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異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~  作者: 小城乃ひかり
第二章 世界の声

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遠い記憶 (1)

異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~

白だった。


どこまでも、白だった。


上も下も右も左も、境界がない。地面があるのかどうかもわからない。ただ白い空間の中に、エルクは立っていた。


立っている、という感覚だけがあった。

体の重さがない。風もない。音もない。《残響》も、今は静かだった。あれだけ暴れていたノイズが、嘘のように消えていた。


「……ここは」

声が出た。

反響しなかった。白い空間に吸い込まれて、消えた。


エルクは周囲を見回した。

何もなかった。

ただ白だけがあった。


その白が、ゆっくりと変わり始めた。

溶けるように。色が混じるように。白の中に、灰色が生まれた。灰色が形を作り始めた。輪郭が現れた。線が増えた。面が生まれた。


形が、世界になった。


アスファルトだった。

足の下に、アスファルトの感触があった。

エルクは足元を見た。横断歩道の白線が、足の下を走っていた。信号が赤だった。人が並んでいた。スーツの男。スマートフォンを見ている女。ヘッドフォンをした学生。ベビーカーを押す母親。


信号が青になった。

人が動いた。

エルクは動けなかった。

人の波が、エルクの周囲を流れていった。誰もエルクを見なかった。透明人間のように、ただそこに立っていた。


見覚えがあった。

この交差点を、知っていた。


何度も渡った交差点だった。毎朝、駅からオフィスまでの道に、この横断歩道があった。信号の待ち時間が長くて、いつも苛立っていた。横断歩道を渡りながらスマートフォンを確認する癖があって、上司に何度か注意された。

上司の顔が浮かんだ。

名前が出てこなかった。


顔はある。声もある。でも名前が出てこない。

エルクは顔を上げた。


高層ビルが、空を切り取っていた。

秋だった。空が高く青かった。銀杏並木の葉が黄色く色づいていた。風が吹くたびに葉が舞い、アスファルトの上に積もっていた。


東京だった。


疑いようがなかった。

これは東京だ。異世界ではない。魔物もいない。魔法もない。ただ、普通の秋の東京が、そこにあった。


「……なんで」

エルクは呟いた。

答えは来なかった。


人の波は流れ続けていた。エルクだけが、その流れの中で止まっていた。

足が動いた。

意識してではなかった。体が覚えていた。毎朝歩いた道を、体が自動的に辿り始めた。交差点を渡り、銀杏並木の下を歩き、ガラス張りのビルの入口へ向かう。


自動ドアが開いた。

冷たい空調の空気が流れ出てきた。


エントランスに入った。警備員が頭を下げた。エレベーターへ向かう。ボタンを押す。十四階。扉が開く。オフィスが広がった。

見覚えのある光景だった。


デスクが並んでいた。PCモニターが光っていた。キーボードを叩く音が重なっていた。電話の声が聞こえた。誰かが笑っていた。コーヒーの匂いがした。

ゲーム開発会社のオフィスだった。


エルクは、自分のデスクを知っていた。

窓際から三番目。モニターが二枚。左のモニターにはコードが並んでいた。右のモニターにはゲームの画面が映っていた。スマートフォンゲームだった。キャラクターが剣を振っていた。

デスクの椅子に、誰かが座っていた。


エルクだった。


別のエルクが、そこにいた。


顔は同じだった。体格も同じだった。ただ服が違った。スーツではなくカジュアルな格好で、モニターに向かってコードを打ち込んでいた。集中している顔だった。


「……俺か」

エルクは呟いた。

椅子に座ったエルクは、聞こえていないようだった。ただコードを打ち続けていた。


隣のデスクから声が来た。

「——さん」

エルクは振り返った。

隣のデスクに、男が座っていた。

顔が見えなかった。

輪郭はある。体格はある。でも顔だけが、霧がかかったように見えなかった。声は聞こえる。話している。しかし名前の部分だけが、聞こえなかった。

「——さん、ちょっといい? このバグ、なんで出るかわかる?」

椅子に座ったエルクが振り返った。

「どれ」


「ここ。敵の当たり判定がおかしくて、特定の角度からの攻撃だけ無効になる」


「ああ、それ先週も出た。コリジョンの問題だ」


「またか。修正したんじゃなかったっけ」


「完全には直ってない。後で見る」


「助かる」

男が画面を向き直した。


エルクは、その会話を聞いていた。

知っていた。

この会話を、した覚えがある。でもいつだったか思い出せない。先週か。先月か。一年前か。


椅子に座ったエルクが、また画面に向かった。

コードを打つ。確認する。修正する。また打つ。

その繰り返しだった。

それが毎日だった。


好きだったのか、嫌いだったのか、今となってはわからなかった。ただ、毎日それをしていた。仕事だったから。でも——仕事だけではなかった気もする。コードが思い通りに動いた時の感覚。バグが直った時の達成感。それは、悪くなかった。


窓の外に、東京の空が広がっていた。

秋の青空だった。

エルクはその空を見た。


あの空の下を、毎朝歩いてきた。毎晩帰っていった。その繰り返しの中に、自分の人生があった。


名前が、出てこなかった。

本当の名前が。

エルクという名前は、召喚された時に与えられたものだ。元々の名前があったはずだった。あの男が、隣の


デスクで呼んでいた。でも聞き取れなかった。

思い出せそうで、思い出せない。


景色が、溶けた。

白に戻りかけた。


そう思った瞬間、別の景色が来た。


今度は外だった。

青空だった。


広い校庭だった。

白いラインが引かれた校庭。鉄棒。うんてい。砂場。その奥に、校舎の建物が見えた。小学校だった。

子供たちが走っていた。


十数人の子供たちが、校庭を走り回っていた。体育の授業だった。笑い声が上がっていた。転んだ子が、すぐ立ち上がった。速い子が先頭を走っていた。遅い子が後ろで懸命に追いかけていた。


笛が鳴った。

「こらー、転ぶぞー!」

声がした。

エルクは声のした方向を見た。

男が立っていた。


体育着を着た、二十代後半くらいの男だった。笛を首から下げていた。子供たちを見ながら、笑っていた。

走る子供に向かって何か声をかけている。子供が答える。男がまた笑う。

その笑い方を、エルクは知っていた。

屈託がない笑い方だった。作っていない笑い方だった。その場にいる全員を、なんとなく安心させてしまうような笑い方だった。


「……お前か」

エルクは呟いた。


男が振り返った。

シュウだった。


顔が少し違った。この世界で見ているシュウより、少し幼い顔だった。疲れが少ない顔だった。戦場を知らない顔だった。

でも確かにシュウだった。

笑い方が、同じだった。


子供の一人が転んだ。膝を擦りむいた。泣き始めた。シュウが駆け寄った。膝を折って、子供と目線を合わせた。何かを言った。子供が笑った。泣き笑いの顔で、立ち上がった。また走り始めた。

シュウが立ち上がって、その背中を見ていた。


その横顔が——エルクには、戦場でシュウが仲間を庇う時の横顔と、重なった。

同じだった。

状況は全然違う。でも、誰かのために前に出る時のシュウの顔は、校庭でも廃砦でも、同じだった。


「お前、教師だったのか」

エルクは言った。

シュウには聞こえていなかった。


笛を吹いた。子供たちが集まってきた。シュウが何かを説明した。子供たちが頷いた。また走り始めた。

その光景を、エルクは見ていた。


この校庭に来たことはない。シュウの前世など、知らなかったはずだ。

でも——懐かしかった。

誰かが誰かのために笑っている光景が。誰かが誰かを助けようとしている光景が。それが当たり前に存在している世界が。


風が吹いた。


銀杏の葉が、校庭に降ってきた。


子供たちが歓声を上げた。

シュウが笑った。


空が、青かった。


その青空が、また白に溶け始めた。

エルクは手を伸ばした。

届かなかった。


白が戻ってきた。


東京が、消えた。


校庭が、消えた。


シュウの笑い声が、遠くなった。

エルクは白い空間の中に、また一人で立っていた。

静かだった。

《残響》も、今は鳴っていなかった。


ただ——胸の奥に、何かが残っていた。

あの空の青さが。

あのアスファルトの感触が。

コードを打つキーボードの音が。


笛の音が。

子供たちの笑い声が。

消えなかった。


それが何なのか、エルクにはまだわからなかった。

記憶なのか。別世界の残響なのか。《残響》が見せた幻なのか。

でも——本物だという感覚だけは、あった。


「……俺たちは」


エルクは白い空間で呟いた。


「あそこにいた」

答えは来なかった。

白が、また動き始めた。

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