魔族の国(2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第六章
ルシラは、戦いの合間に、崩れかけた研究施設へ、向かった。
クライマで唯一、魔導研究の拠点として使っていた建物だった。
一角が崩れ、入り口に瓦礫が積み重なっていた。それをどけて、中へ入る。
棚が倒れ、本が散乱していた。
百年かけて集めた資料だった。
門の理論書。召喚術の記録。世界融合に関する考察。ルシラが人生を費やして、追い続けてきた知識のすべてが、ここにあった。
一冊を、拾い上げた。
自分の手書きの注釈が、余白に、びっしりと書き込まれていた。
ルシラは、それを、見つめた。
窓の外から、子どもの泣き声が聞こえた。顔を上げると、兵士に連れられた家族が、建物の前を、走り過ぎていった。小さな子どもが、振り返りながら、泣いていた。何かを置いてきたのだろう。
ルシラは、その子どもが消えた後も、しばらく、窓を見ていた。
「もう研究じゃない」
誰もいない部屋で、言った。
「今、残すべきは未来だ」
手の中の本を、床に、置いた。
魔法陣を、描いた。
炎が、静かに、燃え上がった。
百年分の資料が、静かに、燃えていった。
悔いはなかった。
研究より命を選ぶ。
ただ、それだけのことだった。
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戦いが続く中、門から黒い光の柱が、真っ直ぐに、空へ伸びた。
遠くの空でも、同じ光が、立ち上っていた。
エルナトの方角。
ヴァルガンの方角。
エークレイアの方角。
それぞれの光が、空の一点へ向かって、収束していった。
交わった場所が、黒く、輝いた。
兵士の一人が、それを見上げて、叫んだ。
「魔王様が! 魔王様が来てくださる! 魔王様なら、何とかしてくださる!」
その声に、周囲の兵士たちも、空を見上げた。すがるような目だった。信じたい、という気持ちが、その顔に、滲んでいた。
ノクトは、その兵士たちを、見た。
「……あの方は」
低い声で、言った。
「もう、この国を見ていない」
兵士たちが、振り返った。
「人間も、魔族も、国家も、歴史も、あの方には区別がない。世界をやり直すためなら、全部、必要ない」
「そんな……」
「私たちも、滅びる側だ」
沈黙が、落ちた。
兵士たちは、言葉を、失った。
魔王軍として、何年も、戦ってきた者たちだった。魔王のために、戦ってきた者たちだった。その魔王が、自分たちを救わない。自分たちすら、この世界の「材料」に過ぎない。
誰かが、地面を、殴った。
誰かが、泣いた。
誰かは、ただ、空を、見続けていた。
ノクトは、それ以上、何も言わなかった。
言葉よりも、今は、やるべきことがあった。
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避難が、完了した頃、ノクトは、街を、見渡した。
燃えている区画があった。
崩れた建物が、道を塞いでいた。
魔王城の一角が、静かに、崩れ始めていた。
街の中に、もう、動く住民の姿は、なかった。
全員、逃げ切れた。
「全軍撤退」
ノクトが、命令した。
「街を捨てる」
誰も、すぐには、動かなかった。
副官が、口を開きかけた。ここはクライマの首都だ。この国の中心だ。魔王城がある場所だ。そう言いたかったのだろう。
しかし、ノクトの目を見て、言葉を、引っ込めた。
「……従います」
兵士たちが、動き始めた。
苦しそうな顔をしていた。
振り返りながら歩いていた。
それでも、誰も、逆らわなかった。
守るべき命は、守った。
街は、また、作れる。
命だけは、取り戻せない。
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城の外へ出ると、ルシラが、待っていた。
法衣が、煤で、汚れていた。
それを気にする様子もなく、遠くの空を、見ていた。
「終わった?」
「ああ」
「死者は」
「いない」
ルシラは、それを聞いて、小さく、息を吐いた。
「そう」
それだけだった。
二人は、並んで、高台へ向かった。
後ろから、兵士たちが続いた。
高台から見下ろすと、クライマの街が、見えた。
いくつかの区画が、燃えていた。
魔王城の尖塔の一本が、傾いていた。
門の周辺の大地は、深く、えぐれていた。
住民たちが、その光景を、見ていた。
老人が、膝をついていた。
子どもが、母親の腕の中で、泣いていた。
兵士たちの中には、故郷が燃えるのを見ながら、何も言わずに立っている者もいた。
ルシラが、静かに、呟いた。
「これが……あの方の望んだ世界」
ノクトは、すぐには、答えなかった。
街が、燃えていた。
魔王城が、崩れていた。
かつて魔王が治めていた国が、ただの廃墟になろうとしていた。
「違う」
ノクトが、言った。
「あの方が望んでいるのは、この先だ。これは、始まりに過ぎない」
「始まり」
「世界が、一つになった後の光景だ。あの方が望むのは、その先にある、新しい何かだ」
「新しい何か」
ルシラが、繰り返した。
「今ここにいる者は、誰も、その光景を見られない」
「そうだ」
しばらく、沈黙があった。
街の炎が、夕暮れの空を、赤く、染めていた。
ノクトは、剣を、握り直した。
「今度は守る」
低く、言った。
「魔族も。人間も。この世界そのものを」
ルシラは、ノクトを見なかった。
ただ、街を、見続けていた。
「格好いいことを言うのね」
「お前も来るだろう」
「……そうね」
ルシラが、くるりと、背を向けた。
「行くわよ。エークレイアへ」
ノクトは、もう一度だけ、クライマを見た。
燃える街。
崩れる城。
泣く住民たち。
そして、誰もいなくなった、玉座の間。
その窓から見えるはずの、巨大な玉座だけが、静かに、残されているだろう。
もう、誰も、そこに座ることはない。
魔王は、魔族の王ですら、なくなった。
ノクトは、踵を返した。
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城を出る時、兵士たちが、道の両脇に、並んでいた。
見送りではなかった。
これからの指示を、待っていた。
ノクトが、副官へ、言った。
「民を安全な場所へ連れていけ。南部の砦を使え。食料と水の確保を最優先にしろ」
「将軍は」
「エークレイアへ向かう。この戦いは、もう、クライマだけの問題ではない」
副官は、頷いた。
「……ご武運を」
兵士たちの一人が、敬礼した。
隣の者も、続いた。
また、隣も。
やがて、道の両脇に並んだ兵士全員が、揃って、敬礼した。
ノクトは、それに、わずかに、頭を下げた。
それで、十分だった。
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二人は、クライマの城壁の外へ、出た。
背後に、黒い岩山と、白い煙と、遠くでまだ続いている炎の音が、残った。
前方には、エークレイアへ向かう道が、続いていた。
しばらく歩いた後、ルシラが言った。
「ノクト」
「何だ」
「あの研究資料、燃やしてきた」
ノクトは、少しの間、何も言わなかった。
「そうか」
「百年分よ。惜しいでしょう」
「惜しくない」
「どうして」
「お前がそれを選んだなら、それが正しい」
ルシラは、前を向いたまま、少し、笑った。
「随分、信頼されているのね、私」
「信頼しているわけではない」
「じゃあ、何」
「お前は、正しい方を、選ぶと、知っている。それだけだ」
ルシラは、何も言わなかった。
ただ、歩く速度が、わずかに、速くなった気がした。
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その夜。
エルナトの空の亀裂。
ヴァルガンの岩山の裂け目。
エークレイアの大樹の黒い筋。
クライマの門からの光の柱。
レグルスの廃墟に残る門の痕跡。
それぞれから、黒い光が、細く、伸びていた。
光は、空の中央で、一点に、集まっていった。
集まった光が、輪を作った。
輪が、広がった。
広がりながら、さらに、深い黒さになっていった。
その中心に、存在が、あった。
完全な肉体を得た魔王が、立っていた。
これまでの思念体ではない。
輪郭の揺らぎも、半透明の肌も、なかった。
ただ、人の形をした、圧倒的な存在が、そこに、立っていた。
静かに、目を閉じていた。
そして、低く、言った。
「あと少しだ」
その声は、どこにも、届かなかった。
しかし、世界中の門が、その言葉に呼応するように、一瞬、同時に、脈打った。
遠く、エークレイアでは、大樹の最上部の葉が、一枚、また、静かに、落ちた。




