聖都の異変(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第六章
眠れなかった夜が、明けた。
エルクは、夜明け前から、宿の窓辺に立っていた。
東の空を、何度も、見ていた。
レグルスの方角だった。
昨夜見た黒い光の柱は、もう消えていた。
空の亀裂も、夜の間に、表面上は薄れていた。
だが、双眼鏡を通せば、まだ、そこに、残っている。
魔力の乱れが、地平線の向こうで、くすぶり続けていた。
あの先で、何が起きているのか。
ライディスは、生きているのか。
王都の人々は、無事なのか。
誰かが今も、あの場所で、何かと戦っているのか。
わからなかった。
何もわからないまま、夜が明けた。
「エルク」
後ろから、リアの声がした。
振り返ると、リアがすでに大剣を背負い、戦装束のまま立っていた。
一晩中、鎧を脱がなかったのだろう。
「出発する」
問いではなかった。
「ああ」
エルクは、双眼鏡を、鞄に、しまった。
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宿の食堂には、四人が揃っていた。
朝食は、出ていた。
だが、誰も、積極的に、食べようとはしていなかった。
シュウが、昨夜新調した短剣の留め具を、黙って、確認していた。
ミレナンは、手帳を開いていたが、何も書いていなかった。
ただ、白いページを、見つめていた。
「食べておけ」
リアが、短く言った。
「食べてる」
シュウが、パンを一口、齧った。
噛む音だけが、しばらく、響いた。
窓の外、聖都の路地が、見えた。
昨日のユラギとの戦いで、市場の一角が、黒い焦げ跡を残していた。
噴水の石組みが、崩れたままだった。
壁が半壊した建物の前で、エルフの職人が、朝早くから、修復に入っていた。
石を運ぶ音が、静かな朝に、鈍く、響いていた。
傷ついた街が、それでも、朝から動いていた。
「ユラギは、まだどこかにいる」
ミレナンが、ぽつりと言った。
「わかってる」
「レグルスへ向かう間にも、また来るかもしれない」
「来たら、対処する」
エルクが答えた。
「だが、行かなければ何もわからない。レグルスで何が起きているのか、俺たちが直接、確かめる必要がある」
ミレナンは、しばらく黙っていた。
それから、手帳を閉じた。
「……わかりました」
「出発は、朝食が済んだらすぐだ。グローワへの挨拶だけ済ませて、それからレグルスへ向かう」
全員が、黙って、頷いた。
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グローワのもとへ向かう前に、エルクは、一人で宿の外に出た。
聖都の石畳は、まだ、朝露で濡れていた。
昨日の戦いの傷が、街のあちこちに、残っていた。
広場の噴水は、半壊したまま、水だけが流れ続けていた。
崩れた石材の欠片が、路地の端に、寄せてあった。
誰かが、早朝から、片付けていたのだろう。
ドワーフの鍛冶場から、金槌の音が、聞こえてきた。
いつも通りの音だった。
傷ついた街の中で、その音だけが、何も変わっていなかった。
エルクは、足を止めて、その音を、しばらく、聞いた。
レグルスで何が起きているかは、わからない。
ライディスが無事かも、わからない。
行った先に、何が待っているかも、わからない。
それでも、行く。
わからないから、行く。
「行こう」
一人で、呟いた。
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図書館の前まで来ると、グローワが、すでに外に立っていた。
四人の顔を見て、何も驚いた様子を見せなかった。
「行くのか」
「レグルスへ」
エルクが答えた。
「ライディスから連絡はない。だが、あのまま放置できない」
グローワは、しばらく、エルクを見た。
それから、視線を、大樹へ向けた。
「昨夜、大樹の状態が、さらに悪化した。私はここを離れられない」
「わかってる。だから、俺たちだけで行く」
グローワは、何も言わなかった。
代わりに、懐から、小さな魔力結晶を、取り出した。
エルクへ、渡した。
「通信用だ。距離は問わない。何かあれば、これを使え」
エルクは、それを受け取った。
「ありがとう」
グローワは、わずかに、目を細めた。
「行け。早い方がいい」
その時だった。
低い振動が、街全体を、走った。
地震とは違った。
地面ではなく、空気そのものが、震えるような感覚だった。
窓ガラスが、かすかに鳴った。
市場の人々が、顔を上げて、周囲を見回した。
次の瞬間、大樹の枝葉が、一斉に、激しく揺れた。
風はなかった。
それでも、大樹は、震えていた。
鳥たちが、一斉に、飛び立った。
何百羽もの羽音が、空を覆い、そして、散っていった。
「——なんだ」
シュウが、立ち上がった。
四人は、グローワとともに、大樹の根元へ向かって、走った。
広場に出ていたエルフたちは、揃って、大樹を見上げていた。
その表情には、驚きと、困惑と、かすかな恐怖が、混じっていた。
エルクは、その視線の先を、追った。
大樹の幹に、黒い筋が走っていた。
最初は、細かった。
影の一部のように見えた。
だが、よく見ると、それは、影ではなかった。
幹の表面そのものを、黒い何かが、ゆっくりと、侵食していた。
「大樹が……」
近くにいたエルフの老女が、震える声で、言った。
「大樹が、弱っている」
その言葉に、周囲のエルフたちが、動揺した。
「ありえない。数千年、枯れたことがない」
「あの樹が、なぜ」
グローワは大樹の根元へ向かった。
両手を、幹の表面に、当てた。
その瞬間、グローワの表情が、変わった。
研究者としての冷静さが、一瞬、剥がれた。
何かを受け取り、何かを理解した者の顔だった。
「……大樹が、悲鳴を上げている」
小さな声だったが、周囲の静寂の中で、はっきりと、聞こえた。
レグルスへ出発しようとしていた四人は、その場で、足を止めた。
グローワは、しばらく、何も言わなかった。
見上げる大樹の幹には黒い筋が走っていた。
振動が起こるたび黒い筋は広がっていった。
「市民を非難させる」
グローワは司書たちに指示を出した。
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