継承者(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
朝の宿には、いつもとは違う空気が流れていた。
誰も、よく眠れなかった。
昨夜、グローワから聞いた真実が、四人それぞれの中で、まだ消化されないまま、重く沈んでいた。
食堂に集まった四人は、しばらく、誰も口を開かなかった。
シュウは、いつもなら真っ先にメニューを覗き込むはずだったが、今朝は、ただ黙って、椅子に腰を下ろしていた。
ミレナンは、手帳を開いたまま、何も書かずに、ページの端を見つめていた。
リアは、料理にほとんど手をつけず、時折、視線だけを、エルクの方へ向けていた。
エルクは、目の前のパンを、一口齧っただけで、それ以上、食べる気が起きなかった。
頭の中で、昨夜聞いた言葉が、何度も、繰り返されていた。
勇者A。
世界融合。
魔王。
それらが、一本の線として繋がった瞬間の感覚が、まだ、消えていなかった。
「——もし」
エルクが、ぽつりと言った。
三人が、それぞれ顔を上げた。
「もし、俺が、あの人だったら」
エルクの声は、小さかった。
「同じことを、選ぶのかな」
誰も、すぐには答えなかった。
シュウが、何か言おうとして、口を開いたが、結局、言葉が出てこなかった。
リアは、ただ、エルクの方を見つめていた。
ミレナンは、手帳を、そっと閉じた。
答えの出ない問いが、テーブルの上に、しばらく、漂っていた。
「食べないと、もたないぞ」
シュウが、ようやく、それだけ言った。
「ああ」
エルクは、もう一口、パンを齧った。
味は、ほとんど、感じなかった。
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その日の午前、グローワは、図書館ではなく、巨樹の根元にある、観測施設へ四人を呼んだ。
そこは、これまで訪れたどの場所とも違っていた。
壁も天井もなく、巨樹の根が、そのまま、複雑に編み込まれて、空間を作っていた。
根の表面には、淡い光を放つ紋様が、無数に刻まれていた。
「ここで、世界樹の状態を観測している」
グローワが、根の一部に手を当てながら言った。
「大地の魔力の流れ、世界の歪みの規模、それらすべてが、この樹を通じて、観測できる」
「それで、何がわかったんですか」
エルクが聞いた。
グローワの表情が、わずかに、硬くなった。
「門が、増えている」
「増えている?」
「想定より、早い」
グローワが、根の紋様の一つを指した。
そこには、複雑な記号と、小さな光点が、いくつも浮かんでいた。
「これが、現在、観測されている、門の活性化地点だ。北部の門以降、明らかに、数が増えている」
光点の数を見て、ミレナンが、息を呑んだ。
「こんなに……」
「世界中で、同時に、軋みが進んでいる」
グローワが言った。
「これまでは、数百年単位で進む現象だと、思われていた。だが、今の速度は——その想定を、大きく超えている」
エルクは、無意識に、腰の鞄から、魔導双眼鏡を取り出していた。
「外を見てみるか」
グローワが言った。
エルクは、観測施設の開口部から、空へ向けて、双眼鏡を構えた。
普通の目では、何も見えない、ただの青空だった。
だが、レンズを通すと、その景色は、まったく違うものに変わった。
空に、薄く、黒い線が、走っていた。
一見、雲の切れ目のようにも見えるが、よく見ると、それは、空間そのものに入った、傷のようなものだった。
その線は、地平線の彼方、ある一点に向かって、緩やかに伸びていた。
「あれは……」
エルクが、思わず声を出した。
「東の方角だ。あの先は——」
「レグルスだ」
リアが、即座に言った。
エルクは、双眼鏡をさらに調整し、その先を、見つめた。
レグルスの方角に、微かな魔力の反応があった。
それは、これまで見てきた、どの魔力の流れとも、質感が違っていた。
重く、沈み込むような、暗い色をしていた。
「世界の裂け目よ」
グローワが、静かに言った。
「勇者Aが、見ていたものだ」
その一言に、エルクの背筋が、冷たくなった。
五十年前、彼が、たった一人で見ていた光景。
誰にも理解されず、誰にも証明できなかった、世界の傷。
それを今、自分も、同じ目で、見ている。
エルクは、双眼鏡を、ゆっくりと、下げた。
「俺にも、見えてる」
その声は、自分でも、驚くほど、静かだった。
「あの人が見ていたものが、今、俺にも見えてる」
グローワは、それに、何も答えなかった。
ただ、エルクの横顔を、長い間、見つめていた。
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その日の午後、聖都の外縁、結界の境界付近で、異常な魔力反応が観測された。
報告を受けたエルクたちは、すぐに、現場へ向かった。
森の入り口、結界の淡い光が、地面に円を描いている場所だった。
その円の縁に、一人の人物が立っていた。
長い黒髪。
紫の瞳。
小さな黒い角。
黒い翼。
漆黒の法衣。
「ルシラ……!」
シュウが、剣を抜きながら、声を上げた。
リアも、即座に、大剣を構えた。
しかし、ルシラは、戦う様子を、まったく見せなかった。
ただ、興味深そうに、周囲を見回していた。
「今日は、戦争じゃないわ」
ルシラが、軽い口調で言った。
「調べに来ただけ」
「何を調べに」
エルクが、警戒を解かずに聞いた。
「世界樹のことよ。ここの結界、随分、変質してる。誰かが、無理に、世界の歪みを抑え込んでる」
ルシラが、結界の縁を、指でなぞった。
その時、グローワが、現場に到着した。
ルシラの姿を見た瞬間、グローワの表情が、これまでで最も硬くなった。
「グローワ……」
ルシラが、その名を、口にした。
声に、わずかな、温度のようなものが、混じっていた。
「久しいわね」
グローワは、何も答えず、ルシラを、じっと見つめた。
二人の間に、目に見える緊張が、張り詰めた。
かつて、同じエルフだった。
同じ研究室で、同じ理論を、追いかけていた。
だが今、二人は、まったく違う場所に立っていた。
「まだ、研究者ごっこ、してるの?」
ルシラが、口元に、小さな笑みを浮かべた。
「まだ、欲望に、支配されているのね」
グローワが、静かに、返した。
その言葉に、ルシラは、わずかに、目を細めた。
笑みは、消えなかった。
だが、その奥に、別の何かが、一瞬、見えた気がした。
「百年前、私たちは、同じものを、追いかけていたわ」
ルシラが、静かに言った。
「召喚術の理論。門の構造。世界の真実。あなたも、私も、同じ場所から、始まった」
「だが、お前は、道を違えた」
グローワが言った。
「違えた、というより——先に進んだだけよ」
ルシラが、肩をすくめた。
「あなたたちが、踏み込めなかった領域に、私は、踏み込んだ。それだけ」
「禁術は、人を壊す」
「壊れたのではないわ」
ルシラが、初めて、わずかに強い声で言った。
「変わったのよ。あなたたちが、ずっと足踏みしている間に、私は、答えに近づいていた」
「答え?」
エルクが、思わず聞いた。
ルシラの視線が、エルクへ向いた。
「世界が、なぜ壊れているのか。なぜ門が増えるのか。あなたたちは、それを、ただ観測するだけだった。私は、その理屈の先まで、知りたかった」
「それで、追放されたのか」
シュウが聞いた。
「追放、というのは、ずいぶん優しい言い方ね」
ルシラが、苦笑した。
「でも、間違ってはいないわ」
その口調には、自嘲とも、誇りとも、はっきりしない、複雑な響きがあった。
「あの人も、知っているのか」
エルクが、ふと、聞いた。
「勇者Aのことだ」
その問いに、ルシラの表情が、わずかに、変わった。
「知っているわ」
ルシラが、静かに答えた。
「あの人は——間違ってた」
そこで、一度、言葉が止まった。
風が、結界の縁を、静かに撫でていった。
「でも、誰より、正しかった」
その言葉に、誰も、すぐには反応できなかった。
矛盾しているはずの二つの言葉が、ルシラの口から、同じ重さで、語られていた。
「どういう意味だ」
エルクが聞いた。
ルシラは、それに、すぐには答えなかった。
ただ、空を見上げ、東の方角——レグルスの方向を、しばらく見つめていた。
「あなたにも、いつか、わかるわ」
それだけ言って、ルシラは、踵を返した。
「今日は、これで」
「待て——」
シュウが、声をかけたが、ルシラの姿は、もう、薄れ始めていた。
転移の魔法が、その輪郭を、淡く溶かしていく。
「また、来るわね」
その言葉だけを残して、ルシラは、完全に、消えた。
その場に、しばらく、誰も、何も言わなかった。
グローワが、ようやく、静かに、口を開いた。
「彼女にも——答えは、ない」
「答えがない、というのは」
ミレナンが聞いた。
「彼女自身、まだ、迷っている。それだけは、確かだ」
グローワの声には、複雑な感情が、滲んでいた。
かつての友人であり、競争相手であり、そして今は、敵となった存在への、整理しきれない想いが、その一言の中に、込められていた。




