勇者の終わり(2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
それでも、勇者Aは、諦めなかった。
世界が崩壊に向かっているという確信を持った彼は、各国の王たちに、その真実を伝えようとした。
エルナト。
ヴァルガンの前身となった国々。
レグルスの前身となった国々。
そして、エルフの国、エークレイア。
一国ずつ、彼は、自らの足で訪れた。
門の存在。
世界の分裂。
迫る崩壊。
そのすべてを、丁寧に、誠実に、説明した。
しかし、返ってくる答えは、どこも同じだった。
「興味深い話だ」
ある国の王は、そう言って、わずかに笑った。
「だが、それは、いつの話だ」
「正確な時期は、わかりません」
勇者Aが、答えた。
「百年後かもしれない。十年後かもしれない。だが、確実に近づいています」
「百年後の話を、今、心配する余裕は、我が国にはない」
王は、机の上の書類を指した。
「隣国との領土問題。今年の不作。民の不満。今ですら、手一杯だ」
「ですが——」
「証拠は、あるのか」
王が、鋭く聞いた。
「お前の感覚以外に、世界が壊れているという、明確な証拠は」
勇者Aは、答えられなかった。
彼が見ているものは、彼にしか見えない、感覚的な情報だった。
それを、誰かに、完全な形で証明する方法を、彼は、まだ持っていなかった。
「お前の功績は、誰もが知っている」
王が、言葉を続けた。
「だからこそ、これ以上、無用な不安を、民に広めないでくれ」
その国を出た後、勇者Aは、しばらく、何も言わなかった。
次の国でも、同じだった。
「英雄殿の話は、ありがたく拝聴した」
別の王は、にこやかに、しかし、明確な拒絶の色を持って言った。
「だが、我が国には、今、戦に備える必要がある。隣国が、不穏な動きを見せている」
「世界そのものが——」
「世界の話は、後でいい」
王は、それきり、話を切った。
各国を回るたびに、勇者Aの中で、何かが、少しずつ、削られていった。
命を懸けて、世界を救った。
仲間を、四人、失った。
それでも、世界は、変わらなかった。
人々は、目の前の争いに、目を奪われ続けていた。
百年後の崩壊よりも、今日の隣国との領土問題の方が、ずっと、重要な問題として扱われていた。
「誰も、聞かない」
最後の国を出た時、勇者Aは、誰もいない街道で、一人、そう呟いた。
「俺は、世界を救った。なのに、誰も、世界を救う気がない」
その声は、これまでとは、違う響きを持っていた。
怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、深く、静かに、何かが、底へ沈んでいくような声だった。
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王たちへの説得に失敗してから、勇者Aは、再び、門の調査に没頭するようになった。
「もう、誰かに頼るのは、やめた」
ある日、彼は、グローワにそう告げた。
「自分で、答えを見つける」
「何を、しようとしている」
グローワが、聞いた。
「門の奥を、もっと深く見る」
「危険すぎる」
「他に、方法がない」
その夜、勇者Aは、門の前に立った。
グローワも、その場に立ち会った。
門に手をかざした瞬間、彼の体が、わずかに、輪郭を失うように見えた。
そして、視界が、彼の内側へと、開いていった。
そこにあったのは、無数の世界だった。
崩壊していく世界。
すでに消滅した世界。
かろうじて生き延びている世界。
それぞれが、別々の歴史を持ち、別々の生命を持ち、別々の終わりを迎えていた。
そして、その先に、一つの可能性が見えた。
それぞれの世界線が、再び、一つに戻ることができる、わずかな可能性。
「分裂が、原因なら」
勇者Aの声が、震えていた。
「戻せばいい」
「やめなさい」
グローワが、強く言った。
その声には、これまでにない、明確な恐怖があった。
「世界を救える」
「それは、世界を壊すことよ」
「このままでも、滅ぶ」
勇者Aが、グローワの方を見た。
その目には、もう、迷いがなかった。
「滅びるのを待つのと、自分の手で、終わらせて、やり直すのと。どちらが——」
「同じではない」
グローワが、彼の言葉を遮った。
「やり直すということは、今ある、すべての命を、一度、終わらせるということだ。お前は、それを、わかっているのか」
「わかっている」
勇者Aが、即座に答えた。
「だからこそ、今すぐではない。準備が必要だ。時間が必要だ」
「時間など——」
「ある」
勇者Aが、強く言った。
「俺には、時間がある。お前たちのような、限られた命とは、違う」
その言葉に、グローワは、初めて、彼が、もう、人間として世界を見ていないことに、気づいた。
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その夜、ノクトが、彼のもとを訪れた。
門の前、二人だけの場所だった。
「お前は、勇者だ」
ノクトが、言った。
「だから、世界を救う」
勇者Aが、静かに答えた。
「それで、全員死ぬ」
「死ぬのではない」
勇者Aが、首を振った。
「やり直す」
「違う」
ノクトの声に、強い拒絶があった。
「それは、滅びだ」
「滅びと、再生は、表裏一体だ」
「言葉を、変えているだけだ」
ノクトが、一歩、前に出た。
「お前は、自分が正しいと、思い込もうとしている」
「正しいかどうかは、もう、関係ない」
勇者Aが、答えた。
「俺は、世界を救うために、ここに呼ばれた。仲間は、そのために死んだ。なら、最後まで、それを果たすだけだ」
「お前の言う救いは、誰も、救わない」
ノクトが、低く言った。
「魔族も。人間も。エルフも。全部、消える」
「消えるのではない。一つに戻るだけだ」
「お前自身が、信じているのか、その理屈を」
その問いに、勇者Aは、わずかに沈黙した。
長い、長い沈黙だった。
そして、静かに、答えた。
「もう、わからない。でも——他に、方法が、見つからない」
その言葉が、ノクトの中に、深く残った。
これが、彼が、勇者Aと交わした、最後の、本当の対話だった。
それ以降、彼が知る勇者Aは、もう、別の何かに、変わっていった。
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最後の調査の夜、勇者Aは、再び、門の前に立った。
グローワも、ノクトも、その場にいた。
だが、二人とも、止めることは、できなかった。
門に触れた瞬間、勇者Aの中に、大量の記憶が、流れ込んだ。
無数の世界の声。
無数の生命の記憶。
そして、その中に——かつての仲間たちの声があった。
「帰りたい」
魔術師の女性の声だった。
「助けて」
槍使いの戦士の声だった。
「なんのために」
剣士の若者の声だった。
それぞれの声が、彼の中で、何度も、何度も、繰り返された。
止めることのできない、記憶の渦だった。
勇者Aの目から、涙が、こぼれた。
「間に合わなかった」
その一言を、彼は、何度も、繰り返した。
「間に合わなかった。間に合わなかった……」
それは、後に、エルクが北部の門で視た記憶と、まったく同じものだった。
あの時、エルクが感じた、理由のわからない涙。
あの「間に合わなかった」という声。
それは、五十年前の、この夜の、勇者Aの絶望だった。
涙を流しながら、勇者Aは、しばらく、その場に、立ち続けていた。
そして、顔を上げた時、その目には、もう、絶望ではない、別の何かが、灯っていた。
「今度は」
彼が、静かに言った。
「間に合わせる」
その言葉と同時に、世界が、歪んだ。
門が、わずかに、開き始めた。
光と闇が、入り混じり、空間そのものが、軋み始めた。
ノクトが、剣を構えた。
だが、何に対して、剣を向ければいいのか、わからなかった。
グローワが、何かを叫んだ。
だが、その声は、世界の軋みに、かき消された。
二人は、ただ、それを、見ていることしか、できなかった。
勇者Aの輪郭が、ゆっくりと、薄れていった。
人としての形を、彼が、自ら、手放していくようだった。
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地下書庫の光が、再び、現在の図書館へと、戻っていった。
長い沈黙が、五人の間に、流れた。
「その日」
グローワが、静かに言った。
「勇者は、終わった」
「そして、魔王は、その先にいる」
その言葉の意味を、エルクは、すぐには理解できなかった。
だが、グローワは、それ以上、説明しなかった。
代わりに、最後のページを、エルクの前に、差し出した。
そこには、短く、こう書かれていた。
『勇者A、失踪』
『死亡確認できず』
『以後、魔王出現』
エルクは、その文字を、何度も、読み返した。
手が、わずかに、震えていた。
「つまり……」
ミレナンが、震える声で言った。
グローワが、静かに、答えた。
「ええ」
「魔王は、勇者だった」
その瞬間だった。
図書館の外、巨大な白樹が、大きく、揺れた。
風がないのに、その枝葉が、激しく波打った。
エルクは、咄嗟に、魔導双眼鏡を取り出した。
レンズの中、強烈な魔力反応が、見えた。
遠い空に、黒い裂け目が、生まれていた。
そして、その奥から、誰かの声が、聞こえた気がした。
「——時間がない」
その声は、五十年前に聞いた声と、同じ響きを持っていた。
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同じ頃、別の場所で。
ノクトは、空を見上げていた。
黒い裂け目が、遠くに見えた。
その奥に、何かが、確かに、動き出しているのを、ノクトは、感じ取っていた。
「目覚める」
ノクトが、低く呟いた。
その声には、五十年前と、同じ恐怖が、まだ、確かに残っていた。




