門 (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
誰も動かなかった。
戦闘が、止まっていた。
ライディスも。ノクトも。追跡部隊も。エルクたちも。全員が同じ方向を見ていた。
裂け目の奥から、光が漏れていた。
岩盤が割れた断面から覗く地下空間。その底に、それはあった。
光る文字だった。
文字、と言っていいのかわからなかった。エルクが知っているどの言語とも違う。日本語でも英語でも、この世界の言語でもない。幾何学的な線が複雑に絡み合い、規則的なのか不規則なのかも判断できない紋様が、淡い青白い光を放ちながら岩盤の奥に広がっていた。
円環だった。
巨大な円環構造が、地面の下に眠っていた。
裂け目から見える範囲だけで、その大きさが想像を絶していた。端が見えない。どこまで広がっているのかわからない。山一つ分か。それ以上か。
「……異世界ってレベルじゃねえぞ」
シュウが呟いた。
誰も笑わなかった。否定もしなかった。
エルクは裂け目を見つめたまま、動けなかった。
《残響》が、騒いでいた。
今まで経験したことのない騒ぎ方だった。ノイズではない。暴走でもない。もっと根源的な何かが、エルクの内側で引っ張られている。磁石が鉄を引き寄せるように、裂け目の奥の光が《残響》を引いていた。
引き寄せられている。
足が、一歩前へ出た。
意識してではなかった。
「エルク?」
リアの声が来た。
エルクは足を止めた。
「……なんでもない」
「なんでもなくない。顔が白い」
「大丈夫だ」
大丈夫ではなかった。
《残響》が受信し始めていた。
光から来るものがあった。裂け目の奥から、信号のように流れ込んでくる。言語ではなかった。感覚でもなかった。もっと直接的な情報の流れだった。
耳鳴りが来た。
ノイズが混じった知らない言語が聞こえた。
複数の、同時に。重なり合って意味をなさない言葉の断片が、頭の中を流れていく。
次に来たのは——音だった。
雑踏だった。
車の音。人の声。アスファルトの上を歩く靴の音。どこかのビルの空調の音。スマートフォンの通知音。
現代の、都市の音だった。
「っ——」
エルクは頭を押さえた。
次の瞬間、それが消えた。
代わりに来たのは泣き声だった。子供の声だった。どこの言語かわからない。ただ泣いていた。激しく、助けを求めるように。
それも消えた。
今度は爆発音だった。砲声だった。誰かが叫んでいた。戦争だった。どの時代の戦争かわからない。古い武器の音と、知らない兵器の音が混ざっていた。
全部混ざった。
都市の雑踏と、泣き声と、戦争と、知らない言語と、沈黙と、誰かの笑い声と——
「エルク!」
リアが肩を掴んだ。
現実が戻ってきた。
雪の斜面。裂け目の光。三人の顔。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
リアはエルクの手首を掴んだ。魔力の流れを抑えようとする。だが今回は、いつもより難しそうだった。リアの眉が、わずかに寄った。
「《残響》が……引っ張られている」
「わかってる」
「光から来てるのか」
「たぶん」
エルクは裂け目を見た。
光は変わらず、静かに輝いていた。
その時、ライディスが動いた。
「撤退しろ」
静かな声だった。
だが、いつもと違った。
命令の声に、わずかだが——焦りが混じっていた。
追跡部隊員たちが顔を見合わせた。今の今まで激しく戦っていた男が、突然撤退を命じた。動揺が隊に走った。
「全員下がれ」
ライディスが繰り返した。
その時、地面が揺れた。
小さな振動ではなかった。裂け目の縁が崩れ始めていた。ノクトとライディスの魔力がぶつかった衝撃が、岩盤に限界を超えた負荷をかけていた。亀裂が広がっていく。裂け目の端から岩の塊が崩れ落ち、地下空間へ吸い込まれていった。
落下音が、遠く深く響いた。
底が、深い。
裂け目がさらに広がった。光が強くなった。円環の紋様が露出する面積が増えるたびに、青白い光の量が増していく。光の中に浮かぶ幾何学文字が、揺れるように動いた。
生きているようだった。
ノクトはその光景を見ていた。
動かなかった。崩落が起きても、岩が落ちても、光が強くなっても——ただ見ていた。その金色の瞳が、裂け目の奥を映していた。
感情は見えなかった。
だが、その静けさの奥に、長い時間をかけて探し続けてきた何かへの——確信が、あった。
裂け目がまた広がった。
今度は大きかった。斜面全体が揺れた。追跡部隊の数人が体勢を崩した。雪が崩れ、岩が転がった。
「近づくな」
追跡部隊へ向かって歩きながら、もう一度言った。
「下がれ。今すぐ」
追跡部隊が動き始めた。混乱しながらも、ライディスの命令に従って斜面を上がっていく。数人が裂け目を振り返りながら後退した。その顔に、エルクは初めて見るものを見た。
追跡部隊の、恐怖だった。
任務だけで動いていた人間たちが、初めて感情を見せた。
「全員下がれ」
ライディスが三度、言った。
その声は——もう命令ではなかった。
懇願に、近かった。
リアが裂け目とライディスを交互に見た。
「知っているのか」
リアがライディスへ言った。
「あれが何かを」
ライディスは答えなかった。
リアを一瞥だけして、また追跡部隊の方へ向いた。
その横顔が——エルクには、今までのライディスと違って見えた。
数字で世界を見る男が、初めて数字では処理できないものを前にしている顔だった。
ノクトは動いていなかった。
裂け目の光を、静かに見つめていた。
金色の瞳が、その光を受けて輝いていた。
「ようやく見つけた」
ノクトが言った。
誰かへの言葉ではなかった。
ずっと探していたものへの——到達の言葉だった。
その声に、エルクは背筋が冷えた。
ノクトがここへ来た理由が、今初めてわかった気がした。エルクを観察するためだけではなかった。エルクを通じて、これを見つけるために来ていた。
「ノクト」
エルクは言った。
「あれは何だ」
ノクトはエルクを見た。
「門だ」
それだけ言った。
裂け目の光が、また強くなった。
円環の紋様が、ゆっくりと動き始めていた。
ーー現在分かっている情報ーー
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