遠い記憶 (2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
白が、動いた。
溶けるのではなかった。
上へ、引き上げられるような感覚だった。
エルクの視点が、上昇していった。足が地面から離れた。白い空間が下へ遠ざかった。上昇が続いた。加速した。白が薄くなった。薄くなった白の向こうに、別の色が見え始めた。
黒だった。
夜だった。
エルクは夜空の中にいた。
いや、夜空の上にいた。
雲の上だった。
眼下に広がるものを見て、エルクは息を呑んだ。
光だった。
無数の光が、地上を覆っていた。格子状に走る光の線。交差点ごとに輝く光の点。動く光の粒が、光の線の上を流れていた。車だった。高速道路が、光の川になっていた。
これは東京だった。
夜の東京全景が、眼下に広がっていた。
どこまでも続いていた。地平線の向こうまで、光が埋め尽くしていた。東京だけではないかもしれなかった。関東平野全体が、光に覆われていた。
何千万という命が、あの光の中にあった。
今この瞬間、眠っている人間がいた。働いている人間がいた。笑っている人間がいた。泣いている人間がいた。誰かを愛している人間がいた。誰かに憎まれている人間がいた。
全部が、あの光の中にあった。
エルクはその光景を、言葉もなく見ていた。
《残響》が、静かに動いていた。
暴走ではなかった。
穏やかな受信だった。あの光の中から、無数の命の気配が、静かに流れ込んでくる。声ではなかった。情報でもなかった。ただ——存在の重さだった。何千万という命が、今この瞬間も続いているという、圧倒的な重さだった。
「……きれいだ」
エルクは呟いた。
そう思ったのは、初めてだったかもしれなかった。東京に住んでいた頃、こんな角度から見たことはなかった。毎日その光の中を歩いていた。その一部だった。だから見えなかった。
外から見て、初めてわかった。
あの光の一つ一つに、命があった。
その時。
気づいた。
光の中に、別の光があった。
地上の光ではなかった。
空にあった。
東京の上空に、それはあった。
最初は雲かと思った。だが違った。雲は動く。それは動かなかった。東京の空に、静止していた。
円環だった。
巨大な円環が、東京の上空に浮かんでいた。
黒い金属の輪。表面を覆う幾何学文字。青白い光を放つ浮遊する文字。
あの遺跡で見たものと、同じだった。
同じ構造だった。同じ光だった。同じ文字だった。
「あれは……」
エルクは目を細めた。
東京の空に、門があった。
この世界の山の中に眠っていた門と、同じものが——現代日本の空に、浮かんでいた。
向こう側にも、門があった。
二つの世界を繋ぐ境界が、両側に存在していた。
《残響》が、強く反応した。
東京の門から、信号が来た。
この世界の門と、同じ信号だった。同じ言語だった。同じ周波数だった。二つの門が、互いを認識し合っていた。呼び合っていた。
繋がろうとしていた。
「……そういうことか」
エルクは呟いた。
自分がなぜここへ召喚されたのか。
異世界転生という現象の正体が、今この瞬間、形を持ち始めた気がした。
門と門が呼び合っている。二つの世界が、引き合っている。その引力の中に、エルクもシュウも引き込まれた。召喚されたのではなく——引き寄せられたのかもしれない。門に。《残響》という鍵を持って生まれた存在が、門に引き寄せられた。
東京の門が、光を強くした。
円環の内側が、青白く輝き始めた。
この世界の門と呼応するように。
「待て」
エルクは言った。
誰かへ向けた言葉ではなかった。
門へ向けた言葉だった。
「まだだ」
光が——爆発した。
東京の夜景が、白に飲み込まれた。
円環の光が全方位へ広がった。何千万という命の光が、その白の中に消えた。
白が、すべてを覆った。
そして——
・
・
・
音が来た。
岩が崩れる音だった。
「エルク!」
リアの声だった。
エルクは目を開けた。
地下空間だった。
円環が目の前にあった。光を放っていた。だが先ほどより弱かった。強く輝いた後、力を使い果たしたように、光が揺れていた。
床が揺れていた。
天井から岩が落ちていた。遺跡全体が、崩落し始めていた。
「立てるか!」
リアがエルクの腕を掴んだ。
「……立てる」
エルクは立ち上がった。
足元が揺れた。床の黒い金属に、亀裂が走り始めていた。浮遊する文字が乱れていた。台座の計器が、不規則に点滅していた。
「今の、なんだよ」
シュウが呆然と言った。
頭を押さえていた。目が焦点を失いかけていた。《残響》を持っていないはずのシュウにも、何かが来たらしかった。
「街が見えた…」
シュウは言った。
「知らない街じゃなかった。知ってる街だった。高いビルがあって、電車が走ってて、信号があって——なんで俺、あんな街を知ってるんだ」
「後で話す」
エルクは言った。
「今は逃げる」
天井から大きな岩が落ちた。
床に亀裂が広がる。空洞の縁が崩れ始めた。壁面が剥がれ落ちる。遺跡全体が、急速に崩壊していた。
ライディスが空洞の縁に立っていた。
追跡部隊の数人を引き連れたまま、遺跡を見下ろしていた。その顔は、いつもの冷静さを取り戻しかけていた。だが完全にではなかった。何かを見てしまった者の顔が、まだそこにあった。
「リア」
ライディスが言った。
リアは答えなかった。
「逃げても——」
「追ってくるなら来い」
リアは言った。
「今のお前に、追う余裕があるなら」
ライディスは黙った。
追跡部隊が崩落を避けて後退していた。遺跡の崩壊が激しくなっていた。この状況で地下空間へ降りるのは、ライディスでも危険だった。
ノクトは円環の前に立っていた。
崩落の中で、動いていなかった。
円環を見ていた。光が弱まっていく円環を。内側の青みがかった空間が、少しずつ薄れていくのを。
「……まだ足りないのか」
ノクトは呟いた。
誰かへ向けた言葉ではなかった。
自分自身への確認だった。
失われた世界を取り戻すために、どれだけの時間をかけてきたか。どれだけの場所を探してきたか。門はようやく見つかった。《残響》の器も、ようやく現れた。それでもまだ、足りない何かがある。
ノクトは少しの間、エルクを見た。
「行け。ここは崩れる」
ノクトは静かに言った。
「お前は」
ノクトは円環へ向き直った。
「私は残る」
「崩れるぞ」
「崩れても、これは消えない」
ノクトは円環の表面に指先を触れた。
黒い金属が、かすかに光を返した。
「もう少しだ」
静かに言った。
その目に、感情はなかった。
ただ——長い時間をかけて探し続けてきた者の、静かな確信があった。
「行け」
もう一度言った。
今度は振り返らなかった。
リアがエルクの腕を引いた。
三人は走った。
崩れていく床を跳び越えながら。落ちてくる岩を避けながら。亀裂が広がる地下空間を、出口へ向かって駆けた。
崩落の音が追いかけてきた。
空洞の縁をよじ登った。斜面へ出た。冷たい夜気が顔を叩いた。雪だった。山の夜気だった。
振り返った。
地下空間が、崩れていった。
轟音とともに、天井が落ちた。壁が崩れた。遺跡が、山の中へ飲み込まれていった。粉塵が噴き上がり、夜空へ広がった。
光が、消えた。
円環の青白い光が、岩盤の奥へ消えていった。
消えた、のではないかもしれなかった。
また、眠ったのだ。
何千年も眠っていたように。またいつか目覚める日まで。
静寂が戻った。
雪が降り始めた。
エルクは走りながら、頭の中で何かが整理されていくのを感じていた。
東京が見えた。
あの光の中に、何千万という命があった。
門が開けば、あの世界とこの世界が混ざる。ノクトはそれを望んでいる。失われた魔族の世界を取り戻すために。
だがエルクは——門を開けたいわけではなかった。
ノクトの目的も、ライディスの目的も、エルクの中には入ってこなかった。
自分がなぜ《残響》を持って生まれたのか、知りたかった。
勇者召喚をやめさせたかった。番号で管理されながら戦場へ送られ、死んでいく者たちを、これ以上出したくなかった。ノクトに殺された勇者たちの断末魔が、まだ頭の奥に残っていた。あの声たちが、消えなかった。
そして——あの世界へ帰りたいという気持ちが、今この瞬間、初めてはっきりとした形を持った。
東京の雑踏が、耳の奥に残っていた。
帰りたい。その感情は、《残響》とは別の場所から来ていた。
天井から大きな岩が落ちた。
岩を避け、エルクたち三人は走った。
ライディスは斜面の上に立っていた。
追跡部隊が周囲に控えていた。
だがライディスは命令を出さなかった。
粉塵が舞う崩落跡を見ていた。その目に、いつもの論理計算がなかった。
「……街が見えた」
ライディスは、部下に聞こえない声で呟いた。
「何千万という命が見えた」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。
右手を上げた。
「撤退する」
追跡部隊が動いた。
ライディスは最後にもう一度、崩落跡を見た。
それから——背を向けた。
・
・
・
三人は山を下りた。
追われていなかった。
ライディスも追ってこなかった。ノクトも来なかった。山は静かだった。雪だけが降り続けていた。
木々の間に、小さな岩棚を見つけた。風が凌げた。
焚き火を起こした。
しばらく、誰も何も言わなかった。
炎が揺れていた。雪が降っていた。山が静かだった。
シュウが、焚き火を見ながら言った。
「なあ、エルク」
「うん」
「俺たち……あそこにいたことある気がしないか?」
エルクは焚き火を見た。
炎の揺れ方が、オフィスのモニターの光と重なった気がした。
耳鳴りが来た。
かすかな耳鳴りが。
その中に——雑踏が聞こえた。
車の音。信号の音。人の声。電車のアナウンス。コーヒーメーカーの音。キーボードを叩く音。笛の音。子供たちの笑い声。
東京の音が、耳の奥に満ちた。
「……あった」
エルクは言った。
「俺たちは、あの世界から来た」
シュウは何も言わなかった。
焚き火を見ていた。
その横顔が——校庭で子供たちを見ていたシュウの横顔と、重なった。
「あの世界に」
シュウが言った。
「帰れるのか」
エルクは答えなかった。
答えがわからなかった。
門は眠った。「まだ足りない」とノクトは言った。足りないものが何かも、まだわからない。
ただ——門の向こうに、あの世界があった。
何千万という命の光が、あの世界にあった。
リアが焚き火を見ていた。
エルクとシュウの会話を聞きながら、何も言わなかった。
この世界の人間には、理解できない話かもしれなかった。別の世界から来た、という感覚は、この世界で生きてきたリアには届かないかもしれなかった。
でも——リアは何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
三人で焚き火を囲んでいた。
雪が降り続けていた。
山が、静かだった。
東京の雑踏が、エルクの耳の奥で、かすかに鳴り続けていた。
第二章「世界の声」完結です。
そして第三章へ物語は進みます。




