輝いた。天井の魔法陣が波のように動いた。
《残響》が、エルクの中で大きく動いた。
暴走ではなかった。でも——強かった。この場所が何かに反応していた。エルクがここにいることで、この神殿が目を覚ましつつあった。
「扉に近づいてみろ」ノクトが言った。
「なぜ」
「試せ」
エルクはノクトを見た。罠かもしれなかった。でも——ノクトが嘘をついているとは思えなかった。この男は戦いに来ていなかった。何かを見たくて来ていた。
エルクは扉に向かって歩いた。
一歩。二歩。三歩。
《残響》が強くなった。
五歩。六歩。
頭の奥でノイズが来た。暴走ではなかった。でも、これまでとは種類が違うノイズだった。この扉の向こうから来ていた。
向こう側が、エルクを認識している感触があった。
ミレナンが言った。「扉の紋様が——」
振り返らなかった。
扉に手を触れた。
黒みがかった石の感触だった。冷たかった。
その瞬間。
光が走った。
扉の表面全体が光った。紋様が一つ一つ順番に光った。外側から内側へ向かって。中心に向かって。集まって。
轟音が来た。
石が動く音だった。何百年も動かなかった石が、今初めて動く音だった。
「ありえない」
ミレナンが言った。
「ありえないです。今の反応は——門の反応と同じです。残響が鍵になっています。アルテフェイン先生の仮説が——」
扉が開いた。
光が来た。
青白い光だった。眩しかった。目を細めた。でも閉じなかった。
光の中に、何かがあった。
扉の向こうに、空間があった。
空間の奥に、門があった。
あの山の廃砦で見たものと、同じ構造だった。円環だった。黒い金属の輪。表面を覆う幾何学文字。青白い光を放つ浮遊する文字。
だがこれは、あの門より大きかった。
直径が、倍以上あった。
光が強かった。
「行くのか」シュウが言った。
「行く」
「危ないぞ」
「お前たちは——」
「行く」シュウが言った。話を聞かなかった。
「当たり前だろ」
リアがすでに動いていた。前に歩いていた。
ミレナンが荷物を持ち直した。「私も行きます」
エルクは少し黙った。
「わかった」
四人で、扉の中へ入った。




