忘れられた未来(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
夜明け前、エルクは、まだ、眠っていなかった。
宿の窓辺に立ち、聖都の巨大な白樹を、ただ、見上げていた。
夢の中で——あるいは、それは夢ではなかったのかもしれない——勇者Aの思念が、最後に残した言葉が、頭の中で、何度も、繰り返されていた。
お前は、私になるのか。
世界は、壊れている。
門は、増え続けている。
それは、否定できない事実だった。
勇者Aの言葉は、間違っていない。
しかし、世界融合は、すべてを、終わらせる。
それもまた、否定できない事実だった。
二つの真実が、エルクの中で、答えの出ないまま、ぶつかり続けていた。
空が、ゆっくりと、白み始めていた。
巨樹の枝葉が、朝の光を受けて、淡く、輝いていた。
その美しさが、今のエルクには、どこか、痛みのように感じられた。
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食堂に集まった四人は、誰も、昨日のことを口にしなかった。
シュウが、いつものように、メニューを覗き込もうとしたが、すぐに、その手を止めた。
ミレナンは、手帳を開いていたが、ページは、白いままだった。
リアは、エルクの顔色を、何度も、確かめるように見ていた。
重い空気が、テーブルの上に、沈んでいた。
その時——
街の鐘が、激しく、鳴り響いた。
普段の、時間を告げる鐘とは、まったく違う音だった。
何かを警告する、切迫した連打だった。
四人は、揃って、席を立った。
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街に出ると、混乱が、すでに広がっていた。
泣き叫ぶ子供。
顔を青ざめさせた兵士たち。
道端で、突然、倒れ込む老人。
誰もが、同じことを口にしていた。
「空が、割れた」
「勇者が、いた」
「世界が、終わる」
神官たちが、慌てて、精神魔法による干渉を疑い、解呪の儀式を始めていた。
しかし、誰の体からも、魔力的な異常は、検出されなかった。
グローワが、人々の間を抜けて、現場に駆けつけた。
その顔には、明確な困惑があった。
「これは、魔法ではない」
グローワが、エルクたちに言った。
「大樹の根が、異常に脈動している。記憶そのものが——あるいは、残響そのものが、直接、人々の精神に、流れ込んでいる」
「どうすれば、止められますか」
ミレナンが聞いた。
「わからぬ。これまで、見たことのない現象だ」
その時、エルクの双眼鏡が、何かを捉えた。
「——あそこだ」
エルクが、中央広場の方を指した。
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中央広場の噴水の上に、人物が立っていた。
黒い装束。
顔を覆う、無機質な仮面。
長い外套が、風もないのに、わずかに揺れていた。
腰には、細身の刀が、差されていた。
その人物の周りに、何かが、ゆっくりと、染み出していた。
黒い霧のようなものが、噴水の縁から、広場全体に、広がっていく。
「ユラギ……!」
リアが、即座に、大剣を抜いた。
シュウも、火竜の牙を混ぜた短剣を、構えた。
ミレナンが、杖を、両手で握りしめた。
しかし、ユラギは、まったく動かなかった。
ただ、静かに、四人を見下ろしていた。
「ようやく、会えました」
声には、性別を感じさせない、平坦な響きがあった。
「残響の継承者」
「お前が、第五軍か」
エルクが、警戒を解かずに聞いた。
「軍というほど、立派なものではありません」
ユラギが、静かに答えた。
「私は、ただの従者です」
「従者?」
「世界を救う方の」
その言葉と同時に、広場を覆う黒い霧が、一気に、濃くなった。
視界が、次第に、霞んでいく。
広場の輪郭が、曖昧になり、空気そのものが、重く、沈んでいくような感覚があった。
「来るぞ……!」
シュウが、声を張った。
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戦闘は、すぐに、始まった。
リアが、地を蹴り、噴水へ向かって、一直線に踏み込んだ。
大剣が、振り下ろされる。
刃は、確かに、ユラギの体を、捉えた。
しかし——その手応えは、なかった。
ユラギの体が、黒い霧となって、その場で、崩れ落ちた。
「——なに?」
リアが、思わず、声を漏らした。
次の瞬間、背後から、声がした。
「ここです」
振り返ると、噴水の縁に、もう一人のユラギが、立っていた。
いや、もう一人、ではなかった。
屋根の上にも。
塔の上にも。
広場の四隅にも。
無数のユラギが、同時に、姿を現していた。
「分身……?」
ミレナンが、杖を構えながら、呟いた。
「いえ」
ユラギの声が、複数の方向から、同時に、聞こえた。
「影、と呼んでください」
シュウが、最も近い影に向かって、踏み込んだ。
高速の踏み込みから、短剣を、横に薙ぐ。
刃が、影を、確かに、両断した。
しかし、それも、ただの霧だった。
何の手応えもなく、空気に溶けて、消えていった。
「くそ、本体はどこだ!」
シュウが、苛立った声を上げた。
ミレナンが、最も近い影に向かって、攻撃魔法を放った。
杖の先から、光の槌が、撃ち出される。
直撃した影が、爆発するように、霧散した。
しかし、次の瞬間、まったく別の場所に、同じ姿が、再び現れていた。
「これじゃ、終わらないです……!」
ミレナンの声に、焦りが、混じっていた。
リアの大剣も、シュウの短剣も、ミレナンの魔法も、すべて、影を斬り、影を撃ち、影を消すだけだった。
本体は、まったく、見つからなかった。
ユラギの能力は、影、記憶、精神——そのすべてを、曖昧にし、存在そのものを、定まらないものにしていた。
これまで戦ってきた、どの敵とも、違う種類の恐ろしさだった。
力で叩き潰す相手ではない。
そもそも、力を、当てる場所が、わからない相手だった。
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その混乱の中、エルクは、戦いの輪から、わずかに離れた場所で、魔導双眼鏡を、構えていた。
レンズを通して見える景色は、仲間たちが見ているものとは、まったく違っていた。
影には、魔力がなかった。
ただの、形だけの霧。
本物の魔力反応を、持つものは、どこにも見当たらない。
エルクは、双眼鏡を、ゆっくりと、広場全体に巡らせていった。
噴水。
屋根。
塔。
広場の四隅。
どこにも、本物の魔力の輪郭は、見えなかった。
「——どこだ」
エルクは、もう一度、視線を巡らせた。
そして、それまで見ていなかった、一点に、レンズを向けた。
街の外れ、聖都の鐘楼の最上部だった。
そこに、ただ一つ、確かな魔力の輪郭が、見えた。
他の影とは違う、密度を持った、本物の存在感だった。
「上だ……!」
エルクが、声を張り上げた。
「鐘楼の上! あそこが本体だ!」
シュウが、その声を聞いた瞬間、迷わず、地を蹴った。
新しく手に入れた短剣を握り直し、建物の壁を、踏み台にしながら、一気に、鐘楼の高さまで、跳び上がっていく。
予想以上の速さだった。
ユラギの——本体の——反応が、わずかに、遅れた。
短剣の刃が、ユラギの肩を、浅く、切り裂いた。
赤い血が、わずかに、滲んだ。
ユラギが、初めて、明確な反応を見せた。
「——見えているのですね」
ユラギの声に、初めて、わずかな驚きが混じった。
「やはり、継承者」
その言葉が、戦場に、静かに、響いた。




