忘れられた未来(3)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
ユラギの輪郭が、鐘楼の上から、地面へ、降りた。
足音もなく、地に立つ。
「——継承者」
ユラギが、エルクを見据えた。
「最後に、あなたと、話したい」
リアが、すぐに、前へ出ようとした。
「待て」
エルクが、それを、手で制した。
「俺が、やる」
リアは、わずかに、迷った様子を見せたが、最終的に、剣を引いた。
シュウとミレナンも、互いに視線を交わし、後ろへ下がった。
エルクとユラギ、二人だけが、広場の中央で、対峙した。
・
・
・
ユラギが、刀を抜いた。
刃が、夜の——いや、すでに昼に近い——光を受けて、わずかに、煌めいた。
戦闘が、再開された。
ユラギの動きは、これまでの影とは、まったく違っていた。
本体の速さは、目で追うことすら、難しかった。
短距離転移を、絶え間なく、繰り返しながら、死角から、刃を、突き込んでくる。
エルクは、何度も、紙一重で、それを、かわした。
腕に、浅い傷が、刻まれた。
頬に、もう一つ。
「——遅れている」
ユラギが、淡々と言った。
「あなたの目は、見えても、体は、まだ、追いついていない」
エルクは、答えなかった。
代わりに、意識を、内側へ、向けた。
《残響》を、開く。
これまで、記憶や戦場の痕跡を、受信してきた力。
だが、今、エルクが求めたのは、それとは少し違うものだった。
ユラギが、これまでの戦闘で、刻み込んできた、動きの残像。
影の中に潜み、刃を振るい、消え、また現れる——その繰り返しの中で、この広場の空気に、薄く、染みついてきた、一つの癖。
強い意志と、反復される行動が、場所に刻まれる時、それは生きている者の痕跡であっても、聞こえる。
今この瞬間の広場には、ユラギが積み重ねてきた、幾度もの転移の軌跡が、見えない痕として、刻まれていた。
流れ込んでくる残像の中に、動きの記憶が、混じった。
影が、右に流れる。
転移の直前、魔力が、左の足元に、集まる。
刃は、必ず、斜め上から、降ってくる。
「——聞こえる」
エルクが、低く、呟いた。
次の瞬間、ユラギが、背後から、転移した。
刀が、振り下ろされる。
エルクは、振り向かずに、右へ、体を、傾けていた。
刃が、空を、切った。
「——なに?」
ユラギの声に、初めて、明確な驚きが、混じった。
回避と同時に、エルクの拳が、ユラギの胸を、捉えた。
浅い一撃だったが、確かに、当たった。
ユラギが、後方へ、跳び下がった。
「見えているのか」
ユラギが、低く言った。
「その目は——」
「目じゃない」
エルクが、言葉を、遮った。
「声が、聞こえる」
「声?」
「お前がここで繰り返してきた動きの残滓だ。この広場の空気に、染みついてる」
エルクは、石畳を、一瞬、見た。
「《残響》は、記憶だけを、拾うわけじゃない。」
ユラギは、しばらく、何も言わなかった。
「——なるほど」
ユラギが、静かに、言った。
「やはり、継承者ですね」
再び、転移が、始まった。
今度は、これまでよりも、不規則な動きだった。
癖を悟られたと察したユラギが、意図的に、パターンを、崩してきていた。
だが、《残響》の感度は、すでに、研ぎ澄まされていた。
転移の直前、空気の質感が、わずかに、変わる。
残像が、次の動きの形を、薄く、示す。
それを、エルクは、皮膚で、感じ取っていた。
「そっちだ」
エルクが、呟いた。
右斜め後方から、刃が、来た。
体が、声よりも、先に、動いていた。
紙一重で、かわす。
返す動作で、ユラギの外套を、掴んだ。
引き倒す。
ユラギが、地面に、膝をついた。
初めて、体勢が、完全に、崩れた瞬間だった。
「——その残響は」
ユラギが、膝をついたまま、静かに、言った。
「あの方が持っていたものと、同じ質をしている」
「知っている」
エルクが、答えた。
「だから、俺はあの人の言葉が、わかる気がする」
ユラギは、顔を、上げた。
「ならば——」
長い、長い、沈黙があった。
エルクは、すぐには、答えなかった。
これまでの、すべての記憶が、頭の中を、駆け巡っていた。
仲間たちの墓の前に、一人、立っていた、勇者A。
誰にも理解されず、誰にも証明できなかった、世界の傷。
各国を回り、誰にも、話を聞いてもらえなかった、絶望。
そして、門の中で見た、仲間たちの声——「帰りたい」「助けて」「なんのために」。
それらすべてを、思い出した上で、エルクは、ゆっくりと、口を開いた。
「あの人は——間違ってない」
その言葉に、ユラギが、わずかに、笑った。
「なら」
「でも」
エルクが、すぐに、続けた。
「俺は、違う」
ユラギの笑みが、止まった。
「世界を、全部、殺して、救うなんて、認めない」
エルクの声に、確かな、力が、込められていた。
「救うなら——最後まで、諦めない」
その言葉が、広場に、静かに、響いた。
それは、五十年前、勇者Aが、決して、口にできなかった言葉だった。
誰にも頼れず、誰にも理解されず、たった一人で、世界の崩壊に、向き合い続けた、彼が、最後まで、見つけられなかった、答えだった。
ユラギは、しばらく、何も言わなかった。
「——なるほど」
ユラギが、ようやく、静かに、口を開いた。
「だから、あなたなんですね」
その声には、もう、これまでの確信ではなく、わずかな、何かを認めるような、響きがあった。
・
・
・
「リア! シュウ! ミレナン!」
エルクが、声を上げた。
三人が、それぞれの位置から、即座に、動いた。
リアが、正面から、大剣を構えて、踏み込む。
シュウが、側面から、短剣を構えて、跳び込む。
ミレナンが、後方から、強化された杖の魔法を、放つ。
ユラギは、もはや、それらすべてを、避け切ることはできなかった。
リアの大剣が、ユラギの肩を、深く、斬った。
シュウの短剣が、脇腹を、貫いた。
ミレナンの魔法が、背後から、直接、命中した。
そして、最後に、エルクの拳が、確かな魔力の流れを読み切った上で、その胸に、叩き込まれた。
ユラギの体が、大きく、よろめいた。
膝が、地面に、ついた。
それでも、ユラギは、笑っていた。
「私は——負けました」
ユラギが、静かに言った。
「ですが」
その声に、わずかな、寂しさが、混じった。
「もう、遅い」
その言葉の意味を、誰も、すぐには、理解できなかった。
・
・
・
遠く、レグルス。
王城の地下、古代召喚施設。
ライディスは、その場に立ち、目の前の光景を、ただ、見つめていた。
巨大な魔法陣の中央に、亀裂が、大きく、開いていた。
王が、その前に、立っていた。
「陛下……何を、しているのですか」
ライディスが、声を、震わせながら聞いた。
王が、ゆっくりと、振り返った。
「この世界は、腐っている」
王が、静かに言った。
「だから、やり直す」
「やり直す、というのは——」
「勇者は、失敗した」
王が、続けた。
「だから、我々が、続ける」
その言葉に、ライディスの全身から、血の気が、引いた。
地面が、わずかに、揺れた。
亀裂の奥から、黒い光が、強く、漏れ始めた。
門が、ゆっくりと、脈動していた。
・
・
・
聖都エークレイア。
戦いを終えた、エルクの双眼鏡が、ふと、東の方角を、捉えた。
レンズの中、空に、巨大な、黒い柱が、見えた。
空そのものが、裂けていく。
門が、向こうの世界で、開き始めていた。
その奥に、巨大な、何かの気配があった。
これまで、感じたことのない、重く、深い、存在感だった。
「——レグルス、で」
エルクが、声を、震わせた。
「門が、開く」
遠く、山中で、ノクトが、突然、膝を、ついた。
「——間に合わなかった」
ノクトの声に、五十年前と、同じ、深い恐怖が、滲んでいた。
聖都の傍ら、ルシラが、青ざめた顔で、その方角を、見つめていた。
「あの方が——」
その先の言葉を、ルシラは、口にできなかった。
グローワも、同じ方角を見て、わずかに、声を、震わせた。
「まさか……」
エルクは、双眼鏡を、強く、握りしめた。
「レグルスが——」
その先に、何が起きているのか。
エルクには、まだ、はっきりとは、わからなかった。
だが、確かに、何かが、決定的な形で、動き始めていることだけは、痛いほど、感じ取っていた。
レグルスの空に、巨大な裂け目が、さらに、大きく、広がっていった。
黒い光が、世界そのものを、揺さぶり始めていた。




