魔族の国(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第六章
魔族の国クライマは、黒かった。
険しい山脈が、国土を四方から取り囲んでいた。
その山肌は黒い岩で形成されており、頂には常に赤黒い雲が漂っていた。
巨大な岩山を削って築かれた都市には、魔力結晶が埋め込まれた建造物が立ち並び、夜になると結晶が淡く光を放つ。
空は人間の国よりも一段暗く、太陽の光も、どこかくすんで見えた。
しかし、そこにも確かな暮らしがあった。
市場では、屈強な体格の魔族の商人が、魔獣の肉や黒い鉱石を並べて声を張り上げていた。
鍛冶屋の前には、武器の出来を確かめる兵士の列ができていた。
角を持つ子どもたちが、石畳の路地を走り回り、翼を持つ魔族が荷物を抱えて橋を渡っていた。
屈強な魔族兵が街を巡回し、老婆が窓辺に花を飾り、父親が子どもの肩を抱いて歩いていた。
城壁の近くでは、兵士の交代式が、行われていた。
夜番から朝番へ。
疲れた顔の兵士が、あくびを噛み殺しながら、武器を渡す。
受け取った兵士が、「ご苦労」と、短く言う。
それだけの、普通のやり取りだった。
争いを好む文化であった。
そして力を尊ぶ価値観の国だった。
だが、それは弱肉強食の殺伐とした世界ではない。家族を持ち、仲間と笑い、酒を飲み、日々を積み重ねていく。ただそれだけの、普通の民が暮らす場所だった。
人間の国とは、文化が違う。
見た目が違う。
言葉が違う。
それでも、「暮らし」の形は、どこも同じだった。
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ノクトとルシラが国境の砦へ戻ると、第四軍と第二軍の兵士たちが、一斉に顔を上げた。
「将軍が戻られた」
誰かが言った。
その言葉に、砦全体の空気が、わずかに、緩んだ。第四章の戦役以来、二人の将軍が不在だった。その間、指揮を任されていた副官たちが、どれだけ不安だったか、兵士たちの顔に、それが滲んでいた。
しかし、ノクトは歓迎の言葉を遮るように、すぐに命令を下した。
「全軍へ伝達。非常警戒態勢へ移行」
兵士たちが、戸惑いながらも、動き始めた。
「門の周辺には誰も近づけるな。結界の強度を最大にしろ。避難経路の確保を最優先にする」
「将軍、何が——」
「時間がない。動け」
ノクトの声に、返答は必要なかった。兵士たちは走り出した。
ルシラは、砦の観測施設へ向かった。魔力観測の機器が並ぶ部屋に入り、各地からの報告書を手に取った。数字を読む。次のページ。また次のページ。
読み終えると、そのまま、しばらく動かなかった。
「あの方が……本当に動き始めた」
誰もいない部屋で、静かに呟いた。
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ノクトは、魔王城へ向かった。
クライマの都市の最奥に建つ、巨大な黒い城だった。城壁の高さは、周囲の岩山に匹敵する。無数の尖塔が空を突き、その頂から黒い旗が翻る。遠くから見れば、まるで山そのものが城になったような威容だった。
しかし、城門をくぐると、異様な静けさがあった。
近衛兵がいなかった。
広間も、回廊も、誰もいなかった。
足音だけが、石の床に、響いた。
玉座の間の扉を、押し開けた。
誰もいなかった。
巨大な玉座だけが、そこに、佇んでいた。黒い石で作られた玉座は、かつては魔王が座り、この国を治めていた場所だった。側近が控え、兵士が警護し、臣下が膝をついていた、その場所に、今は、誰もいない。
ノクトは、その玉座を、しばらく見つめた。
「……もう、この国すら見ていないのか」
声は、広間に、ゆっくりと、消えていった。
答える者は、いなかった。
玉座は、静かだった。
それだけで、全てがわかった。
魔王は、もはや一国を治める存在ではない。この玉座に戻る理由を、持っていない。世界そのものを動かそうとしている者に、一つの国の玉座は、もう関係がなかった。
ノクトは、踵を返した。
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城に戻ったノクトへ、報告が届いたのは、それからすぐのことだった。
「将軍。各地の門から、魔力の異常上昇が確認されています。上昇速度が、これまでの測定値を大幅に超えています」
「門の周辺住民の避難は」
「まだ、完了していません。北部の集落が——」
その時、地面が、揺れた。
最初は、わずかな振動だった。
次の瞬間、城全体が、激しく、揺れた。
窓ガラスが砕け、天井から石が落ちた。柱に、亀裂が走った。外から、轟音が聞こえた。続けて、悲鳴が。
兵士が飛び込んできた。
「将軍! 門が、暴走しています!」
ノクトは、すでに、走り出していた。
城外へ出ると、北の方角の空が、黒く、裂けていた。
第四章の北部の門とは、比べものにならなかった。裂け方が、違った。あの時は、空間に亀裂が入っていた。今は、空そのものが、割れていた。その裂け目から、黒い雷が、地へ向かって、走り続けていた。地面には、無数の亀裂が広がっていた。岩山の一角が、崩れ始めていた。
街中から、悲鳴が、上がっていた。
「第四軍!」
ノクトの声が、城壁の上から、響いた。
「迎撃に出ろ! 住民には近づけるな!」
重装の魔族兵たちが、城門から飛び出していく。盾を構えた前列が、崩れた石畳を踏み越えて、進んでいく。剣士たちがその後ろから続いた。大型の魔族兵たちは、倒壊しかけた建物へ走り、柱を肩で支えながら、中の住民を引きずり出した。
「第二軍!」
ルシラが、後方から声を上げた。
「結界班、避難経路を確保! 治療班は中央区画へ!」
第二軍の魔導士たちが、展開した。複雑な魔法陣が、次々と空中に描かれていく。巨大な防御結界が、通りを覆い、住民が逃げるための道を作っていく。別の班が、瓦礫の中から負傷者を引き出し、治療魔法をかけながら、安全な場所へ運んでいく。
門から、異界獣が、現れ始めた。
巨大な四足獣。岩のような甲殻を持つ個体。翼を広げた飛行型。そして、形が定まらない、魔力だけで構成された人型。どれも、これまで見たことのない種類だった。
第一軍は、正面から討伐しようとはしなかった。街の中へ入らせないことだけを、目的にした。
盾を重ね、槍を突き出し、後退しながら、時間を稼ぐ。
一体が、盾の列を突き破ろうとした瞬間、ルシラの魔力が、その側面を打った。直撃ではない。軌道を逸らすだけで、十分だった。
「中央を崩すな!」
ノクトが走りながら叫んだ。
「一点突破を許せば、住民が逃げ切れなくなる!」
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避難が進む中で、泣き声が聞こえた。
路地の奥、崩れた建物の残骸の中に、小さな魔族の子どもが、立ち尽くしていた。角がまだ小さい。翼も、まだ、羽毛が生え揃っていない。体が、震えていた。
周囲には、大人がいなかった。
ノクトが、そちらへ向かった。
子どもの前で、膝をついた。
「怪我は」
「……ない」
「家族は」
「お父さんが、あっちに行って、帰ってこない」
子どもは、泣いていなかった。泣くことすら、忘れているような顔をしていた。
ノクトは、その子どもを、抱え上げた。
「一緒に来い。お父さんを探す」
「本当に見つかる?」
「見つかる」
確証はなかった。
しかし、迷いなく、答えた。
子どもが、ノクトの首に、両腕を回した。体が、震えていた。ノクトは、それを、しっかりと、抱き直した。
「大丈夫だ」
「必ず守る」
その言葉に、嘘はなかった。
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