レグルス崩壊(2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
ライディスは、地下から、駆け上がった。
地上に出た瞬間、目に入ったのは、燃える街だった。
商店の屋根から、火の手が上がっていた。
逃げ惑う人々が、通りを、行き交っていた。
子供を抱いた母親が、何が起きたのかもわからないまま、泣きながら、走っていた。
部下たちが、すぐに、ライディスのもとへ、駆け寄ってきた。
「軍務卿! ご指示を!」
ライディスは、わずかな逡巡の後、声を、張り上げた。
「市民を、避難させろ!」
「城門を、開け!」
「負傷者を、優先しろ!」
その声には、迷いがなかった。
王の真実を知った直後だったが、今、この瞬間に、優先すべきことは、明確だった。
部下たちが、即座に、動き出した。
混乱の中でも、軍務卿の指示は、兵たちの間に、確かな秩序を、もたらしていった。
しかし——
「待て!」
声が、響いた。
王直属の兵が数名、ライディスの前に、立ちはだかった。
「軍務卿は、反逆者だ!」
その言葉に、周囲の兵たちが、わずかに、動揺した。
「何を言っている」
ライディスが、低く、聞いた。
「陛下の地下施設に、無断で立ち入り、剣を抜いたと聞いている。これは、明確な反逆行為だ!」
「陛下を、止める!」
ライディスが、声を、張った。
「それが——レグルスを守ることだ!」
その言葉に、王直属の兵たちは、明らかに、戸惑った様子を見せた。
だが、命令には、命令には、従わなければならない。
彼らは、剣を、構えた。
ライディスの部下たちと、王直属の兵たちの間に、緊張が、走った。
軍が、二つに、割れようとしていた。
「今は、争う時ではない!」
ライディスが、声を、振り絞った。
「民が、死にかけている。それを、見過ごすつもりか!」
その一言に、王直属の兵の何人かが、わずかに、剣を、下げた。
だが、すべての者が、同じ判断をしたわけではなかった。
一部の者は、なおも、ライディスを、敵として見ていた。
その混乱の隙を、第五軍は、見逃さなかった。
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城壁の上、夜の雨が、降り始めていた。
ライディスは、瓦礫を避けながら、城壁へ、駆け上がった。
雨が、頬を、冷たく打った。
眼下に広がる王都は、すでに、いくつもの火の手に、照らされていた。
その光景は、ヴァルガンの戦場で見たどの景色よりも、ライディスの胸を、深く、抉った。
あの時の敵は、少なくとも、正面から向かってきた。
今、街を蝕んでいるのは、目に見えない、影のような恐怖だった。
そこで、黒い人影が、ゆっくりと、姿を現した。
「——ユラギ」
ライディスが、剣を、構えた。
雨粒が、剣身を伝い、滴り落ちていく。
柄を握る手のひらに、汗と雨が、混じり合っていた。
「ようやく、お会いできましたね」
ユラギの声には、これまでと変わらない、平坦な響きがあった。
戦いは、すぐに、始まった。
ユラギの動きは、正面からの戦いとは、まったく違っていた。
死角から、刃が、伸びてくる。
背後に、いつの間にか、回り込まれている。
毒を含んだ刃が、わずかに、肌を、かすめる。
幻が、視界を、何度も、乱す。
これまでのどの敵とも、違う種類の、厄介さだった。
正面から叩き潰すことができない。
ただ、的確に、削られていく感覚があった。
雨と泥に塗れながら、ライディスは、何度も、体勢を、崩しかけた。
それでも、剣を、手放すことはなかった。
ここで倒れれば、この先、誰が、王都を、守るのか。
その一念だけが、疲弊していく体を、支えていた。
忍者部隊の数名が、援護に回り、ライディスの部下たちを、次々に、襲った。
部下たちが、倒れていく。
それでも、ライディスは、剣を、振り続けた。
第四章の戦場で、王国最強クラスと評された実力は、伊達ではなかった。
影の動きを、わずかな気配で、読む。
斬撃を、的確に、防ぐ。
一人、また一人、忍者を、地に倒していく。
ユラギが、その様子を見て、わずかに、笑った。
「あなたは、優秀だ」
ユラギが言った。
「だから、王は、利用した」
「黙れ」
ライディスが、低く、唸った。
「正義は、便利なのです」
ユラギが、続けた。
「あなたは、王の剣だった。それだけです」
その言葉が、ライディスの胸に、深く、刺さった。
これまで、信じてきた、すべての行動。
軍務卿としての、勇者召喚の運用。
正義だと、思い込んでいた、すべての選択。
それが、王の都合に、利用されてきただけだったのかもしれない。
その可能性を、突きつけられた。
雨音だけが、しばらく、二人の間に、響いていた。
ライディスは、剣先を、下げなかった。
だが、その目には、これまでにない、深い、迷いの色が、滲んでいた。
しかし——
「それでも」
ライディスが、剣を、強く、握り直した。
雨が、頬を伝い、顎の先から、滴り落ちた。
それは、涙だったのかもしれない。
だが、確かめる余裕は、もう、なかった。
「私は、軍務卿だ」
それは、王に対する忠誠ではなかった。
正義という、抽象的な理念でもなかった。
ただ、自分が、果たすべき責務への、確認だった。
この国に生きる人々を、これ以上、失わせないという、たった一つの、揺るがない芯だけが、今、ライディスの中に、残っていた。
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その頃、遠く離れた、聖都エークレイア。
エルクは、宿の窓辺で、魔導双眼鏡を、東の方角へ、構えていた。
レンズの中、レグルスの空に、巨大な、黒い柱が、見えた。
空そのものが、裂けていく様子が、はっきりと、映っていた。
「これは——」
エルクの声が、震えた。
グローワが、駆けつけてきた。
大樹の根に、これまでにない、強い異変が、走っていた。
「大樹が、激しく、軋んでいる」
グローワが、低く言った。
そこに、ルシラが、転移の魔法で、現れた。
その顔は、これまで見せたことのない、明確な、青ざめた表情をしていた。
「——まずいわ」
ルシラが、呟いた。
「王が、門を開いた」
「王?」
エルクが、聞いた。
「レグルスの王よ。あの男、ずっと、計画を進めていた。あの方の——魔王の計画とは、また別の動きで」
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その時、遠くの山中で、ノクトが、何かに気づいたように、突然、顔色を、変えた。
「——まずい」
ノクトが、低く、呟いた。
「あの方は、これを、望んでいない」
魔王の計画ではなかった。
王自身の、暴走だった。
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エルクは、双眼鏡を、握りしめたまま、その光景を、見つめ続けた。
何が起きているのか、すべては、まだ、わからない。
だが、確かに、何かが、決定的な、取り返しのつかない形で、動き始めていることだけは、痛いほど、伝わってきた。
「——間に合わない」
エルクが、思わず、呟いた。
その声には、五十年前、勇者Aが、墓の前で漏らした言葉と、同じ響きがあった。
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王城地下、黒い門の前で、王は、最後の魔力注入を、始めていた。
両手を、門の表面に当て、すべての魔力を、注ぎ込んでいく。
門が、激しく、脈動し始めた。
その顔には、もはや、王としての威厳は、欠片も残っていなかった。
ただ、長年抱え続けてきた、ある種の渇望だけが、表情の奥に、滲んでいた。
召喚されたあの日から、ずっと、帰る場所のない世界で、生き続けてきた男の、最後の賭けだった。
しかし——
魔王が、長い年月をかけて、緻密に準備してきた、世界融合の計画。
それを、王は、わずかな知識と、強引な手段だけで、再現しようとしていた。
それは、決して、同じものではなかった。
未完成の、模倣に過ぎなかった。
門が、制御を失い始めた。
「——これは」
王の声に、初めて、明確な動揺が、混じった。
空間が、激しく、軋み始めた。
王城の上空、巨大な亀裂が、瞬く間に、広がっていった。
空が、見たこともない、深い黒に、染まっていく。
まるで、夜そのものが、引き裂かれていくようだった。
地下の床が、激しく、揺れた。
壁の一部が、崩れ落ちる。
天井から、瓦礫が、降り注ぐ。
地上では、城壁が、次々に、崩落していた。
建物が、轟音を立てて、倒れていく。
通りに、巨大な亀裂が、走っていた。
かつて、王都の象徴として、誇らしげに掲げられていた旗が、崩れる尖塔とともに、地に落ちた。
異界の風が、街全体に、吹き込んでいた。
魔力嵐が、空気そのものを、激しく、揺さぶっていた。
そして——複数の場所で、門が、同時に、出現し始めていた。
これまで見たことのない、異界の獣たちが、その裂け目から、姿を、現していった。
ヴァルガン北部の門とは、比べ物にならない、規模の崩壊だった。
「——なぜだ」
王が、その光景を見て、震える声で、呟いた。
「違う……これは、違う」
王自身も、ようやく、理解していた。
これは、魔王の計画でさえ、なかった。
ただの、未完成の、暴走だった。
世界を救うはずだった願いが、その手の中で、ただ、世界を傷つける刃に、変わっていた。
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