門 (3)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
「ノクト!!」
ライディスが叫んだ。
初めてだった。
あの男が、叫んだ。
「止めろ。今すぐ止めろ」
ノクトは振り返らなかった。円環を見ていた。光が強くなり続けていた。浮遊する文字が円環の内側へ流れ込む速度が上がっていた。
「止める理由がない」
「この世界が終わるぞ」
「更新される」
「同じことだ!」
ライディスが右手を上げた。
風が生まれた。圧縮された魔力の風が、ノクトへ向かって走った。
ノクトは右手を軽く上げた。
雷光が一本、風を貫いた。風が散る。ライディスが後退した。
「邪魔をするな」
ノクトの声は静かだった。
「これは止まらない。もう始まっている」
エルクは円環を見た。
ノクトの言う通りだった。
誰かが何かをしたわけではない。門が、自分で動き始めていた。何千年も眠っていたものが、自分の存在に気づいた何かに呼応して、目を覚まし始めていた。
《残響》が、激しく揺れた。
「エルク」
ノクトがエルクを見た。
「残響は鍵だ」
エルクは動かなかった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
ノクトは円環へ視線を向けながら言った。
「門を開くには条件がある。並行世界の情報を観測できる存在が、門へ接触し、世界間の情報を同期させる必要がある」
「それが《残響》か」
「《残響》だけが、門の言語を読める。門の言語とはすなわち——世界間の共通情報だ。どの世界線にも存在する、普遍的な記録の形式だ」
エルクは円環を見た。
浮遊する文字。あの文字が、世界間の共通言語だ。だから《残響》を通じて、意味ではなく感覚として伝わってくる。翻訳される前の、情報そのものとして。
「お前だけが門を開ける」
ノクトが言った。
「この世界に存在する誰よりも強い器を持ち、壊れていない《残響》の保持者は——今この瞬間、お前だけだ」
「俺が?」
「そうだ」
エルクは自分の手を見た。
普通の手だった。
この手が世界を終わらせる鍵だと、この男は言っている。
「断ったら」
「門は開かない。今は、まだ」
「今は、まだ」
「《残響》なしでも、いずれ別の方法を探す。だが——お前が触れれば、今夜終わる」
ライディスが前に出た。
「エルク」
その声が、いつもと違った。
命令ではなかった。
「近づくな。あれに触れるな」
「お前に従う理由がない」
「理由は一つだ」
ライディスは円環を見た。
「あれに触れれば——お前の《残響》が、どうなるかわからない。過去の継承者は全員、情報の暴走で壊れた。門の情報量は、戦場の比ではない。触れた瞬間に、お前という存在が——」
「壊れる」
エルクが続けた。
「かもしれない」
「確実にそうなる」
「確実ではない」
ノクトが言った。
「だから私はエルクを選んだ。壊れていない。これだけの状況で、まだ《残響》を制御している。過去の継承者とは根本的に器の質が違う」
エルクは二人を見た。
ライディスは止めようとしている。ノクトは開けようとしている。どちらも、エルクという存在を中心に話している。だが——エルク自身の意志を、誰も聞いていなかった。
「俺が決める」
エルクは言った。
両者が、エルクを見た。
「俺の《残響》で、俺が決める。お前たちのどちらかの命令で動くつもりはない」
沈黙が落ちた。
リアが、エルクの隣に来た。
「エルク」
小さく言った。
「どうするつもりだ」
エルクはリアを見た。
「わからない」
「正直だな」
「わからないから、近づいてみる」
「馬鹿か」
「たぶん」
リアは少し目を伏せた。
それから、大剣を背負い直した。
「なら私も行く」
「危ない」
「私だけ安全な場所にいられるか」
シュウが前に出た。
「俺も行く。当然だろ」
「シュウ——」
エルクは二人を見た。
何も言えなかった。
ありがとう、という言葉が喉まで来て、出てこなかった。出す必要がない気がした。
三人は空洞の縁へ向かった。
ライディスが前に出ようとした。
ノクトが、その前に立った。
「退け……ライディス」
ノクトの声が、低くなった。
「お前には止める力がない。」
「やってみなければわからない」
「無駄死にするな」
「死なない」
ライディスは風を展開した。
ノクトが黒炎を広げた。
二人の力がぶつかった。その衝撃が空洞に響き、円環の光が一瞬強くなった。
その隙に、エルクたちは縁から飛び降りた。
空洞の底は、思ったより遠くなかった。
崩れた岩の斜面を滑るように降りて、黒い金属の床に着地した。固かった。冷たかった。だが金属の感触は、不思議と生きていた。足から何かが伝わってくる。微弱な振動。鼓動のような、規則的な何かが、床全体を流れていた。
「でかい」
シュウが見上げた。
円環が、目の前にあった。
上から見下ろしていた時とは、全く違う印象だった。
五十メートルを超える巨大な輪が、頭上に広がっていた。黒い金属の表面に刻まれた文字が、間近で見ると細部まで精緻だった。一本の線が、複雑に折り重なって文字を形成していた。それが無数に、円環の全周を覆っていた。
浮遊する文字が、近くで見ると光の粒子で構成されていた。
粒子が集まって文字を形成し、ゆっくりと動きながら、円環の内側へ向かって流れていく。吸い込まれるように。
円環の内側の空間は——近づくと、さらに異質だった。
向こう側が見えそうで、見えなかった。
青みがかった空気が、膜のように張っていた。触れれば何かが起きる、という予感が、本能として来た。
《残響》が限界に近かった。
床から伝わる振動が、《残響》と共鳴していた。足の裏から情報が流れ込んでくる。この施設全体が、《残響》に向けて何かを送り続けていた。
「……聞こえる」
エルクは呟いた。
「何が」
シュウが聞く。
「門が——話している」
言語ではなかった。
情報だった。
門が、エルクへ向けて直接、情報を送り込んでいた。《残響》を通じて。
内容は取れなかった。
量が多すぎた。
耳鳴りが来た。
強いノイズが混じった。制御しようとして、できなかった。《残響》が大きく開いた。
流れ込んできた。
声だった。
一つではなかった。無数だった。
「開くな」
女の声だった。どこの言語かわからない。だが意味だけが来た。
「開け」
老いた男の声だった。
「戻れ」
子供の声だった。
「終わらせろ」
知らない声だった。
「もう終わりにしろ」
また別の声。
「まだ終わるな」
また別の。
全部重なった。
矛盾した声が、同時に来た。開けという声と、開くなという声が、同じ大きさで混ざり合った。どちらが正しいかわからない。どちらも正しいのかもしれない。別の世界線から来る声なら、どちらも本物だ。
「っ——」
エルクは頭を抱えた。
「エルク!」
リアが駆け寄る。
「《残響》か」
「……声が。たくさん。矛盾してる。全部同時に来る」
「こらえろ」
「こらえてる…」
「もっとこらえろ」
「これ以上言うな」
シュウが二人の間に割り込んだ。
「エルク、一個だけ聞く。今、自分が誰かわかるか」
「……エルク・レイン」
「どこから来た」
「日本から。」
「俺は誰だ」
「シュウ。うるさい同僚みたいなやつ」
「同僚じゃなくて仲間だろ」
「……仲間だ」
「よし」
シュウが肩を叩いた。
「自分が誰かわかってる。まだ壊れてない」
エルクは息を整えた。
シュウの声が、ノイズを押し返した。現実の声が、《残響》の濁流を一瞬だけ薄めた。
「ありがとう」
「礼はいい。で、どうする」
エルクは円環を見た。
声はまだ来ていた。矛盾した声たちが、頭の奥で重なり合っていた。だがシュウの言葉で、少しだけ焦点が戻った。
「触れてみる」
「やっぱりそうなるか」
シュウは円環を見上げた。
「ただ、触れた後に帰ってこい」
「帰ってくる」
「約束だぞ」
エルクはリアを見た。
リアは何も言わなかった。
ただ頷いた。
それで十分だった。
エルクは円環へ向かって歩いた。
一歩ずつ。
近づくほど、《残響》が強くなった。声の量が増えた。ノイズが増えた。視界の端に、別の世界の断片が見え始めた。
知らない都市。
知らない空。
知らない戦場。
知らない顔の人々が、一瞬だけ現れて消えた。
別の世界線のエルクが、見えた気がした。
死んでいるエルクだった。
戦場で倒れているエルクだった。
《残響》を持ったまま、暴走して消えたエルクだった。
無数の、別の世界線の自分が、一瞬ずつ見えた。
壊れた自分が、無数にいた。
「……俺だけか」
エルクは呟いた。
壊れていないのが。
無数の世界線の中で、壊れずにここまで来たのが、この世界線の自分だけなのか。
それが何を意味するのか、まだわからなかった。
だが——足は止まらなかった。
円環の前に立った。
内側の空間が、目の前にあった。
青みがかった膜。向こう側が見えそうで見えない空間。
《残響》が、最大まで開いた。
制御ではなかった。
限界を超えた。
流れ込んでくる声が、もう数えられなかった。無数の世界の無数の声が、エルクという一点に集まってきた。
手を伸ばした。
「エルク——!」
リアの声が来た。
・
・
・
指先が触れた。
光が生まれた。
円環全体が、一瞬で白く輝いた。
浮遊する文字が、全部同時に動いた。台座の計器が、一斉に反応した。床の振動が、爆発的に強くなった。
《残響》が、完全に開いた。
世界が——
エルクの視界が、白に飲み込まれた。
声が止まった。
無数の声が、一瞬だけすべて止まった。
沈黙だった。
完全な沈黙が、一瞬だけあった。
そして——
全部が来た。
死者の声。別世界の記憶。滅んだ文明の記録。未来の断片。過去の残骸。世界崩壊の記録。異世界召喚の記録。無数の勇者たちの最後の瞬間。古代戦争の全記録。門が作られた日の記憶。門が封じられた日の記憶。
全部が、一度に来た。
エルクは消えなかった。
壊れなかった。
ただ——全部受け取った。
光の中で、エルクは立っていた。
そして光はこの場にいる全てを包んだ。
リアとシュウが光に飲み込まれた。
ライディスと追跡部隊が光に飲み込まれた。
ノクトが、光の中で目を閉じた。その表情に、安堵があった。
世界が、白くなった。




