世界の亀裂(3) ヴァルガン
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第六章
ヴァルガン王国の朝は、いつも、鍛冶の音から始まる。
夜明けとともに、鍛冶場の炉が火を入れ、鉄を打つ音が、王都の路地に響き渡る。
それが、この国の、一日の始まりだった。
しかし今朝は、その音の前に、別の音が、王都に届いた。
地の底から湧き上がるような、低い振動音だった。
最初は、遠雷のように聞こえた。
だが、それが続くにつれ、誰もが、雷ではないと気づいた。
地面が、揺れていた。
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王宮の朝議の間には、レイオンと、軍事顧問として同席するガルゴン、数名の重臣たちが揃っていた。
レイオンが即位して以来、朝議は、毎日欠かさず行われていた。
ガルゴンが「書類は剣より重い」と言った言葉を、レイオンは、笑いながら、しかし実践していた。
その日の朝議は、北部国境の復興状況についての報告から始まる予定だった。
しかし、最初の報告者が口を開く前に、床が揺れた。
「——地震か」
重臣の一人が、思わず立ち上がった。
揺れは、止まらなかった。
むしろ、強くなった。
窓の外で、誰かが叫んでいる声が聞こえた。
「北部の岩山が崩落しています!」
兵士が、議場の扉を押し開けて、飛び込んできた。
「鉱山地帯に巨大な亀裂。それから——北部監視部隊からの通信が、突然、途絶えました」
途絶えた。
その言葉に、議場の空気が、一変した。
レイオンは、すでに立ち上がっていた。
「全員、持ち場へ。俺は状況確認に行く」
「王様が直接——」
「見なければ、判断できない」
それだけ言って、レイオンは、歩き出した。
止める者は、いなかった。
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王宮の北塔から、ヴァルガンの北方を見ると、それは、すぐに見えた。
岩山の一つが、大きく、えぐれていた。
山の中央部から、黒い亀裂が、垂直に走っていた。
まるで、誰かが巨大な刃で、山を、斬り割ったようだった。
その亀裂の縁から、黒い霧が、噴き上がるように、立ち昇っていた。
吹雪が、黒く、染まり始めていた。
「これは——」
レイオンの隣に、フレイナが立っていた。
右に少し傾く足取りは、まだ完全に治りきっていない傷の名残だったが、その目は、しっかりと、北方を見据えていた。
「以前とは違う」
フレイナが言った。
「あの時は、山の向こうの封印施設が起点だった。今回は、山そのものが割れている」
「門が、山の内側にあったんじゃなかったのか」
「内側にある門が、外側まで、割れを広げている。それほどの規模だということ」
レイオンは、亀裂から噴き上がる黒い霧を、しばらく、見つめた。
その霧の中から、動くものがいた。
岩石のような巨体を持つ、四足歩行の存在。
翼を持つ、鳥のような形状だが、羽毛ではなく、黒い鱗で覆われた何か。
人の背丈の数倍もある、全身が歪んだ形の存在。
「異界獣だ」
フレイナが、槍を、構えた。
「行く」
「お前の傷は——」
「まだ動ける。それで十分」
フレイナは、それだけ言って、階段を降り始めた。
レイオンは、その背中を一瞬、見た。
そして、自分も、剣を抜いた。
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城下では、すでに、ヴァルガン軍が展開を始めていた。
その最前線で、三人の姿が、目立っていた。
ケンが、瓦礫の陰で、怪我人を引きずり出していた。
「こっちだ、足を踏み外すな!」
消防士として身につけた動き方は、この状況でも、変わらなかった。
危険な場所でどこへ逃げるか、どこに人がいる可能性があるか、瞬時に判断する。
建物が揺れ続ける中、ケンは、仲間の兵士二人を連れて、崩れた壁の下に閉じ込められた市民を、次々に救出していた。
「もう一人いる、奥だ。三人で押す、いくぞ」
ケンの号令に、兵士たちが応じる。
瓦礫を動かし、中から、老人を引き出した。
「助けに来たぞ。立てるか」
老人が、震えながら、頷いた。
「ありがとう、ありがとう……」
「礼は後だ。今は動け」
ケンは、次の現場へ走った。
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ジェイドは、城壁の外に出ていた。
ヴァルガン軍の部隊が対応しきれていない区画に、単独で飛び込んでいた。
四足の異界獣が、城壁の外縁を、押し進んでくる。
体表は、岩のような甲殻で覆われており、通常の剣は、通じなかった。
「面白い」
ジェイドが、低く言った。
素手で、甲殻の継ぎ目を探す。
この種の外骨格には、必ず、弱点がある。
人体でも、鎧でも、完全に閉じた防御など、存在しない。
異界獣が、突進してくる。
ジェイドは、正面から受け止めるのではなく、ぎりぎりで横へ逃げ、その勢いに乗じて、側面に回る。
そして、籠手を嵌めた拳で、甲殻の継ぎ目を、ひたすらに、叩いた。
一発。
二発。
三発。
「——あった」
甲殻の一部が、わずかに、めくれた。
「そこだ!」
全力で、叩き込む。
異界獣が、轟音を立てて、倒れた。
「次!」
ジェイドは、もう次の敵へ向かっていた。
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ユウは、城壁の上を、走り続けていた。
その速さで、敵の位置と規模を、素早く把握し、各部隊へ伝達する。
元陸上選手の脚は、この状況でも、衰えていなかった。
「南区画、翼持ちが三体、城壁に接近中!」
「東門、甲殻型が突破を試みています、増援を!」
「北西に、動かない巨大な個体、おそらく指揮型——各部隊、無視してください、まず数を減らすことを優先!」
情報が、各部隊へ、リアルタイムで届く。
ユウが走ることで、部隊同士の連携が、確立されていった。
戦場の情報は、止まっていれば死ぬ。
動き続けることが、ユウにできる、最大の戦いだった。
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城壁の上で、フレイナは、翼持ちの異界獣と、向き合っていた。
翼の幅は、二十メートルほどある。
その翼を広げて、城壁の上空から急降下してくる。
真正面から、まともに受ければ、弾き飛ばされる。
フレイナは、来ると分かった瞬間、大きく横へ跳んだ。
急降下の風圧だけで、足元の石が、いくつか、吹き飛んだ。
降下した異界獣が、城壁に着地した瞬間、フレイナの槍が、翼の付け根を、貫いた。
鋭い悲鳴が、上がった。
「まだ動く」
フレイナは、槍を引き抜き、もう一撃。
今度は、首元を、狙った。
巨体が、城壁の上で、崩れた。
フレイナは、着地の際に、右足に、鋭い痛みが走ったのを感じた。
まだ完全に治りきっていない足だった。
しかし、表情を変えずに、次の敵へ視線を向けた。
「——次」
その一言だけで、前へ進んだ。
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レイオンは、北門の前で、指揮を執っていた。
全国総動員令を発令したのは、北部の亀裂を確認してから、十五分後のことだった。
「全軍出撃。各砦へ応援要請。避難民の移動ルートを確保しろ。北部からの避難民を最優先に受け入れる——」
命令が、次々と、出ていった。
父、ガルゴンが即位していた頃は、こういう状況での命令は、すべてガルゴンが出していた。
自分はその横で、聞いていた。
今は、自分が、出す側だった。
迷う時間はなかった。
考える前に、動かなければ、遅くなる。
「迷いなく決断する」ということが、王の仕事だと、ガルゴンが、かつて言っていた。
その言葉の意味を、今、レイオンは、体で、理解していた。
「——王」
フレイナが、城壁から降りてきた。
右足を、わずかに、引きずっていた。
「足は」
「動ける」
「嘘をつくな。城壁の上での着地で、痛めただろう」
「見てたのか」
「見てた」
レイオンが、苦笑した。
「後ろで指揮を取ってくれ。俺が前に出る」
「前線指揮官が前に出るな」
「聞こえなかった」
「レイオン——」
「お前が前で無茶をするより、俺が前に出る方が、まだ安全だ。それくらい、わかるだろう」
フレイナは、しばらく、黙っていた。
その目に、複雑な光が、宿った。
「——わかった。後方の指揮は任せろ」
「頼む」
レイオンは、剣を手に、前へ、歩き出した。
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王宮の回廊を、一人の老兵が、歩いていた。
ガルゴンだった。
右腕は、義手だった。
義手に、剣が固定されている。
左腕で、鎧の留め具を締める。
かつては両腕で一瞬で着込めた鎧が、今は、少し、時間がかかった。
それでも、着込んだ。
廊下の壁には、歴代のヴァルガン王の肖像が並んでいた。
ガルゴン自身の肖像も、その一枚として、かかっていた。
まだ両腕があった頃の絵だった。
ガルゴンは、その肖像の前で、一度、立ち止まった。
「まだ、終わっておらんな」
自分の肖像に向かって、小さく、言った。
馬の用意が整った中庭へ向かうと、老兵たちが、数名、集まっていた。
共に、長い年月を戦ってきた、古参の兵士たちだった。
彼らもまた、すでに、鎧を着込んでいた。
「何をしている」
ガルゴンが、低く聞いた。
「ご一緒いたします」
一人が、答えた。
「引退した身だぞ」
「引退した者が鎧を着ているのを見て、黙っていられる者は、ヴァルガンにはおりません」
ガルゴンは、一瞬、その顔を見た。
そして、短く、笑った。
「余が先に行く。遅れるな」
馬に跨がり、城門へ向かった。
その背中を見て、レイオンが、立ち尽くしていた。
父の出陣を、止める言葉を、レイオンは、持っていなかった。
あの背中を、止められる言葉など、この世界に、存在しないと知っていた。
ガルゴンが、振り返った。
一度だけ、息子を見た。
何も言わなかった。
それで、十分だった。
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その日の夕刻、エルナトとヴァルガンの両国の空を、誰かが同時に見ていたなら、同じ光景に、驚いたはずだ。
二つの国の上空に、黒い亀裂が走っていた。
形は違う。
大きさも違う。
だが、その色は、まったく同じだった。
国境など、関係なかった。
ヴァルガンの山の亀裂と、エルナトの空の亀裂は、遠く離れていたが、同じ根から生えていた。
世界の傷が、二つの場所で、同時に、広がっていた。
アルテフェインは、賢者の塔から、北の空を、見た。
ヴァルガンのある方角だ。
見えるはずのないものが、しかし、確かに、あそこにあると感じた。
長く世界の変化を観測してきた目には、分かっていた。
これは、一国の問題ではない。
「世界規模の災害だ」
アルテフェインが、再び、魔導通信の前に座った。
今度は、エークレイアだけではなく、使える全ての通信経路へ向けて、同じ言葉を、送り出した。
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そして——夜が訪れた。
エルナトの空に、黒い亀裂が、広がり続けていた。
ヴァルガンの岩山の裂け目から、黒い霧が、立ち昇り続けていた。
エークレイアでは、世界樹の根が、異常な脈動を続けていた。
レグルスの廃墟には、まだ、門の痕跡が、生き続けていた。
そして、未だ詳細が分かっていない、魔族国家クライマでは——
世界中の地に存在する門が、夜の闇の中で、黒く、光っていた。
それは、まるで、一つの巨大な心臓の鼓動のようだった。
等間隔で。
規則正しく。
世界全体が、一つの呼吸に、合わせるように。
そして、誰もいない暗闇の中で——
どこかの、どこまでも深い場所で。
二つの赤い瞳が、ゆっくりと、開いた。
「——動き始めたか」
その声は、静かだった。
怒りも、昂りも、なかった。
ただ、長い時間を生きてきた者だけが持つ、静かな確信が、そこにあった。
視線が、世界の各地へ、向けられた。
エルナト。
ヴァルガン。
エークレイア。
レグルス。
そして——
エルク。
「残響の継承者よ」
声が、続いた。
「お前も、見えているか」
答える者は、いなかった。
しかし、その問いは、世界のどこかへ、確かに、届いていた。




