門 (2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
限界だった。
岩盤が、もう耐えられなかった。
最初の亀裂から広がり続けた裂け目が、臨界点を超えた。縁から岩の塊が崩れ落ちる速度が上がった。一つ、二つ、三つ——連鎖するように、斜面全体が動き始めた。
「散れ!」
ライディスが叫んだ。
追跡部隊が四方へ跳んだ。エルクはリアに腕を引かれ、後方へ跳び退いた。シュウが転がるように斜面を駆け上がった。ノクトだけが動かなかった。崩れていく岩盤の縁に立ったまま、下を見ていた。
轟音が来た。
地響きではなかった。
世界が割れる音だった。
斜面の中央部が一気に陥没した。岩盤が砕け、土が崩れ、雪が消えた。巨大な口が山の斜面に開いた。直径にして三十メートルは超えるだろう空洞が、突然そこに生まれた。
粉塵が上がった。
白い霧のような粉塵が、空洞から噴き上がった。それが風に流れ、視界を覆う。エルクは目を細めながら、粉塵が晴れるのを待った。
そして晴れた。
誰も声を出さなかった。
空洞の底に、それはあった。
遺跡だった。
遺跡、という言葉が正しいかどうかもわからなかった。エルクが知っている遺跡の概念とは、まるで違うものがそこにあった。
黒い金属だった。
岩盤の中に埋まっていた構造物の表面が、すべて黒い金属で覆われていた。錆びていない。腐食していない。何百年、何千年が経過したとしても、その金属は完璧な状態を保っていた。光を吸収するような、深い黒だった。
その黒い金属の表面に、文字が刻まれていた。
刻まれている、というより——浮かんでいた。
文字が、金属の表面から数センチ浮き上がり、青白い光を放ちながら空中に存在していた。風が吹いても動かない。重力に従わない。ただそこに、あった。
エルナトの魔導技術とも違う。ライディスの魔法とも違う。ノクトの力とも違う。
もっと根源的な何かだった。
魔法と機械の境界が存在しない、そういう技術だった。
円環の全体が、今は見えた。
巨大だった。
直径は五十メートルを超えていた。黒い金属で作られた輪が、地下空間の中央に垂直に立っていた。完全な円だった。歪みがない。何千年が経過しても、一ミリの誤差もなく円を保っていた。
その円環の内側に、空間があった。
空間、と言うしかなかった。
円環の内側だけ、空気の色が違った。わずかに、青みがかっていた。向こう側が見えるはずの場所が、微妙に歪んでいた。光の屈折が、普通ではなかった。
覗き込めば、別の何かが見えそうな——そういう空間だった。
「……」
シュウが開いた口を塞げないでいた。
「なんだ、あれ」
誰も答えなかった。
円環の周囲に、小さな構造物が並んでいた。台座のようなものが等間隔に配置され、それぞれの上に浮遊する文字の塊が灯っていた。計器のようにも見えた。何かを観測し、記録し、制御するための装置のように見えた。
それらすべてが、今も動いていた。
いつ作られたものか分からないが、今この瞬間も機能していた。
百年、千年?推測もできない。
「……異世界ってレベルじゃねえぞ」
シュウがもう一度言った。
エルクは空洞の縁に立ち、下を見ていた。
《残響》が、激しく揺れていた。
引力だった。
円環から発せられる何かが、《残響》を引き寄せていた。足が前へ出たがっていた。意識で止めていた。止めながら、流れ込んでくる情報を必死に処理していた。
言語の断片。
知らない文字の意味が、翻訳されることなく感覚として流れ込んでくる。円環に刻まれた文字の一つ一つが、《残響》を通じてエルクに何かを伝えようとしていた。
意味は取れない。
だが——呼ばれている感覚だけは、はっきりとあった。
「ノクト」
ライディスが言った。
低い声だった。
ノクトは空洞の縁に立っていた。崩落の中でも動じず、今は静かに円環を見下ろしていた。
「これが目的か」
ライディスが続けた。
「最初から。エルクを追っていたのは、これを見つけるためか」
ノクトは答えなかった。
「門、と言ったな。あれが」
「そうだ」
ノクトは初めて、ライディスへ向き直った。
「これが門だ」
シュウがノクトに近づく。
「何をする装置だ」
「装置ではない」
ノクトは円環を見た。
「世界と世界を繋ぐ境界だ」
シュウが眉を寄せた。
「別の場所に移動できるのか?」
ノクトは首を振った。
「違う」
「じゃあ何が——」
「開けば」
ノクトが言った。
「世界そのものが混ざる」
静寂が落ちた。
風が吹いた。粉塵の残りが流れていく。円環の青白い光が、その風の中で揺れた。
「世界が、混ざる」
エルクは繰り返した。
「どういう意味だ」
ノクトは少しの間、円環を見ていた。
それから話した。
「この世界は一つではない」
静かな声だった。
「無数の世界が、層を成して存在している。それぞれは独立している。交わらない。交わるべきではない」
「でも門を開けば交わる」
「交わる、という言葉では足りない」
ノクトは円環の内側の、青みがかった空間を見た。
「混ざる。融合する。二つの世界線が一つになる。歴史も」
「歴史も」
「命も」
「文明も」
「全て混ざる」
シュウが息を呑んだ。
「……それ、世界終わるんじゃ」
ノクトは答えた。
「終わる」
シュウ、
「終わる、って——」
「だからこそ価値がある」
ノクトのその言葉が、空洞に落ちた。
誰も動かなかった。
ライディスの目が変わった。追跡部隊の男たちが、互いを見た。リアが大剣の柄を握り直した。
エルクはノクトを見た。
「お前は世界を終わらせたいのか」
「終わらせたい、ではない」
ノクトは言った。
「更新したい」
「……同じことだ」
「違う」
ノクトの声に、初めて——ほんのわずかだが——何かが混じった。感情ではなかった。記憶だった。
「かつて、魔族の世界があった」
静かに言った。
「この世界とは別の世界線に。豊かな世界だった。文明があった。歴史があった。命があった」
「……それが」
「失われた」
ノクトは円環を見た。
「何が原因かは、今となってはわからない。ただ——失われた。世界ごと。痕跡も残さず」
「だから門を開く」
「失われた世界の情報は、どこかの世界線に残っている。《残響》が証明している。情報は消えない。別の世界線に、残骸として残り続ける」
エルクは《残響》が受信し続けているものを思った。
死者の声。別世界の記憶。滅んだ文明の残骸。
「門を開けば」
ノクトは続けた。
「失われた世界と、この世界が混ざる。かつてあったものが、新しい形で戻る」
「だが——この世界も変わる」
「変わる、いや我々の世界が元に戻るんだ」
リアが言った。
「人が死ぬかもしれない、それでも構わないのか」
ノクトは答えなかった。
沈黙が、答えだった。
エルクは円環を見た。
青白い光が揺れていた。
浮遊する文字が、ゆっくりと動いていた。何かを待っているように。何かが来るのを、何千年も待ち続けてきたように。
《残響》が、また揺れた。
足が、また前へ出たがった。
エルクは踏みとどまった。
リアが、エルクの隣に立った。
「エルク」
小さく言った。
「無理に堪えるな。《残響》が何を受け取っているか、聞かせろ」
「……たくさん来る。制御できない」
「全部話さなくていい。一番強いものだけ」
エルクは少し考えた。
「呼ばれている」
「誰に」
「わからない。でも——門が、俺を呼んでいる」
リアは何も言わなかった。
ただ、エルクの隣に立ち続けた。
ライディスが、ノクトへ向き直った。
その目に、いつもの冷静さが戻りつつあった。混乱を、論理で押し込めようとしている目だった。
「世界を更新する」
ライディスが言った。
「お前たちの目的はそれか。だから《残響》を必要とした。だから勇者召喚に介入した。だから——」
「お前には関係ない」
「大いに関係がある」
ライディスは一歩前へ出た。
「レグルスは、この世界を守る。今ある世界を守る。それが我々の使命だ。世界を更新などという理由で——」
「守る?」
ノクトが遮った。
その声が、初めて低くなった。
「勇者を番号で管理し、消耗させ、使い捨てる国家が——何を守ると言う」
ライディスは答えなかった。
「お前が守りたいのは世界ではない」
ノクトは続けた。
「レグルスという国家だ。その秩序だ。その支配だ」
「……同じことだ」
「同じではない」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
円環の光が、また強くなった。
浮遊する文字の動きが速くなっていた。何かが近づいている。何かが、来ようとしている。
エルクは《残響》が限界に近づいているのを感じた。
受信量が増えている。
門が近い。物理的な距離だけではなく——《残響》にとっての距離が、急速に縮まっていた。
「……まずい」
エルクは呟いた。
「どうした」
シュウが見る。
「《残響》が——門に引き寄せられてる。距離は関係ない。近づいていなくても、どんどん強くなってる」
「止められるか」
「わからない」
円環の光が、一段階強くなった。
青白かった光が、白へ近づいた。
浮遊する文字が、円環の内側へ向かって流れ込み始めた。吸い込まれるように。収束するように。
円環の内側の、青みがかった空間が——揺れた。
「来るぞ」
ノクトが言った。
誰へ向けた言葉でもなかった。
ただ、確認だった。
ーー現在分かっている情報ーー
門 異世界、別の世界線に繋がっている、開くと世界が融合し歴史が更新される。




