遠い記憶 (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
白だった。
どこまでも、白だった。
上も下も右も左も、境界がない。地面があるのかどうかもわからない。ただ白い空間の中に、エルクは立っていた。
立っている、という感覚だけがあった。
体の重さがない。風もない。音もない。《残響》も、今は静かだった。あれだけ暴れていたノイズが、嘘のように消えていた。
「……ここは」
声が出た。
反響しなかった。白い空間に吸い込まれて、消えた。
エルクは周囲を見回した。
何もなかった。
ただ白だけがあった。
その白が、ゆっくりと変わり始めた。
溶けるように。色が混じるように。白の中に、灰色が生まれた。灰色が形を作り始めた。輪郭が現れた。線が増えた。面が生まれた。
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形が、世界になった。
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アスファルトだった。
足の下に、アスファルトの感触があった。
エルクは足元を見た。横断歩道の白線が、足の下を走っていた。信号が赤だった。人が並んでいた。スーツの男。スマートフォンを見ている女。ヘッドフォンをした学生。ベビーカーを押す母親。
信号が青になった。
人が動いた。
エルクは動けなかった。
人の波が、エルクの周囲を流れていった。誰もエルクを見なかった。透明人間のように、ただそこに立っていた。
見覚えがあった。
この交差点を、知っていた。
何度も渡った交差点だった。毎朝、駅からオフィスまでの道に、この横断歩道があった。信号の待ち時間が長くて、いつも苛立っていた。横断歩道を渡りながらスマートフォンを確認する癖があって、上司に何度か注意された。
上司の顔が浮かんだ。
名前が出てこなかった。
顔はある。声もある。でも名前が出てこない。
エルクは顔を上げた。
高層ビルが、空を切り取っていた。
秋だった。空が高く青かった。銀杏並木の葉が黄色く色づいていた。風が吹くたびに葉が舞い、アスファルトの上に積もっていた。
東京だった。
疑いようがなかった。
これは東京だ。異世界ではない。魔物もいない。魔法もない。ただ、普通の秋の東京が、そこにあった。
「……なんで」
エルクは呟いた。
答えは来なかった。
人の波は流れ続けていた。エルクだけが、その流れの中で止まっていた。
足が動いた。
意識してではなかった。体が覚えていた。毎朝歩いた道を、体が自動的に辿り始めた。交差点を渡り、銀杏並木の下を歩き、ガラス張りのビルの入口へ向かう。
自動ドアが開いた。
冷たい空調の空気が流れ出てきた。
エントランスに入った。警備員が頭を下げた。エレベーターへ向かう。ボタンを押す。十四階。扉が開く。オフィスが広がった。
見覚えのある光景だった。
デスクが並んでいた。PCモニターが光っていた。キーボードを叩く音が重なっていた。電話の声が聞こえた。誰かが笑っていた。コーヒーの匂いがした。
ゲーム開発会社のオフィスだった。
エルクは、自分のデスクを知っていた。
窓際から三番目。モニターが二枚。左のモニターにはコードが並んでいた。右のモニターにはゲームの画面が映っていた。スマートフォンゲームだった。キャラクターが剣を振っていた。
デスクの椅子に、誰かが座っていた。
エルクだった。
別のエルクが、そこにいた。
顔は同じだった。体格も同じだった。ただ服が違った。スーツではなくカジュアルな格好で、モニターに向かってコードを打ち込んでいた。集中している顔だった。
「……俺か」
エルクは呟いた。
椅子に座ったエルクは、聞こえていないようだった。ただコードを打ち続けていた。
隣のデスクから声が来た。
「——さん」
エルクは振り返った。
隣のデスクに、男が座っていた。
顔が見えなかった。
輪郭はある。体格はある。でも顔だけが、霧がかかったように見えなかった。声は聞こえる。話している。しかし名前の部分だけが、聞こえなかった。
「——さん、ちょっといい? このバグ、なんで出るかわかる?」
椅子に座ったエルクが振り返った。
「どれ」
「ここ。敵の当たり判定がおかしくて、特定の角度からの攻撃だけ無効になる」
「ああ、それ先週も出た。コリジョンの問題だ」
「またか。修正したんじゃなかったっけ」
「完全には直ってない。後で見る」
「助かる」
男が画面を向き直した。
エルクは、その会話を聞いていた。
知っていた。
この会話を、した覚えがある。でもいつだったか思い出せない。先週か。先月か。一年前か。
椅子に座ったエルクが、また画面に向かった。
コードを打つ。確認する。修正する。また打つ。
その繰り返しだった。
それが毎日だった。
好きだったのか、嫌いだったのか、今となってはわからなかった。ただ、毎日それをしていた。仕事だったから。でも——仕事だけではなかった気もする。コードが思い通りに動いた時の感覚。バグが直った時の達成感。それは、悪くなかった。
窓の外に、東京の空が広がっていた。
秋の青空だった。
エルクはその空を見た。
あの空の下を、毎朝歩いてきた。毎晩帰っていった。その繰り返しの中に、自分の人生があった。
名前が、出てこなかった。
本当の名前が。
エルクという名前は、召喚された時に与えられたものだ。元々の名前があったはずだった。あの男が、隣の
デスクで呼んでいた。でも聞き取れなかった。
思い出せそうで、思い出せない。
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景色が、溶けた。
白に戻りかけた。
そう思った瞬間、別の景色が来た。
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今度は外だった。
青空だった。
広い校庭だった。
白いラインが引かれた校庭。鉄棒。うんてい。砂場。その奥に、校舎の建物が見えた。小学校だった。
子供たちが走っていた。
十数人の子供たちが、校庭を走り回っていた。体育の授業だった。笑い声が上がっていた。転んだ子が、すぐ立ち上がった。速い子が先頭を走っていた。遅い子が後ろで懸命に追いかけていた。
笛が鳴った。
「こらー、転ぶぞー!」
声がした。
エルクは声のした方向を見た。
男が立っていた。
体育着を着た、二十代後半くらいの男だった。笛を首から下げていた。子供たちを見ながら、笑っていた。
走る子供に向かって何か声をかけている。子供が答える。男がまた笑う。
その笑い方を、エルクは知っていた。
屈託がない笑い方だった。作っていない笑い方だった。その場にいる全員を、なんとなく安心させてしまうような笑い方だった。
「……お前か」
エルクは呟いた。
男が振り返った。
シュウだった。
顔が少し違った。この世界で見ているシュウより、少し幼い顔だった。疲れが少ない顔だった。戦場を知らない顔だった。
でも確かにシュウだった。
笑い方が、同じだった。
子供の一人が転んだ。膝を擦りむいた。泣き始めた。シュウが駆け寄った。膝を折って、子供と目線を合わせた。何かを言った。子供が笑った。泣き笑いの顔で、立ち上がった。また走り始めた。
シュウが立ち上がって、その背中を見ていた。
その横顔が——エルクには、戦場でシュウが仲間を庇う時の横顔と、重なった。
同じだった。
状況は全然違う。でも、誰かのために前に出る時のシュウの顔は、校庭でも廃砦でも、同じだった。
「お前、教師だったのか」
エルクは言った。
シュウには聞こえていなかった。
笛を吹いた。子供たちが集まってきた。シュウが何かを説明した。子供たちが頷いた。また走り始めた。
その光景を、エルクは見ていた。
この校庭に来たことはない。シュウの前世など、知らなかったはずだ。
でも——懐かしかった。
誰かが誰かのために笑っている光景が。誰かが誰かを助けようとしている光景が。それが当たり前に存在している世界が。
風が吹いた。
銀杏の葉が、校庭に降ってきた。
子供たちが歓声を上げた。
シュウが笑った。
空が、青かった。
その青空が、また白に溶け始めた。
エルクは手を伸ばした。
届かなかった。
白が戻ってきた。
東京が、消えた。
校庭が、消えた。
シュウの笑い声が、遠くなった。
エルクは白い空間の中に、また一人で立っていた。
静かだった。
《残響》も、今は鳴っていなかった。
ただ——胸の奥に、何かが残っていた。
あの空の青さが。
あのアスファルトの感触が。
コードを打つキーボードの音が。
笛の音が。
子供たちの笑い声が。
消えなかった。
それが何なのか、エルクにはまだわからなかった。
記憶なのか。別世界の残響なのか。《残響》が見せた幻なのか。
でも——本物だという感覚だけは、あった。
「……俺たちは」
エルクは白い空間で呟いた。
「あそこにいた」
答えは来なかった。
白が、また動き始めた。
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