聖都の異変(3)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第六章
日が傾き始めた頃、街の外縁に、人影が現れた。
見張りのエルフが声を上げかけて、止まった。
その人影は、ゆっくりと、両手を広げていた。
武器を持っていないことを、示すように。
長い裾の黒い衣服。
肩から胸元へ流れる黒髪。
感情の読めない金色の瞳。
ノクトだった。
エルクたちが、街の入り口へ向かう間、見張りたちはノクトを囲んでいたが、攻撃はしていなかった。
ノクトの方も、動いていなかった。
ただ、静かに、待っていた。
「来ると思っていた」
エルクが、近づきながら言った。
「何かあったのか」
ノクトは、エルクを見た。
その目には、いつもの知的な静けさがあった。
だが、その奥に、これまで見たことのない、消耗の色があった。
長く、休んでいないような目だった。
「クライマが、やられている」
ノクトが言った。
シュウが、眉を寄せた。
「クライマ?」
「魔族の国だ。私の故郷でもある」
ノクトは、そのまま、語り始めた。
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クライマで最初に異変が起きたのは、二日前だった。
北部の国境に近い地域で、地面が割れ始めた。
割れ目から、黒い霧が立ち上がり、近くにいた魔族が、その霧に触れた後、異変を起こした。
正気を失ったわけではなかった。
ただ、何かに引き寄せられるように、割れ目の方向へ、歩き続けた。
止めようとした者が引き留めたが、振り切った。
その力は、普段の比ではなかった。
そうした者が、一人、また一人と増えていった。
「魔族も、異界獣と同じように、変えられているのか」
エルクが言った。
「似ている。だが、全員ではない。特定の、門の近くにいた者だけが、そうなっている」
ノクトは、しばらく、言葉を、選んだ。
「クライマには、子供がいる。老人がいる。普通に暮らしている者たちが、いる」
その言葉は、静かだった。
だが、その静かさの中に、何かを、必死に、押さえているような緊張があった。
「魔族と人間の違いは、関係ない。あの方にとっては、全員が世界の一部だ。だから、区別しない」
「区別しない、というのは」
「守りもしない。壊しもしない。ただ、世界融合の材料として扱う。人間であれ、魔族であれ、関係ない」
リアが、ノクトを見た。
「お前は、それを止めたかった」
「そうだ」
ノクトが、答えた。
「私は、魔族を守りたかった。それだけだった。世界征服などではない。世界融合などは、もちろん望まない。ただ、魔族が、魔族として生きられる場所を、守りたかった」
その言葉は、これまでのどの場面よりも、率直だった。
ノクトという存在が、知略でも、情報戦でもなく、ただ、故郷への恐怖を、口にしていた。
「クライマの民は、今、どうなっている」
エルクが聞いた。
「南部へ避難させた。だが、どこまで安全かは、わからない。世界のどこかに、安全な場所が、まだあるのかも、わからない」
ノクトは、大樹を、見上げた。
「大樹も、傷ついている。エークレイアも、同じだ」
「ああ」
「人間の国も、同じだろう」
「エルナトとヴァルガンから、昨日、通信が来た。どちらも、門が暴走している」
ノクトは、それを聞いて、小さく、息を吐いた。
「ならば、やはり——」
「お前が一人で抱えている問題じゃない」
エルクが言った。
ノクトは、エルクを、見た。
「魔族も、人間も、エルフも、同じ問題の中にいる。そういうことだ」
「……そうなるな」
ノクトが、低く、答えた。
「あの方が目覚めれば、誰も、置いておかれない」
その言葉を、シュウが拾った。
「目覚める、というのは——まだ完全ではないのか」
「思念体だった。だが、今は——」
ノクトが、空を見た。
「近い。非常に近い」
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その時だった。
世界が、震えた。
地面でも、空気でもなかった。
もっと根本的な何かが、一瞬、大きく、揺れた。
大樹が、激しく、軋んだ。
幹の黒い筋が、一気に、上まで、走った。
枝の葉が、数十枚、一度に、黒く変わった。
そして、音もなく、落ちていった。
エルナトの方角の空に、新たな亀裂が開いたのが、遠くからでも、わかった。
エルクは、即座に、魔導双眼鏡を取り出した。
レンズを、遥か彼方の、黒い渦の中心へ向ける。
渦は、拡大していた。
しかし、今、エルクが見たのは、渦の大きさではなかった。
渦の中に、形が、あった。
巨大な、人の形をした、魔力の塊。
それは、動いていた。
これまでは、ただ脈動するだけの、巨大な心臓のような存在だった。
しかし今、それは、動き始めていた。
立ち上がるように。
目を開けるように。
「……動いた」
エルクの声が、かすかに、震えた。
双眼鏡を、外す。
視界が、元の景色に、戻った。
大樹と、白い街と、夕暮れの空。
しかし、エルクには、もう、それが、これまでの景色と同じには見えなかった。
「ノクト」
エルクが言った。
「あれが、今、動いた」
ノクトは、魔導双眼鏡を覗いていないが、その言葉の意味を、即座に、理解した。
「あの方が——」
目を、閉じた。
その顔に、これまでの戦いで見せた、どの表情とも違う、深い恐怖が、滲んだ。
「……目覚めた」
静かな声だった。
だが、その一言が、夕暮れの広場に、重く、落ちた。
ルシラが、大樹の根元から、こちらを見た。
グローワも、振り返った。
二人は、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
全員が、同じことを、理解していた。
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夜が来た。
エークレイアの街に、灯りが点り始めた。
しかし、その灯りは、どこか、心細かった。
大樹の最上部に、一枚の葉が、残っていた。
黒く、変わりかけていたが、まだ、完全には変わっていなかった。
枝の先で、かすかに、揺れていた。
グローワは、その葉を、下から、見上げていた。
やがて、葉が、静かに、落ちた。
グローワは、手を伸ばして、それを、受け止めた。
黒くなりかけた、しかし、まだ、緑の部分が、残っている葉だった。
「始まる」
グローワが、言った。
誰に向けるでもなく。
「百年前に終わらせられなかった戦いが」
そっと、手を閉じた。
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どこか遠い、深い暗闇の中で。
巨大な存在が、ゆっくりと、立ち上がった。
それは、かつて人の形をしていたものだった。
今も、人の輪郭を、持っていた。
しかし、もはや、人ではなかった。
長い年月を経て積み重なった思念と記憶と魔力が、ついに、形を得た。
目が、開いた。
暗闇の中で、それは、静かに、世界を、見た。
エルナトの空に走る亀裂。
ヴァルガンの岩山から立ち上る黒い霧。
エークレイアの傷ついた大樹。
クライマの避難する魔族たち。
レグルスの廃墟に残る門の痕跡。
すべてを、見た。
そして、視線が、止まった。
一点に。
白い聖都の夜の灯りの中で、魔導双眼鏡を手に、空を見上げている、一人の青年に。
「残響の継承者よ」
声は、静かだった。
怒りも、昂りも、なかった。
ただ、長い時間を待ち続けた者だけが持つ、静かな確信があった。
「ようやく、時が来た」
世界各地の門が、その声に応えるように、黒く、脈動した。




